――遭遇――
前回から投稿時間がかなり開いてしまいましたが、書き溜めていたわけではありません。定例試験ゴッコやってたのです。いやあ、つらかった。
なので、書き方が微妙に前回までと変わっているのは時期が開いたせいです。よろしくお願いします。
【5】
視界はあまねく藍色。
はげた枯れ木に、石像のように凍結した草花、どれもこれもが同じ色。空も、背景も藍色。地平線との区別がまるでつかないほどの、のっぺりとした色。
斜め前方で、影が浮遊している。
ぼんやりと白い、かげおくり然とした見覚えのあるシルエット……。正体は鳥だった。それも、かなり大型の。
鳥が、やおら旋回運動を始めた。現実ならば絶対に回り得ない、ある一方向へと飛び続ける。みるみる加速し、残像を親兄弟のごとく量産する。丸時計の長針がとんでもない速度で時を刻んでいるかのような、そんな回り方である。
ジェットエンジンを搭載しているはずもないのに、鳥は、高く鋭い音響をまとって飛翔する。キィィイイン……と、耳に覚えがあるような、やっぱりないような、研ぎ澄まされた機械的な音だった。
ほどなく残像は連結し、ぼんやりと白い輪を宙に描きだした。まるで、満月の輪郭のみを石灰でかたどったかのよう。
円輪の中側が、いつの間にか人間の顔とすり替わっていた。
顔つきからして、男性であることに間違いない。
藍色の肌。生きているとは思えない、無感動の表情。
我が目を疑った。
こんな、喜怒哀楽が欠落したような。顔面と仮面とが、黒魔術じみた魔法で結合したかのような無表情の怪物が。私の、本物の……。
……お父さん?
(お父さん!)
蒼ざめた上下の唇が言語を形づくる。
……フミ。と、亀裂だらけの、しゃがれた声を投げかける。
……フミ。名を呼ぶ。……フミ。どうして、私の名前を知っているの?
……フミ。こら、フミ。お父さんに、挨拶なさい。髪の長い女が、背後から両の肩に手を添えた。ガツン、と脳天に電撃を食らった。稲妻が、空気を小刻みに震わせる。身体が硬直する。そして――。
*
(……稲妻?)
顔を上げる。と、扶実は辺りを見渡して、眉をひそめた。
(なにか、光った?)
便利なもので、あれだけ散漫していた眠気は覚醒と同時に中和され、瞬時に違和感の破片を組み合わせることができた。
「――誰ですか」
……殺風景な、荒野と思しき風景。月と融合した、父親のものらしき顔。自分を呼び寄せる声。黒髪の女……。それから、そう、ストロボを焚いたような電撃。真っ白な電気……。
扶実の目にしていた状景は、しょせんは妄想の産んだ単なる“悪夢”の一種でしかなかった。
しかし、夢の終極付近で目にした、稲光。あれだけがやけに、現実味を帯びていたように思えた。寝ているすきに、懐中電灯の光でも当てられたような……。そんな気がしたのだったが――。
仄暗い闇に目を凝らしてみるも、人影は発見できず。誰かが倉庫に侵入した痕跡も見受けられない。学園の敷地内を巡視する教師に見つかったわけではない。
ならば、あの光も夢の一部だったと、そういうことなのか。……釈然としないが、そうとしか考えられないし、
(勘違い、だったのかな)
と、扶実は、ひとまず納得するようにした。
それにしても、倉庫に閉じこめられてから経過した時間は幾程なのだろう。扶実は推し測る。体内時計をあてにすれば、三十分か、四十分。終礼のチャイムが鳴らされていないことから、五限目の真っただ中なのだろうとは見当がついた。
膝を抱えて眠ったせいで、全身の関節がぎしぎしと痛んだ。制服は、相変わらず水と埃にまみれたままだった。汚水が下着にまで浸透している。尻のぐっしょりとした感覚が気持ち悪く、扶実は、スカートを払いながら立ちあがった。寒気も、相変わらず消え去らぬままである。
すっかり目が冴えた。彼女は、周辺に財布が隠されていないかを確かめてみることにした。
あの財布には幾らかの小銭に、それと千円札が二枚も入れてあった。二千円で、自分と母の晩御飯をやりくりしなければならない。のに、それなのに――。どこにも見当たらない。
心持ち、諦め半分だった。
地面の中央を、スポットライトのように照らす陽光だけでは、闇が占める割合を補いきれていない。そのうえ、備品が所狭しと壁に沿って並び立ち、扶実の目では調べられない場所も多い。おまけに、香奈江が紙幣をネコババしていないとも限らない。はなから期待はしていなかった。どうせ、探すだけ無駄なのだろう。と――。
(あ。これ……)
ハンドゴールのサイドネットと、たくさんのサッカーボールが放りこんである特注の籠とが並列するその奥部で、思い出深い一品を意図せず発見した。これは……。
低身長のハードルである。高さから見積もるに、女子専用の備品らしかった。
当時、小学校での交遊範囲もせまく、気持ちが暗澹としていた娘を見かねた母の薦めで、中学時代、扶実は陸上部に所属する運びとなる。
奇縁、というべきなのか、このときに彼女は走りの才能を開花させ、一度ならず関東大会への出場権を手に入れた。エースの肩書きが相応しかった。友人は相変わらず少なかったけれど、顧問からの信頼は厚かった。逸材だ、走りの天才だ、と折に触れて奨励された。
満更でもなかった。見限られるより、期待されているほうが、頑張ろうという気になれる。
自分の悪癖を改変するチャンスだと思った。ここぞという局面でベストな記録を残せれば、なにか劇的な変化は訪れなくとも、「人間不信」からくる日々のうすら寒さに決着をつけられるのではないだろうか。ないし決着をつける足掛かり、武器になり得るのではないだろうか。中学生の扶実は、そう気合を入れたものだった。
――だがしかし、数週間後に中三への進級をひかえた(……私なりに、頑張ろうと思っていた)、依然として正月の寒さが抜けきらない時期に(放課後、部室で……)起こった……。裏切り。
扶実の希望が崩壊し、またそれによって、彼女は再び他人を信用できない、信頼したくない体質に逆戻りしてしまう“陰湿な事件”が発生するのだったが、
(いけない!)
