夫に一度も「ありがとう」と言われなかった私、異世界で女王として崇められています
結婚八年。
私が夫に「ありがとう」と言われた回数は、ゼロ。
その間にこなした家事の回数は、たぶん、数えきれない。
熱を出した子どもを病院へ運び、洗濯を回し、夕食を作り、義母の長電話に二時間付き合った。
その夜、夫はソファでスマホを眺めたまま、こう言った。
「お前さ、専業主婦なんだから家事くらい完璧にやれよ。俺は外で疲れてんの」
味噌汁が少しぬるい。
たったそれだけのことで。
その一言で、私の中の何かが、ぷつりと切れた。
いつからだろう。
私が、自分の名前で呼ばれなくなったのは。
「おい」「お前」「ママ」。
役割の名前だけが残り、佐倉美咲という人間は、家の中でゆっくり透明になっていった。
その夜、洗い物を終えた美咲は、ふと天井がやけに高く感じた。
指先が冷たくなり、視界が白く溶ける。
「あ、倒れ――」
そう思った瞬間には、もう床は消えていた。
◇ ◇ ◇
目を開けると、見たこともない石造りの広間にいた。
色とりどりのローブをまとった人々が、美咲を取り囲んで膝をついている。
中央の白髪の老人――宰相が、震える声で言った。
「おお……『すべてを整える聖女』様……ついに、おいでくださった……!」
聞けば、この国――エルデア王国は、三年続く飢饉と混乱に瀕していた。
痩せ衰えた土地は作物を実らせず、家々は崩れ、民は疲弊しきっている。
「実は……我が国には今、王がおりませぬ」
宰相は声を落として続けた。
「先の王は、飢饉の最中に病で世を去られました。
お世継ぎもなく、王家の血は絶えてしまったのです。
残された我ら家臣が、どうにか国を支えてはおりますが……
民を導く、真の主が要る。
神託は、その御方を遣わすと告げました」
荒れ果てた玉座は、長らく空いたままだった。
秩序を取り戻し、空位の王座に座るべき者。
それを神託に従って召喚したのが、美咲だったのだ。
宰相が恐る恐る差し出した魔導書には、必要な「聖女の力」がずらりと記されていた。
広範囲を清浄化する力。
乏しい食材を最大限に活かす錬成。
複数の事象を同時に管理する千里の目。
お金の流れを見通し、過不足を整える眼。
そして――どんな理不尽にも心折れない、不屈の精神。
美咲は読み上げられる項目を聞きながら、静かに思った。
(……全部、私が八年間やってきたことだ)
◇ ◇ ◇
「聖女様に、折り入ってお願いが」
召喚の翌日、宰相が深く頭を下げた。
「この国の民は、痩せた土地のわずかな実りで食いつないでおります。
どうか――庶民にも作れる、腹を満たす料理を。
この国の名物となるようなものを、お授けいただけませぬか」
通された厨房は、食材が乏しかった。
並んでいるのは、痩せた土地でわずかに採れる雑穀と豆。
土くさい芋。
そして、裏の野原で摘んだだけの野草。
竈の火は消えかけ、料理人たちは匙を投げていた。
「こんなものしか採れぬ国です。聖女様にお出しできる料理など、何も……」
美咲は袖をまくった。
熱を出した子どもの看病をしながら、冷蔵庫の残り物で三日分の夕食を組み立てた日々。
あの時に比べれば、これは「材料がある」だけ恵まれている。
まず、消えかけた竈に薪をくべ直し、火を起こす。
豆を水に浸し、雑穀を丁寧に炒った。
「豆は、つぶします。芋も茹でて、一緒に練ってください」
潰した豆と芋を混ぜ、塩で味を決め、平たい団子に丸める。
炒った雑穀を衣のようにまぶし、油を引いた鉄板でこんがりと焼く。
香ばしい匂いが、空きっ腹の厨房に立ち込めた。
外はかりっと、中はほっくり。
豆の甘みと芋のうまみが一つになった、素朴で力強い焼き団子。
「これは……何という料理ですか……!」
「名前は、まだありません」
美咲は少し笑った。
「ありあわせで作っただけですから」
仕上げに、刻んだ野草を散らす。
さらに、豆を煮た汁を煮詰めて作った濃いタレをひと回し。
捨てるはずの煮汁すら、美咲の手にかかれば旨味の素になる。
料理人たちが、震える手で一口頬張った。
「……うまい」
「こんなものが、あの材料から……!」
知らせを受けて駆けつけた宰相も、ひと口食べて目を見開いた。
「これです、これこそ……!
