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夫に一度も「ありがとう」と言われなかった私、異世界で女王として崇められています

作者: 中身無男
掲載日:2026/06/19

 結婚八年。

 私が夫に「ありがとう」と言われた回数は、ゼロ。


 その間にこなした家事の回数は、たぶん、数えきれない。


 熱を出した子どもを病院へ運び、洗濯を回し、夕食を作り、義母の長電話に二時間付き合った。

 その夜、夫はソファでスマホを眺めたまま、こう言った。


「お前さ、専業主婦なんだから家事くらい完璧にやれよ。俺は外で疲れてんの」


 味噌汁が少しぬるい。

 たったそれだけのことで。


 その一言で、私の中の何かが、ぷつりと切れた。


 いつからだろう。

 私が、自分の名前で呼ばれなくなったのは。


「おい」「お前」「ママ」。


 役割の名前だけが残り、佐倉美咲という人間は、家の中でゆっくり透明になっていった。


 その夜、洗い物を終えた美咲は、ふと天井がやけに高く感じた。

 指先が冷たくなり、視界が白く溶ける。


「あ、倒れ――」


 そう思った瞬間には、もう床は消えていた。




   ◇ ◇ ◇




 目を開けると、見たこともない石造りの広間にいた。


 色とりどりのローブをまとった人々が、美咲を取り囲んで膝をついている。

 中央の白髪の老人――宰相が、震える声で言った。


「おお……『すべてを整える聖女』様……ついに、おいでくださった……!」


 聞けば、この国――エルデア王国は、三年続く飢饉と混乱に瀕していた。

 痩せ衰えた土地は作物を実らせず、家々は崩れ、民は疲弊しきっている。


「実は……我が国には今、王がおりませぬ」


 宰相は声を落として続けた。


「先の王は、飢饉の最中に病で世を去られました。

 お世継ぎもなく、王家の血は絶えてしまったのです。

 残された我ら家臣が、どうにか国を支えてはおりますが……

 民を導く、真の主が要る。

 神託は、その御方を遣わすと告げました」


 荒れ果てた玉座は、長らく空いたままだった。

 秩序を取り戻し、空位の王座に座るべき者。

 それを神託に従って召喚したのが、美咲だったのだ。


 宰相が恐る恐る差し出した魔導書には、必要な「聖女の力」がずらりと記されていた。


 広範囲を清浄化する力。

 乏しい食材を最大限に活かす錬成。

 複数の事象を同時に管理する千里の目。

 お金の流れを見通し、過不足を整える眼。

 そして――どんな理不尽にも心折れない、不屈の精神。


 美咲は読み上げられる項目を聞きながら、静かに思った。


(……全部、私が八年間やってきたことだ)




   ◇ ◇ ◇




「聖女様に、折り入ってお願いが」


 召喚の翌日、宰相が深く頭を下げた。


「この国の民は、痩せた土地のわずかな実りで食いつないでおります。

 どうか――庶民にも作れる、腹を満たす料理を。

 この国の名物となるようなものを、お授けいただけませぬか」


 通された厨房は、食材が乏しかった。

 並んでいるのは、痩せた土地でわずかに採れる雑穀と豆。

 土くさい芋。

 そして、裏の野原で摘んだだけの野草。

 竈の火は消えかけ、料理人たちは匙を投げていた。


「こんなものしか採れぬ国です。聖女様にお出しできる料理など、何も……」


 美咲は袖をまくった。


 熱を出した子どもの看病をしながら、冷蔵庫の残り物で三日分の夕食を組み立てた日々。

 あの時に比べれば、これは「材料がある」だけ恵まれている。


 まず、消えかけた竈に薪をくべ直し、火を起こす。

 豆を水に浸し、雑穀を丁寧に炒った。


「豆は、つぶします。芋も茹でて、一緒に練ってください」


 潰した豆と芋を混ぜ、塩で味を決め、平たい団子に丸める。

 炒った雑穀を衣のようにまぶし、油を引いた鉄板でこんがりと焼く。

 香ばしい匂いが、空きっ腹の厨房に立ち込めた。


 外はかりっと、中はほっくり。

 豆の甘みと芋のうまみが一つになった、素朴で力強い焼き団子。


「これは……何という料理ですか……!」


「名前は、まだありません」


 美咲は少し笑った。


「ありあわせで作っただけですから」


 仕上げに、刻んだ野草を散らす。

 さらに、豆を煮た汁を煮詰めて作った濃いタレをひと回し。

 捨てるはずの煮汁すら、美咲の手にかかれば旨味の素になる。


 料理人たちが、震える手で一口頬張った。


「……うまい」

「こんなものが、あの材料から……!」


 知らせを受けて駆けつけた宰相も、ひと口食べて目を見開いた。


「これです、これこそ……!