扶実は頭を小突いた。
(もう、終わったことじゃない。考えちゃ駄目……)
自分自身を叱りつけ、ハードルから目を離す。
過去を回想して何の利益になるというのか。気落ちするだけなのだから、思い出すだけ不都合だ。
現状を打破することだけ考えろ。
――さて、何をしたら良いものか、と腰に手を当て、気を滅入らせる。
前髪から水滴が一粒したたり落ちた。ちょうどそのとき、
ざりっ……
「えっ」
倉庫の外で音がした。最初、風に揺られた木の葉が掠れ合う音かと思った。
(この音……)
が、それにしては少々音質が硬いようにも聞こえた。
ざっ……ざりっ……
こっちに向かっている。それが人間の足音であると感知した扶実は、さっとドアから退いた。巡回中の先生だ、と踏んだのだった。
物音を立てないようゆっくりと腰を折り、籠の陰に半身を滑りこませた。
(いやでも、待って……)
(……用務員のひとかもしれない)
呼びとめるべきか決めあぐねた。音の主は教員なのかもしれないが、パートの早番の可能性だって残されていないでもない。
耳を研ぎ澄ます。どちらとも判別がつくような、なにか決定的な証拠が欲しい。
音は、校舎の建つ方角からやってくる――グラウンドにおもむく途中なのだろう――。
仮に、足音の人物が教師だったとして、あんな学園の端っこまで、しかも昼間から、ふつう見廻りなんてするものなのか。そうとは考えにくいのではないか、と今更ながら、扶実はいぶかしんだ。
冷静に順序立ててみればそう、早めに仕事場に駆けつけた用務員である可能性のほうが、断然高いのではなかろうか。
ざりっ……ざりりっ……
(……それになんだか、この音)
片足だけで進み出、そうしてからその軸足に片一方を引きつけている――片方の足を引きずっている――感じがする。千鳥足、の単語が浮かんだ。
酔っ払っている……?
教師が、勤務中に酒を飲むわけがない。ならば……。
(きっと大丈夫)
(――よし)
足音がひときわ大きくなった。くだんの人物が、倉庫の手前の道に差しかかったのだ。
扶実は腹を決めた。物陰から右半身だけを覗かせて、すみません、と、おずおずと声をかける。
――と、次の瞬間。
「きゃああっ」
戸扉が殴られたように荒立ち、痩躯な扶実を飛びあがらせた。
荒屋とさほど差異のない古びた倉庫全体が、痛みを我慢するように低く軋んだ。
かび臭い埃がぱらぱらと降ってくる。
突然の音に驚き、後ろにひっくり返った扶実の両掌は、独りでに鼻と口を覆っていた。
ドンッ、ともう一発。扉に乱暴な力が振るわれた。またもや、建物がミシミシと軋む。
読んで字のごとく、開いた口が塞がらない扶実などお構いなしに、足音の人物は連続して、扉を力いっぱい叩きつける。ドアを打ち砕こうとする邪悪な意志が、その暴力具合から容易に見てとれた。
えっ、と喉がつかえた。「なんで。どうして」という混乱に「何が起こっているのか。これから何が起ころうとしているのか」という空恐ろしさが二重に合わさり、扶実は満足に声もあげられなかった。
「あの……」
やっとの思いでひり出した問いかけは、蚊が鳴くように脆弱で、怯えから震えている。
「……やだ。もう、なんなの……」
耐久力の尽きた扉が断末魔をとどろかせ、扶実の言葉を掻き消した。一本の生白い肘から手首にかけてが、古びた木板を突き破ったのである。
黄色い陽光が、壊れたドアの隙間から室内を照りつけた。
その白い肌の表層には、醜悪なミミズを連想させる血管がびっしりと浮かびあがっていた。
「ひっ!」
釣られた魚が尾ひれをばたつかせるように、血色の悪い腕はめちゃくちゃに暴れまわり、扶実をぎょっとさせる。
細やかな木片で皮膚を傷物にしようとも、怪我を配慮した仕草をはさむことがない。
アルコールの過剰摂取で気分が高揚し、痛覚が鈍くなっているのだろうか。悪酔いにもほどがある。
正常な判断能力が欠如してしまっているんだ! 酔漢。暴漢。不審者。職務怠慢。――差し迫った身の危険に、扶実の肌はぴりぴりと粟立った。
女子高校生が白昼堂々暴行されるなんて事件も、きょうび珍しくない。
