十九
花宵は女装ではなく、 普通の装束、 つまり自分の部屋着である直衣を纏って一息ついていた。 先ほどまで顔を合わせていた客も帰り、 ようやくの休息だ。
「はー……。 さて、 暫くはゆっくりと」
「花宵!」
「え」
自分の名を呼び捨てる若い女性の声に花宵は思わず声の方を見た。
「東雲殿?」
欄干越しに天女のような衣の、 友人の妻となった女性が切羽詰った顔で浮いていれば何かあったのだと想像に難くない。
急いでそちらに寄ると、 東雲はどうすれば良いのかわからないという瞳を向けて花宵に懇願してきた。
「ついなを助けて!」
「ついな? 何があったの」
「わからない。 けど、 普通じゃなかったわ」
「落ち着いて。 何がどうなったのか、 ゆっくり話して」
焦りを抑えて東雲が語る経緯を聞く内に、 花宵の顔から血の気が引いていく。
これはまずい。 よりによってついなの逆鱗に触れる所ではなく、 逆鱗を引っぺがしたに近い事態だと花宵は確信する。
しかも『兄上』と言っている時点でついなの弟であるのはわかっているわけだ。 ついなは吉野の長男で、 その下には弟妹がいる。 陰陽の名家に上げられるくらい、 資質のあるものを輩出する家であり今もついなの三つ下の弟が確か陰陽寮の天文生として在籍しているはずだ。
そして東雲に暴言を吐いたのは間違いなくこの弟だろうと、 花宵は頭を抱えたくなった。
「まずその件の人物が今も陰陽寮にいるか確認を」
「居たわ。 でも、 ついなはそこに来ないで、 気配が都から離れていくの」
「…………げ」
それは、 もしかしなくても最悪の方向に進んでいるのではないか。
弟の言葉は、 その者だけでなく、 恐らくその取り巻くもの達の言葉でもある。 周囲がそう言っていなければそこまで堂々と自分が正しいというかのような物言いは出来まい。
そして、 ついなもそんな事はとうに気付いているだろう。
ならば、 本人の所にいかないという事は、 その大元からどうにかするつもりの可能性が非常に高かった。
「東雲殿、 緊急事態です。 恐らくついなは吉野に向かっているので、 ついなが事を起こす前に瑞穂の所に行って下さい。 私に緊急事態だから訪ねる様に言われたと言えば恐らく察してくれます!」
「わかったわ」
東雲が頷いて飛び去るのを見送り、 花宵は踵を返す。 こちらはこちらで、 やることが出来てしまった。
―――― 大人しくしていれば良かったものを。
ついなは都に来た頃からの付き合いである少々大きな猫の背でそう考えて薄く笑んだ。
一応の義理と義務で、 本家に妻を娶ったと報告した時にも腹が立ったが、 あの時は彼女の耳をそんな言葉で汚さなかったからしばらく捨て置いていいかと保留していたのに。
「どうしても、 今すぐ絶やしてほしいらしいですね」
産み育てられた恩があるから、 思いとどまっていたと言うのにそれもわからず、 よりにもよって直接彼女に。 しかも自分の思ってもいない事を吹き込んだ。
腸が煮えくり返るくらいでは納まらない。
「どうしてやろうか……嗚呼、 それこそ全員、 本物の異形に変えてやろうか。 ただ絶やしても面白くない」
完全に台詞が悪役のものだ。
猫の背で暗い笑い声を響かせて山道を進む様子はもうむしろ調伏対象にしか見えないだろう。
「こら待て、 そこの馬鹿」
疾走する猫の前方で、 木々の梢を揺らして風が渦巻いた。
猫が渦巻く風の前で足を止め、 風が収まったそこには瑞穂と東雲、 そして瑞木の姿がある。
「そこを退いて下さい?」
微笑みながら猫の背に腰掛けたままついながそう言う。
「できるか馬鹿。 どういうつもりだ」
「どういうつもりも何も……瑞穂、 わかるでしょう?」
「そうじゃない。 お前、 わからないのか?」
「?」
瑞穂が憤懣やる方ない面持ちで、 首を傾げるついなに一瞥を投げ、 顎をしゃくって見せた。 ついながその先を目で追い、 そして固まる。
「しの、 の、 め?」
「……………………」
先ほどの風は彼女が操って瑞穂達を運んだのだろうとは思っていた。 だから、 彼女がここに居る事も驚かない。
けれど、 そうではなくて。
「東雲、 どこか痛いんですか? どうしたんです?」
痛みを堪えるかのように、 苦しそうで辛そうな表情の彼女がそこにいて。
「ついな最低ー。 しのちゃんが可哀想じゃない」
「え」
じとっとした瑞木の視線と言葉に、 どうやら東雲のその表情の原因は自分らしいと知れて、 ついなは慌てて猫の背から降りて東雲の側へと駆け寄る。
「東雲? あの、 どうしてそんな顔を」
そっと心配げな顔でついながそちらに手を伸ばすと、 東雲はその手を避けた。
避けられた! とついなは内心衝撃を受けたのだが、 瑞穂はそれを横目にぽつりと言う。
「当たり前だ。 この、 馬鹿」