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雑文集

詩に関するメモ

作者: illumina

 詩とは何か、という問いは、心はどこから来るのか、生とは何か、などと言った根源的な諸問題と並ぶ永遠の問題のひとつであり、この問いに対する必要十分な答えといえば「詩と宣言されたものが詩である」という身も蓋もないものしか存在しないように思われるが、詩論となると話は別である。というのも詩論はおよそ詩と呼ばれるものすべてを生成可能にするアルゴリズムではなく、詩と呼ばれるものの部分集合を生成するためのものだからである。換言すれば、詩論を言葉の集合から詩の集合への写像とすると、詩論は全射でも単射でもない(正確には写像ですらないが……)ということである。それ故以下の詩論は「私の」詩論であり、それ以上のなにものでもない(もしそうでないとすれば、以下の文章は「詩と呼ばれるものが詩である」という一言に要約されることになるだろう)。


 まずはじめに簡単な言語分析を行おう。岩成達也が指摘しているように「犬が走っている」と書くのと「犬が/走って/いる」("/"は改行を表す)と書くのでは得られる効果が全く異なる。前者ではすべての単語が論理的に隙間なく結びついており、一つの一貫した連続体を形成しているが、後者では"犬が"と"走って"の間、"走って"と"いる"の間に行間があり、動詞"走る"の連用形が"犬"に結びかずに文脈から遊離することができるだけの自由度がある。"走って"と"いる"の間にも同様の事態が起こっている。


 この遊離の結果、文に想像の余地が生まれ、意味が多義的になるのは明らかである。だが、それだけではなく、区切りには、それぞれの語の音、特に最後の音に注目させるという機能もある。実際、「犬が/走って/いる」という文をわれわれが読むとき、"犬が"、"走って"、"いる"のそれぞれの末尾、"が"、"て"、"る"に、われわれは少々拙いコード進行のような落ち着かない感覚を覚えるはずだ。


 ところでこの区切り、つまり"/"と"/"の間が非常に長ければどうだろうか。例えば、「Yesだって先にはぜったいしなかったことよ朝の食事を卵2つつけてベッドの中で食べたいと言うなんてシティアームズホテルを引きはらってからはずうっとあのころあのひとは亭しゅ関ぱくでいつも病人みたいな声を出して引きこもっているみたいなふりをしていっしょけんめいあのしわくちゃなミセス・オーダンの気を引こうとして自ぶんではずいぶん取り入っているつもりだったのに」という文を一塊としてとらえた時、依然として意味の遊離や音への注目が起こるだろうか。もちろんそんなわけはない。つまり長すぎる区切りは意味をなさないのだ(念のためいっておくが、私はジョイスが嫌いなわけではない。ただ散文的な詩的言語は今回の詩論の射程外であるだけである)。


 以上の考察から私は詩の構成単位を、長すぎない一塊の文字列とする。とはいえ、この定義は斬新でもなんでもない。例えば、晩年のマラルメは「一望できる語の並びが言語の不完全性を解消する」という考えに達して実践していたし、なによりこれはあらゆる詩人が無意識に感じていることである。


 この構成単位を形成するにあたって重要なのは、それが喚起するイメージと末尾の音である。イメージは詩におけるメロディーを、末尾の音は詩におけるコードのルート音を与える。これらに加えて、構成単位の長さやリズムを音楽のリズムに、フォントを音色に、構成単位の配置を演奏法に対応させることができる。


 このように考えることで、詩作の問題は作曲の問題に帰着する。詩≒音楽。これを本論の結論とする。



/*

 とはいえ、詩作の自動化は作曲の自動化と比べると困難なように思われる。というのは詩におけるメロディー、すなわち構成単位が喚起するイメージは、単に美しいだけではだめで、他の構成単位との間に何らかの意味的ないしニュアンス的つながりが存在し、その内容が全体として調和していることが要求されるからである。

*/


/*

 しかし、コンピューターが詩作に無用というわけではない。むしろ、コンピューターを使えばランダムに単語を組み合わせることができるので、非凡なイメージを備えた構成単位を作るのが容易になるという利点がある。つまり、コンピューターは詩作を大きく楽にする存在となりうるのだ。