痩せた土地のものだけで、これほどのものが作れるとは。
聖女様、どうかこれを、我が国の名物とお認めください。
――そうだ、この国の名を冠して、『エルデア焼き』と」
美咲にとっては、いつものことだった。
子どもをあやし、洗濯機を回し、電話に応対し、煮物を焦がさない。
乏しい材料を組み替えて、なんとか食卓を成立させる。
それを当たり前にやる以外の生き方を、彼女は許されてこなかったのだから。
ぬるい味噌汁を、誰も責めない世界。
作ったものに「うまい」と声が上がる世界。
美咲の頬を、理由のわからない涙が伝った。
◇ ◇ ◇
「エルデア焼き」は、瞬く間に国じゅうへ広まった。
痩せた土地のありもので作れる滋養食は、飢えた民の腹を満たした。
美咲の名は「食を司る聖女」として、城下にまで知れ渡っていく。
料理人たちは美咲を慕い、宰相は深く頭を下げた。
「聖女様のおかげで、民の顔に生気が戻りました」
だが、美咲の真価が問われたのは、食が落ち着いて季節がひとつ巡った頃だった。
城下で、あの病が再び姿を現したのだ。
高い熱と発疹が出て、人から人へとうつっていく。
三年前、先王の命を奪ったのも、この病だった。
誰もがそれを「王を葬った呪い」と呼び、恐れた。
次々と人が倒れ、医務室は患者であふれる。
医師たちは「呪いには抗えぬ」「悪い空気のせいだ」と口々に言い、なすすべもなかった。
美咲は患者の様子を見た。
そして、看病する者まで次々倒れていく有様を見て、おおよその見当をつけた。
(これ、呪いなんかじゃない。
人からうつってる。
触れた手や、近くにいることで広がるやつだ)
理屈は、彼女の世界では常識だった。
目に見えない病の元が、患者に触れた手や近い距離を介して、人から人へうつる。
煮沸した布で清潔を保ち、手を洗い、距離を取れば広がりを抑えられる。
元いた世界の暮らしに、当たり前に染みついた知識だった。
子どもが熱を出すたび、うつさぬよう看病の手を洗った。
肌着を煮洗いし、寝床を分けてやった。
あの幾度もの夜が、美咲の手にその術を覚え込ませていた。
「患者と、看病する人の場所を分けてください。
患者に触れた手は、必ず洗う。
世話をする人は、口元を布で覆って」
医師たちは半信半疑だった。
だが、美咲は引かなかった。
患者を一棟に隔離し、出入りする者を限る。
触れた布はすべて煮沸し、回復した者から順に元の暮らしへ戻していく。
すぐに病が消えたわけではない。
それでも、新たに倒れる者が目に見えて減っていった。
死なずに済む者が、確かに増えた。
「呪いでは、なかったのか……」
老医師が呆然とつぶやいた。
三年前、王を喪ったときには、ただ手をこまねくしかなかった病。
それが、聖女の手で、目に見えて鎮まっていく。
「ええ。うつる病は、近づけない、触れたら洗う。
それだけで、防げるものがたくさんあるんです」
美咲は知っていた。
これは聖女の奇跡などではない。
元いた世界では、子どもでも知っている当たり前のこと。
ただ、それを誰かが伝えるかどうかで、生き死にが変わるだけなのだと。
先王さえ呑み込んだ「呪いの病」を鎮めた。
そのことで、「食を司る聖女」は、いつしか「命を守る聖女」とも呼ばれるようになっていた。
◇ ◇ ◇
呪いと恐れられた病が鎮まり、城下にようやく落ち着きが戻った頃。
今度は、宰相が青ざめた顔で駆け込んできた。
「大変です、冬を越す蓄えが足りませぬ……どう数えても、春まで保ちません」
美咲は倉に入り、ひととおり見渡して、ため息をついた。
雑穀は湿気で芽吹きかけている。
芋は隅で腐っている。
豆は古いものの上に新しいものが積まれて、下のものが永遠に使われずに傷んでいた。
足りないのではない。
「回っていない」のだ。
美咲は倉を一から並べ替えた。
古いものを手前に、新しいものを奥に。
湿気るものは高い棚へ、傷みやすいものは目につく場所へ。
何が、どれだけ、いつまで保つか――一覧の帳面を作り、毎朝確認させた。
「古いものから使えば、無駄が出ません。当たり前のことです」
