十七
「あの、 嫌なわけじゃ、 無いんですよ?」
「…………」
「ただ、 その、 なんというか、 えーと」
言いあぐねるついなに、 東雲は無言で立ち上がる。
「東雲…………?」
様子を伺うようについなは、 東雲に声を掛けた。
立ち上がった東雲は特に怒った様子もなくついなを振り返り、 言う。
「朝餉、 食べないの?」
「頂きます」
「じゃあ準備するわ」
器によそるだけ、 ではあるけど。
東雲が出ていくと、 ついなはぐってりとその場に突っ伏した。
「……………………」
重ねて言う。 ついなは性格に難あれど健全な十八の青年である。
今さらそちらの知識が無いわけでも絶対無い。 着替えなどそちらに比べれば全て脱ぐわけでもあるまいし、 色めいた雰囲気など皆無。 ましてや東雲である。 言葉通りに着替えを手伝うだけで、 それ以外の意味など欠片も無いに違いない。
だがしかし、 東雲、 なのだ。
「まさかこんなになるなんて…………」
東雲に、 恋をしている。
他の誰が同じ事をしようとどうでも良い。 けれど、 彼女の一挙一動に、 自分は揺さぶられ覚束無くなる。
自分がこんな風になるなんて、 予想もしていなかった。
確実に妻にと乞うた時よりも急激なくらい、 恋い慕っている。
一目惚れはきっかけに過ぎない。
「…………」
真っ赤に染まった顔を隠すように、 ついなは片手で顔を覆った。
―――― 好きです。
可笑しいくらいみっともない。 風に舞う木の葉よりも頼りなく不安定。
これまでも恐らくこれからも、 彼女以外に自分をこんなにおかしくする人はいない。
深刻化する病の名は恋。
今まで、 恋し焦がれて死んだとかいう話を大袈裟だと思っていたが、 自分が間違っていた。
これは死ぬ。
もし今、 東雲と二度と会えないとかになったら、 狂い死ぬ。 それは半ば当たり前のように心に浮かんだ。
頬は未だに朱を帯びて熱い。
ついなはノロノロと着替えに這い出し、 嬉しさと情けなさの入り交じった溜め息を吐いた。
妻らしい事をしようと思ったのに、 しなくて良いと言われてしまった。
朝餉の膳を整えて、 東雲は緑の瞳を伏せる。
「何が駄目なのかしら……何が足りないの?」
ぽつりと呟き、 東雲は庭へと降りた。
そろそろ陽も上にくる。 軽く地を蹴り、 空へと舞い上がれば、 いつもついなが出仕している大内裏が見えた。 ついなはまだ部屋から出てこない。
東雲はそのままふわりと大内裏へと向かう。
花宵の所に行って相談してみるのも手かと思ったのだが、 その前に陰陽寮へと東雲は降り立った。
常人には東雲の姿は見えない。 東雲が意識して見せようとすれば常人にも視認できるのだが、 そうでなければ精霊を見ることが出来るのは見鬼と呼ばれる資質を持っている者だけ。
だから、 こうして寮の庭に女性が降り立っていても誰も騒がない。 見えないから。
見えないのは、 いないと同じ事。
ふと、 東雲は思った。
ついなも、 見鬼の資質がなければ東雲を見ることはなかっただろう。
そうしたら、 彼に妻になってくれと言われる事もなかったのだろうかと。 それは当たり前なのに、 何故か心に影が差す。
まだ妻にと乞われて受けたあの時からそれほど長い時間が過ぎてはいないのに、 自身でもわからない感情が増えた。 胸が締め付けられるような感覚があったかと思えば、 急に顔が火照るような熱が生まれる。 めまぐるしく浮かんでは消え、 そしてまた押し寄せる波のような感情。
時に不快で、 時にそっと手のひらで包んで慈しみたい何か。
「…………ついな」
ぽつりと口に出す名。 それだけで、 人間のような身体ではない筈の自身の胸で高く鼓動があるような感覚を覚えた。 口にした名は、 甘露と呼ぶには苦いけれど。
名を呼んだ声が溜息に変わる。
どうすれば、 もっと近づけるのだろうか。
そんな事を考えていると、 不意に視線を感じてそちらへと顔を向ける。
そこには東雲を睨みつける一人の青年がいた。 年はついなよりも二つもしくは三つほど下だろう。
睨み付けてくる青年は、 東雲が気付いた事で一層忌々しそうに東雲を見て、 口を開いた。
「こんな所にまで入り込むとは、 厚かましい異形だ」
「…………?」
異形、 と言うのが自分の事を指しているのだろうというのは東雲にもわかった。 けれど、 厚かましいとはどういう事なのかがわからず首を傾げる。
「おぞましい。 気味の悪い。 何故兄上はこんなものを……」
嫌悪感を隠しもしないその黒い瞳には、 浅葱色の髪と緑の瞳の自分。
「兄上……? それは、 ついなの事?」
「軽々しく呼ぶな異形。 どんな邪な術で兄上を誑かしたか知らぬが、 そのようなものすぐに破って正気に戻してやる」
「私は何もしていないわ」
むしろ何かしようとしても断られるのに。 東雲は不思議そうに首を傾げる。
「そんな筈がないだろう! そうでなければお前のようなもの、 式として使うのが当然だと言うのに妻になどしようわけがないのだから」
青年の言葉に、 東雲は目を瞠った。