 痩せた土地のものだけで、これほどのものが作れるとは。

 聖女様、どうかこれを、我が国の名物とお認めください。

 ――そうだ、この国の名を冠して、『エルデア焼き』と」


 美咲にとっては、いつものことだった。

 子どもをあやし、洗濯機を回し、電話に応対し、煮物を焦がさない。

 乏しい材料を組み替えて、なんとか食卓を成立させる。

 それを当たり前にやる以外の生き方を、彼女は許されてこなかったのだから。


 ぬるい味噌汁を、誰も責めない世界。

 作ったものに「うまい」と声が上がる世界。


 美咲の頬を、理由のわからない涙が伝った。




   ◇ ◇ ◇




「エルデア焼き」は、瞬く間に国じゅうへ広まった。

 痩せた土地のありもので作れる滋養食は、飢えた民の腹を満たした。

 美咲の名は「食を司る聖女」として、城下にまで知れ渡っていく。


 料理人たちは美咲を慕い、宰相は深く頭を下げた。


「聖女様のおかげで、民の顔に生気が戻りました」


 だが、美咲の真価が問われたのは、食が落ち着いて季節がひとつ巡った頃だった。


 城下で、あの病が再び姿を現したのだ。

 高い熱と発疹が出て、人から人へとうつっていく。

 三年前、先王の命を奪ったのも、この病だった。

 誰もがそれを「王を葬った呪い」と呼び、恐れた。


 次々と人が倒れ、医務室は患者であふれる。

 医師たちは「呪いには抗えぬ」「悪い空気のせいだ」と口々に言い、なすすべもなかった。


 美咲は患者の様子を見た。

 そして、看病する者まで次々倒れていく有様を見て、おおよその見当をつけた。


(これ、呪いなんかじゃない。

 人からうつってる。

 触れた手や、近くにいることで広がるやつだ)