腐って捨てていた分がなくなっただけで、蓄えは春を越えてなお余った。
飢える計算だった冬を、エルデアは初めて、誰一人欠けずに越えた。
台所の食材を腐らせない。
限られたお金で、月末まで食卓を保たせる。
家計のやりくりで毎日していたことが、一国の備蓄を救っていた。
「倉の女神」と民は美咲を呼んだ。
けれど美咲は思っていた。
これはただの、主婦の段取りだ、と。
◇ ◇ ◇
食を立て直し、疫病を抑え、蓄えの無駄をなくした。
それでもなお、エルデアの足元はぐらついていた。
国庫が、空に近かったのだ。
宰相が、分厚い帳面を抱えて美咲のもとを訪れた。
「お恥ずかしい話ですが……金が、どこへどう消えているのか、誰も把握できておりませぬ。
税を重くしても国庫は潤わず、民は痩せ細るばかり。
もはや打つ手がなく……」
美咲は帳面を開いて、すぐに眉をひそめた。
入ってくる金と出ていく金が、まるで整理されていない。
何にいくら使ったのかも曖昧で、ただ「足りないから取る」を繰り返している。
どんぶり勘定そのものだった。
(これは……うちの家計が火の車だった頃と、同じだ)
給料は増えないのに出ていく金ばかりが膨らみ、月末には毎回青ざめた、あの日々。
美咲はそのたびに、何にいくら使っているかをすべて書き出した。
そして、削れる無駄を一つずつ潰してきた。
「まず、入ってくるお金と、出ていくお金を、全部書き出しましょう。
何に、いくら使っているのか。
それがわからないままお金を集めても、ざるに水を注ぐようなものです」
美咲は歳入と歳出を一枚に並べ、可視化した。
すると、膿はすぐに浮かび上がった。
一部の貴族が、催しや装飾の名目で、国庫から法外な金を引き出していたのだ。
民から搾り取った税が、ごく一部の贅沢に消えていた。
一方で、橋の補修や畑の立て直しといった、民の暮らしを支える出費は後回しにされていた。
「順番が逆です」
美咲は静かに、しかしきっぱりと言った。
「飾りや宴は、いちばん最後。
先に直すのは、みんなが毎日使うもの。
――家計だって、同じでしょう。
子どもの食事を削って、宝石を買う親はいません」
美咲は無駄な支出を一つずつ削った。
税は重くするのではなく、取り方を公平にならし直した。
貧しい者の負担を軽くし、過剰に蓄えていた者から適正に集める。
そうして浮いた金を、長く後回しにされてきた痩せた畑の改良へ回した。
やせ地でも育つ作付けを広め、土を肥やす手立てを少しずつ整えていく。
一年と経たず、国庫は底を打ち、ゆっくりと満ちはじめた。
痩せていた畑は少しずつ実りを取り戻す。
税の負担が軽くなった民の暮らしにも、ようやく余裕が生まれた。
それを目の当たりにして、心を動かされたのは民だけではなかった。
「聖女様」
宰相が、深く膝をついた。
「あなた様は、食を与え、病から守り、蓄えを取り戻し、そしてこの国の財政まで立て直された。
もはや、聖女という器に収まるお方ではございませぬ。
――どうか、空いたままのあの玉座に。
この国の、女王におなりください」
居並ぶ貴族の多くが、かつて美咲を侮っていた者さえ、静かに頭を垂れた。
ただ一人を除いて。
財政の膿を暴かれ、私腹を肥やす蓄えを取り上げられた大貴族。
彼だけは、頭を垂れる群衆の中で、煮えたぎる目をしていた。
異界から来たぽっと出の女に、自分の特権を奪われた。
その屈辱を、彼は呑み込んではいなかった。
(戴冠などさせるものか)
その貴族は、誰にも気づかれぬよう、静かに拳を握りしめていた。
◇ ◇ ◇
戴冠式の朝が来た。
城下から人々が押し寄せ、大広間は祝福の熱気に満ちていた。
飢えを救われた民、病から守られた者、誰もが新たな女王の誕生を待ちわびていた。
長らく空いていた玉座が、ようやく埋まる日だった。
美咲が祭壇へと歩み、宰相が冠を掲げた、まさにその時だった。
「待たれよ!」
声を張り上げ、あの大貴族が兵を率いて広間へなだれ込んだ。
手にした羊皮紙を高々と掲げる。
「この女は異界の魔女だ!
