十八
ついなは食べ終わった膳を片付けて部屋で書でも読もうかと廂へと足を踏み入れた。
空には雲ひとつなく、 蒼が一面に広がっている。
「良い天気ですね。 書の虫干しでもしようかな」
ようやく立ち直って部屋から出たら、 東雲の姿は既に無かった。 用意された膳は勿論美味しかったのだが、 ついなはもっと早く行かなかった事を後悔しながらそれを食したのだ。
「ついな」
「うわぁ!?」
まだ昼なのに黄昏ていたついなは、 何だか慨視感のある事態に思わず肩を竦ませるも振り返る。
「東雲……おかえりなさい」
萌黄色の長い髪は日の光に透けていつ見ても美しい。 白い肌も緑の瞳も。
そんな事を思って懲りずに見惚れそうになっていたついなの意識は、 次の東雲が発した言葉によって砕かれた。
「私は、 妻ではなく『式神』として必要とされているの?」
「―――――――― は?」
深い森の緑を宿した瞳はただついなを見ている。 そこには怒りも何もない。 きっとこれは唯の問いで、 確認だ。
けれど、
「誰がそんな事を君に言ったんです?」
ついなの声はそれまで東雲が聞いた事の無いほど怜悧で冴え冴えと、 全てを凍えさせようとするかのように冷たかった。
声を荒げられなくてもわかる。 殺気と同等の、 怒気だ。
「質問しているのは私よ」
「そうでしたね。 では答えは、 『有り得ない』です。 今度は私からの質問に答えて下さい。 誰が、 君に、 そんな『有り得ない』戯言にも劣る侮辱を、 吹き込みました?」
後半が一言一言区切るように発される。 黒いついなの瞳孔は大きく開き、 まるで虚無の入り口のようだった。
精霊は自然の気が凝ったもの故に、 人の感情の機微に疎い所がある。 東雲も例に漏れずそうだから、 色々とわからずに苦戦している現状のわけなのだが、 その彼女にも今のついなの発する不穏極まりない何かは感じ取れた。
自分に向けられているのではないけれど、 これは何かまずいのではないかと、 そう感じて。
「東雲」
黙ってどうしようかと躊躇っていた東雲に、 ついなが逃がさないと言うかのように名を呼んだ。
うっそりと微笑むついなの顔は瞳に宿る何かと雰囲気を気にしなければ、 とても優しそうに見える。
ただし、 気にしなければ、 の話だ。
「…………名前は知らないわ」
「では、 どこでお会いになりました?」
「……陰陽寮」
「正確に、 言われた事を言って頂けますか?」
黒い瞳は全然笑わない。 微笑だが、 笑みはどこに行ったのか。
自分の質問に答えたのだから、 今度は相手の質問に答えるという義務が生じてしまっている。 それは契約と同じく、 互いに対価を支払わなければならない理だ。
いつものついなと違う様子に東雲は戸惑いながらも、 その義務に従って陰陽寮で言われた言葉を繰り返した。
「そうなのかと聞いてみたら『そうでなければお前のような異形のどこが人間の姫に勝る。 その力以外にお前に価値などないではないか。 勘違いするなよ、 化け物が』と言っていたから。 ……それなら別に、 それでも良いし、 ついなの妻ではなく式神としてなら力になれるから」
「…………―――― 東雲」
「はい」
「ちょっと、 出てきます。 帰りが遅くなるかも知れませんから」
「ついな?」
聞き終えたついなの顔からは、 一切の表情が抜け落ちていた。 人間、 表情がないとここまで無機質になるのかという見本のような顔だ。
流石にこれは冗談ではなく危ない。 そう感じた東雲は咄嗟についなの腕を掴む。
「東雲、 どうしました?」
キョトンと目を瞬くその様子はいつものついなに戻っている。 けれど、 東雲は言い知れない胸騒ぎに掴んだ手にぎゅっと力を込めた。
「何をするつもり?」
ふわりとついなが微笑む。 東雲に向ける微笑はもう完全にいつものものなのに。
「すぐに終わらせますから、 東雲は何も心配しなくて大丈夫ですよ」
「私は、 そう言うことを聞いているのではないわ」
「申し訳ありません。 言ったら止められそうですから、 言いません。 止めないと約束して下さるなら、 お話しますよ?」
「私が止めるような事をするつもり?」
「東雲は、 優しすぎます。 その場で、 八つ裂きにしてきても良かったのに」
こいつ何か言った! と東雲はそこに混じった不穏な言葉に思った。
「……東雲、 私はそんなつもりで君に妻問いをしたわけでは絶対にありません。 信じてくれるなら、 この手を離して下さい」
諭すかのように優しく言うついなに、 東雲は唇を噛んだ。
そんな事を言われたら、 精霊である東雲は手を離すしかない。 信じないとするなら、 精霊はその全てが信じられなくなってしまう。 精霊は嘘はつけない。 人とは存在する理が違う。
その心、 魂だけが存在を形作っている。 だから、 自分を偽れば歪み、 やがて壊れて消えてしまう。 その人を信じないと言ってしまったら、 本当にもう信じられなくなってしまうのだ。
離したくないと思っても、 東雲はついなを信じるなら、 ついなの気持ちを信じるなら、 手を離すしかなかった。
指先が震える。 そんな事は初めてだった。
東雲の手が腕を離すと、 ついなは優しく微笑みかける。
「ありがとう。 すぐですから、 待っていて下さい」
そう言って、 ついなは家を出た。