 理屈は、彼女の世界では常識だった。

 目に見えない病の元が、患者に触れた手や近い距離を介して、人から人へうつる。

 煮沸した布で清潔を保ち、手を洗い、距離を取れば広がりを抑えられる。

 元いた世界の暮らしに、当たり前に染みついた知識だった。


 子どもが熱を出すたび、うつさぬよう看病の手を洗った。

 肌着を煮洗いし、寝床を分けてやった。

 あの幾度もの夜が、美咲の手にその術を覚え込ませていた。


「患者と、看病する人の場所を分けてください。

 患者に触れた手は、必ず洗う。

 世話をする人は、口元を布で覆って」


 医師たちは半信半疑だった。

 だが、美咲は引かなかった。

 患者を一棟に隔離し、出入りする者を限る。

 触れた布はすべて煮沸し、回復した者から順に元の暮らしへ戻していく。


 すぐに病が消えたわけではない。

 それでも、新たに倒れる者が目に見えて減っていった。

 死なずに済む者が、確かに増えた。


「呪いでは、なかったのか……」


 老医師が呆然とつぶやいた。

 三年前、王を喪ったときには、ただ手をこまねくしかなかった病。

 それが、聖女の手で、目に見えて鎮まっていく。


「ええ。うつる病は、近づけない、触れたら洗う。

 それだけで、防げるものがたくさんあるんです」


 美咲は知っていた。

 これは聖女の奇跡などではない。

 元いた世界では、子どもでも知っている当たり前のこと。

 ただ、それを誰かが伝えるかどうかで、生き死にが変わるだけなのだと。


 先王さえ呑み込んだ「呪いの病」を鎮めた。

 そのことで、「食を司る聖女」は、いつしか「命を守る聖女」とも呼ばれるようになっていた。




   ◇ ◇ ◇




 呪いと恐れられた病が鎮まり、城下にようやく落ち着きが戻った頃。

 今度は、宰相が青ざめた顔で駆け込んできた。


「大変です、冬を越す蓄えが足りませぬ……どう数えても、春まで保ちません」


 美咲は倉に入り、ひととおり見渡して、ため息をついた。


 雑穀は湿気で芽吹きかけている。

 芋は隅で腐っている。

 豆は古いものの上に新しいものが積まれて、下のものが永遠に使われずに傷んでいた。


 足りないのではない。

 「回っていない」のだ。


 美咲は倉を一から並べ替えた。

 古いものを手前に、新しいものを奥に。

 湿気るものは高い棚へ、傷みやすいものは目につく場所へ。

 何が、どれだけ、いつまで保つか――一覧の帳面を作り、毎朝確認させた。


「古いものから使えば、無駄が出ません。当たり前のことです」


 腐って捨てていた分がなくなっただけで、蓄えは春を越えてなお余った。

 飢える計算だった冬を、エルデアは初めて、誰一人欠けずに越えた。


 台所の食材を腐らせない。

 限られたお金で、月末まで食卓を保たせる。

 家計のやりくりで毎日していたことが、一国の備蓄を救っていた。


「倉の女神」と民は美咲を呼んだ。

 けれど美咲は思っていた。

 これはただの、主婦の段取りだ、と。




   ◇ ◇ ◇




 食を立て直し、疫病を抑え、蓄えの無駄をなくした。

 それでもなお、エルデアの足元はぐらついていた。

 国庫が、空に近かったのだ。


 宰相が、分厚い帳面を抱えて美咲のもとを訪れた。


「お恥ずかしい話ですが……金が、どこへどう消えているのか、誰も把握できておりませぬ。

 税を重くしても国庫は潤わず、民は痩せ細るばかり。

 もはや打つ手がなく……」


 美咲は帳面を開いて、すぐに眉をひそめた。

 入ってくる金と出ていく金が、まるで整理されていない。

 何にいくら使ったのかも曖昧で、ただ「足りないから取る」を繰り返している。

 どんぶり勘定そのものだった。


(これは……うちの家計が火の車だった頃と、同じだ)


 給料は増えないのに出ていく金ばかりが膨らみ、月末には毎回青ざめた、あの日々。

 美咲はそのたびに、何にいくら使っているかをすべて書き出した。

 そして、削れる無駄を一つずつ潰してきた。


「まず、入ってくるお金と、出ていくお金を、全部書き出しましょう。

 何に、いくら使っているのか。

 それがわからないままお金を集めても、ざるに水を注ぐようなものです」


 美咲は歳入と歳出を一枚に並べ、可視化した。

 すると、膿はすぐに浮かび上がった。


 一部の貴族が、催しや装飾の名目で、国庫から法外な金を引き出していたのだ。

 民から搾り取った税が、ごく一部の贅沢に消えていた。

 一方で、橋の補修や畑の立て直しといった、民の暮らしを支える出費は後回しにされていた。


「順番が逆です」


 美咲は静かに、しかしきっぱりと言った。


「飾りや宴は、いちばん最後。

 先に直すのは、みんなが毎日使うもの。

 ――家計だって、同じでしょう。

 子どもの食事を削って、宝石を買う親はいません」


 美咲は無駄な支出を一つずつ削った。

 税は重くするのではなく、取り方を公平にならし直した。

 貧しい者の負担を軽くし、過剰に蓄えていた者から適正に集める。

 そうして浮いた金を、長く後回しにされてきた痩せた畑の改良へ回した。

 やせ地でも育つ作付けを広め、土を肥やす手立てを少しずつ整えていく。


 一年と経たず、国庫は底を打ち、ゆっくりと満ちはじめた。

 痩せていた畑は少しずつ実りを取り戻す。

 税の負担が軽くなった民の暮らしにも、ようやく余裕が生まれた。


 それを目の当たりにして、心を動かされたのは民だけではなかった。


「聖女様」


 宰相が、深く膝をついた。


「あなた様は、食を与え、病から守り、蓄えを取り戻し、そしてこの国の財政まで立て直された。

 もはや、聖女という器に収まるお方ではございませぬ。

 ――どうか、空いたままのあの玉座に。

 この国の、女王におなりください」


 居並ぶ貴族の多くが、かつて美咲を侮っていた者さえ、静かに頭を垂れた。


 ただ一人を除いて。


 財政の膿を暴かれ、私腹を肥やす蓄えを取り上げられた大貴族。

 彼だけは、頭を垂れる群衆の中で、煮えたぎる目をしていた。

 異界から来たぽっと出の女に、自分の特権を奪われた。

 その屈辱を、彼は呑み込んではいなかった。


(戴冠などさせるものか)


 その貴族は、誰にも気づかれぬよう、静かに拳を握りしめていた。




   ◇ ◇ ◇




 戴冠式の朝が来た。


 城下から人々が押し寄せ、大広間は祝福の熱気に満ちていた。

 飢えを救われた民、病から守られた者、誰もが新たな女王の誕生を待ちわびていた。

 長らく空いていた玉座が、ようやく埋まる日だった。


 美咲が祭壇へと歩み、宰相が冠を掲げた、まさにその時だった。


「待たれよ!」


 声を張り上げ、あの大貴族が兵を率いて広間へなだれ込んだ。

 手にした羊皮紙を高々と掲げる。


「この女は異界の魔女だ!