言葉巧みに国を惑わし、由緒ある貴族の財を奪った簒奪者!
こんな素性も知れぬ者を、王に戴くなど許されぬ!」
買収した兵たちが、剣を抜いて祭壇を取り囲む。
広間が、凍りついた。
大貴族がほくそ笑む。
武力を握る自分の前で、料理しか能のない女に何ができる、と。
だが――立ち上がったのは、美咲ではなかった。
「その人を、侮辱するな」
進み出たのは、痩せた老医師だった。
「呪いの病で死にかけた我らを救ったのは、この方だ。
あなたが宴で踊っていた時、聖女様は患者の傍を離れなかった」
「そうだ!」
声が続いた。
エルデア焼きを国じゅうに広めた料理人たちが、玉杓子を手に祭壇の前へ並んだ。
倉を立て直す手伝いをした倉番たちが立ちはだかる。
やせ地を耕し直して実りを取り戻した農夫たちが、子を抱いた母親たちが、次々と前へ進み出る。
気づけば、武装した兵を、丸腰の民が幾重にも取り囲んでいた。
「剣を抜くなら、まず我らを斬れ」
「聖女様は、おれたちの命の恩人だ」
兵たちが、たじろいだ。
彼らもまた、この一年で飢えと病から救われた、エルデアの民だったのだ。
一人、また一人と剣を取り落とし、大貴族の側を離れていく。
「な……何をしている! 命令だぞ!」
「もう、あんたの命令は聞かねえ」
兵の一人が、剣を床に置いた。
「おれの娘は、聖女様に救われたんだ」
孤立した大貴族の前へ、美咲が静かに歩み出た。
怒りでも、勝ち誇りでもない、ただ凪いだ眼差しで。
「あなたが守りたかったのは、民ですか。
それとも、自分の蔵の中身ですか」
大貴族は答えられなかった。
宰相の合図で、衛兵がその身を取り押さえる。
誰一人、彼をかばう者はいなかった。
美咲は、自分を守るように立ち並ぶ人々を見渡した。
彼女が一年かけて、ありもののやりくりで、一つずつ積み上げてきた信頼。
それが今、その身を守る何よりの盾になっていた。
剣ではなく、人の心が。
「……ありがとう」
久しく自分が言われたかったその言葉を、美咲は今、誰よりも深く、皆に向けて口にしていた。
◇ ◇ ◇
冠が、美咲の頭に静かに載せられた。
長らく主を失っていた玉座に、ようやく新たな王が座する。
広間を埋めた人々から、割れんばかりの歓声が上がった。
求められたのは、奇跡の力ではなかった。
乏しいものを分け合い、無駄を省き、弱い者を守る。
家を切り盛りするように、国を切り盛りすること。
それなら――誰よりも、長くやってきた。
ここには、自分の名前がある。
日々、誰かに「ありがとう」と言ってもらえる場所がある。
故郷に、未練はなかった。
ただ一つ、胸の奥に小さく灯り続けるものがあった。
あの子は、元気にしているだろうか。
夫のことは、もうどうでもいい。
けれど、置いてきてしまった我が子のことだけは、ふとした拍子に胸を締めつける。
寝顔を思い出すたび、目の奥が熱くなる。
「……ごめんね」
歓声の中で、美咲はそっと、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
いつか、もしこの力でかなうなら――あの子にだけは、もう一度会いたい。
それでも今は、目の前で自分を慕う人々がいる。
守るべき民がいる。
「美咲女王、万歳!」
その声に応えるように、美咲はゆっくりと顔を上げた。
涙の跡を残したまま、けれど確かに、前を向いて。