*/


/*

 また、「詩≒音楽」という結論に対しては「本当に詩は音楽たりえるのか?」あるいは「詩は音楽に劣るのではないか?」、といった類の疑念が常に付きまとうが、これらの問いについてはいくら机上の論を並べ立てても仕方がないので実例として、マラルメの『賽の一振り』(ttp://www.poetryintranslation.com/PITBR/French/MallarmeUnCoupdeDes.htm)を見て貰いたい。この詩編は詩が交響曲たりえることを十全に示しているといえる。

*/


/*

 とはいえこれだけでは、ある種の音楽に特有の速度感に相当するものを詩が獲得できるのか、という懸念が残るかもしれない。この懸念に対しては例えばツァラのCircuit total par la lune et par la couleur (ttp://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/dada/3/11.htm)が十分な返答となっているだろう。詩においてはリズムと意味上の断絶が速度を構成するのである。あるいはもっと普通の種類の音楽的な詩としては、例えばヴェルレーヌのC'est l'extase langoureuseが挙げられる。

*/


/*

 また、中毒性に関しても詩は音楽に引けを取らない。これに関しては自分に合った詩を見つけて没頭してもらう他無いので、ここではブルトンの言葉を引くだけにとどめよう。「(シュルレアリスムは)それに没頭しているひとびとに対して、好きなときにそれを放棄することをゆるさない。どう考えても、それは麻薬のように精神にはたらきかけるものにちがいない」(『シュルレアリスム第一宣言』)。

*/


/*

 と、まぁこんな感じで、思いつきで書いた私の暫定的な詩論は、詩は必ずしも魂の叫びである必要はなく、定型詩である必要もない、という点においていくぶんか現代的である一方、全く無意味な詩は認めない、という点においていくぶんか保守的であり、行分け詩およびその拡張とみなすことのできない、散文詩やその他前衛的な詩については射程外である。

*/


/*

 最後にこの論を構成するに当たって強く意識した先人とその考えについて簡単に紹介しておく。


 マラルメ……19世紀最高の詩人。「世界は一冊の書物に至るために作られている」とか「音楽からその富を奪い返す」とか言ってしまったりするほどの文学至上主義者であり、完璧を目指すが故に詩が書けない、という不能力に苦しんだ人物であるが、その私生活は至って普通で、思わずにやけてしまうようなエピソードもある。彼の美に対する態度は「イデア論」の一言に要約される。すなわち、現実世界に存在しないものを隠喩・仄めかしを重ねることで詩の中で整形・現前させる、という考えである。彼はこの考えを持つ一方で、単語間の力関係から自ずと生まれる、必然的な構成を持った詩を書くことを目指した。また、彼が、詩は音楽よりも優れたものになりうると主張する理由は、注意深く構成された詩句はその意味作用によって、所詮は感覚的なものに過ぎない音よりも、より豊饒なものを含みうるからである。


 岩成達也……戦後日本最高の詩人のひとり。哲学論文やヌーヴォーロマンを思わせるような散文詩を書く。冒頭に挙げた「犬が/走って/いる」云々の部分は、彼が若かりし時に書いた、行分け詩を時代遅れとする論考に拠る。彼は若い頃から詩を定義しようと試みており、『詩の方へ』では「詩とは、言語によって世界を超出しようとする営為である」と論じる。


 カント……『判断力批判』にて、マラルメと同じく詩の音楽に対する優位を説く(ただし留保付き)。その理由は、音楽は単純な感覚の遊びに過ぎないのに対し、詩は論理を操ることができ、また人を啓蒙できるから。


 ツァラ……ダダイズムの創始者。既存の芸術を否定し、シュルレアリスムに帰化するまで殆ど無意味な詩を書き続けた過激な思想の持ち主であるが、本人の性格は過激と言うよりむしろ、知的なシャイボーイといったところである。一見、全くの荒唐無稽に見える彼の詩は、次々に繰り出されるイメージ群が調和して、論理とは別の次元でひとつの世界を構築している。また、彼は「表現手段としての詩」と「精神活動としての詩」を区別して、後者の優位を説いた。

 

*/


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