 言葉巧みに国を惑わし、由緒ある貴族の財を奪った簒奪者!

 こんな素性も知れぬ者を、王に戴くなど許されぬ!」


 買収した兵たちが、剣を抜いて祭壇を取り囲む。

 広間が、凍りついた。


 大貴族がほくそ笑む。

 武力を握る自分の前で、料理しか能のない女に何ができる、と。


 だが――立ち上がったのは、美咲ではなかった。


「その人を、侮辱するな」


 進み出たのは、痩せた老医師だった。


「呪いの病で死にかけた我らを救ったのは、この方だ。

 あなたが宴で踊っていた時、聖女様は患者の傍を離れなかった」


「そうだ!」


 声が続いた。

 エルデア焼きを国じゅうに広めた料理人たちが、玉杓子を手に祭壇の前へ並んだ。

 倉を立て直す手伝いをした倉番たちが立ちはだかる。

 やせ地を耕し直して実りを取り戻した農夫たちが、子を抱いた母親たちが、次々と前へ進み出る。


 気づけば、武装した兵を、丸腰の民が幾重にも取り囲んでいた。


「剣を抜くなら、まず我らを斬れ」

「聖女様は、おれたちの命の恩人だ」


 兵たちが、たじろいだ。

 彼らもまた、この一年で飢えと病から救われた、エルデアの民だったのだ。

 一人、また一人と剣を取り落とし、大貴族の側を離れていく。


「な……何をしている! 命令だぞ!」


「もう、あんたの命令は聞かねえ」


 兵の一人が、剣を床に置いた。


「おれの娘は、聖女様に救われたんだ」


 孤立した大貴族の前へ、美咲が静かに歩み出た。

 怒りでも、勝ち誇りでもない、ただ凪いだ眼差しで。


「あなたが守りたかったのは、民ですか。

 それとも、自分の蔵の中身ですか」


 大貴族は答えられなかった。


 宰相の合図で、衛兵がその身を取り押さえる。

 誰一人、彼をかばう者はいなかった。


 美咲は、自分を守るように立ち並ぶ人々を見渡した。

 彼女が一年かけて、ありもののやりくりで、一つずつ積み上げてきた信頼。

 それが今、その身を守る何よりの盾になっていた。


 剣ではなく、人の心が。


「……ありがとう」


 久しく自分が言われたかったその言葉を、美咲は今、誰よりも深く、皆に向けて口にしていた。




   ◇ ◇ ◇




 冠が、美咲の頭に静かに載せられた。

 長らく主を失っていた玉座に、ようやく新たな王が座する。

 広間を埋めた人々から、割れんばかりの歓声が上がった。


 求められたのは、奇跡の力ではなかった。

 乏しいものを分け合い、無駄を省き、弱い者を守る。

 家を切り盛りするように、国を切り盛りすること。

 それなら――誰よりも、長くやってきた。


 ここには、自分の名前がある。

 日々、誰かに「ありがとう」と言ってもらえる場所がある。

 故郷に、未練はなかった。


 ただ一つ、胸の奥に小さく灯り続けるものがあった。


 あの子は、元気にしているだろうか。


 夫のことは、もうどうでもいい。

 けれど、置いてきてしまった我が子のことだけは、ふとした拍子に胸を締めつける。

 寝顔を思い出すたび、目の奥が熱くなる。


「……ごめんね」


 歓声の中で、美咲はそっと、誰にも聞こえない声でつぶやいた。

 いつか、もしこの力でかなうなら――あの子にだけは、もう一度会いたい。


 それでも今は、目の前で自分を慕う人々がいる。

 守るべき民がいる。


「美咲女王、万歳!」


 その声に応えるように、美咲はゆっくりと顔を上げた。

 涙の跡を残したまま、けれど確かに、前を向いて。

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