逃げ場のない密室……。酒の魔力……。最悪の事態を念頭におき、それに見合った対応をしなければならない気がした。
(――そうだ)
扶実は迫りあがる身体の震えを抑えながら、まろぶようにサッカーボール籠を離れた。這ってドアのそばまで移動すると、息を殺し、出入口がある壁面に背を押しつける。
誰かが部屋に入ってきても、ここなら数秒間は死角の役割を果たすはず。その隙を突いて、外へと飛び出す作戦だった。
お願い、ばれないで。扶実はすがりつくように祈った。ともすれば、見苦しく大声でわめき散らしてしまいそうだった。ぎゅっと目を閉じ、そして薄目を開けてから真横を一見した。
扉に張られた何枚もの板が、暴れる片腕によって縦長にめりめりと引き裂かれ、広がった傷口から、二本目の腕が投入される。すでに扉には、大の大人が優に潜れるほどの傷穴ができあがっている。
来る、と確信した。
扶実が覚悟を固めた折も折、ドアの腹に空いた大穴から、人影がぬうっと現れた。
顔を下に向けているが(オトコだ! と、このとき扶実はまた確信する)、その服には目覚えがあった。水色の半袖シャツに、白っぽいズボン……。
用務員のユニホームであることに動揺を隠しきれない扶実のすぐ隣りで、男は、肩から豪勢に崩れ落ちた。
「あ……」
起きあがろうと膝を立てる男に、扶実はあろうことか手を貸そうとした(……いけない!)。が、ただちにその気迷いを払い消すと、その怪人から目を逸らし、死に物狂いでドアの穴を潜り抜ける。
逃げないと!
捕まる。――捕まってしまう!
外は晴天に恵まれた、爽やかな空模様であった。
助けを呼ぶため、校舎方面へ駆けだしたは良いものの、数歩走っただけで膝がかくんと折れてしまう。扶実は息急きながら金網にしがみつき、なんとか体勢を立て直した。
(そんな、嘘でしょう……)
歯痒かったし不請ではあったが、走れない以上、伝い歩きで逃げるしかなかった。
網に指をかけ、身体と足を進行方向に引き寄せて……男から、ひいては危険から逃れようとする。生後まもない赤ん坊が手すりに寄り添い、なんとかバランスを保って歩行するように。扶実もまた注意深い足取りで、一歩、さらに一歩と踏みしめる。
「んんっ……」
その足がついに完全に停止したのは、背面にただならぬ気配を感じ取ってからだった。
男が、猛然と扶実の後を追っていた。
その瞳を見て、扶実はびくっと双肩を弾ませた。わなわなと腕が震え、金網が細かく振動する。
――男の、かっと見開かれたその目。――その顔。
見てはならないものを見てしまった、と一瞬間で後悔した。足がすくんで動けなかった。本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らしているのだが、扶実は呆気にとられるばかりで、おろおろと目線を彷徨わせてばかりで――。
充血した双眸は、収穫期を逸して、ぶよぶよに肥大化したミニトマトを思わせた。
そこを流れ出た赤黒い液体は小川となって両頬を伝い、顎をしたたり落ちている。
ある特定の生臭さが鼻を突いた。それも限りなく色濃く、濃密な。昼間の青空と、不調和といえばあまりに不調和な血の匂い。
男の容貌は、ひと目で畸形と分かる態を成していた。
太い血管と細い血管がぷっくりと膨らみ。顔面のいたるところで、蚯蚓腫れを悪化させたような赤い線、青い線は交差していて……。
「……いや」
(こっちに来ないで!)
(逃げなきゃ。はやく、はやく)
理性はかたくなに拒絶反応を示すのだが、いかんせん強張った手足ではそれを実行に結びつけられない。立ち往生である。
「こないで……」
それを口に出してみたところで、転機が舞い込むはずもなかった。
男は、扶実との距離をぐんぐん詰めるのだった。差しだした右手は、扶実の身体に向けられている。二の腕にも、水ぶくれのように太った血管が無数に浮いていた。
扶実は首を横に振り、嘆くように云った。
「こないで……」
第一章、完。(今度こそ本当)
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