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エピローグ

 ガラスのコップに冷凍庫で作った氷を三つ入れ、果汁100%のオレンジジュースを注ぐ。それを持ってリビングへ行き、ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろす。


 ゴールデンウィーク初日の昼下がり。特に暑いというわけではないが、急に冷たくて酸味の効いたものが飲みたくなった。


 コップに口をつけ、一気に半分程の量を飲む。喉が潤い、爽快な気分になる。


「おはよう、翔」


 欠伸をしながら一人の大学生がリビングに入ってきた。俺の兄貴、茜川遼である。


「おはようっていう時間じゃないぞ」

「ん? ああ、もう14時なのか。少し寝過ぎたかな」


 寝癖でボサボサになっている茶髪を手で掻きながら兄貴はそう言った。


 俺の兄貴は現在大学三年生。今日からゴールデンウィークということで、昨日東京から帰省してきた。前回の帰省はたしか九月だったため、およそ八か月ぶりの再会となる。


「オレンジジュースか、うまそうだな」

「──良かったら入れようか?」

「いいのか? じゃあ頼むわ」


 自分のものと同じようにオレンジジュースを作り、兄貴に渡す。


「いやあ、うまい。オレンジジュースって何でこんなにうまいんだろうな」


 そう言って、ものの数秒でコップの中身を空にした。


「酒よりもやっぱりジュースだな」

「そういうものなのか?」

「そういうもんだよ。アルコールなんて、消毒するときにだけ使ってればいいのさ」


 俺は酒を飲んだことがないから分からないが、オレンジジュースが最高にうまい飲み物であることは同意だ。


「父さんは?」

「仕事らしい」

「大型連休に仕事だなんて、かわいそうだな。母さんは?」

「中野さんと駅前の洋菓子店でママ友トークに花を咲かせている」


 ちなみにその洋菓子店は俺が教えた店だ。


「なるほどね。中野さんといえば、唯ちゃん、先週退院できたんだって?」

「ああ」


 これまで唯ちゃんの病気を治す治療法はないとされていた。しかし今年の三月上旬頃、ついにその治療法が確立された。その知らせを聞いた中野家はすぐに病院へ手術を依頼し、手術は無事に成功した。一か月程のリハビリの末、唯ちゃんは再び、自由を取り戻したのだ。


「嬉しいけど、少し不安だな」

「何がだ?」

「いや、前に一回、病気が治ったのにまた再発しちゃったって話があっただろ? だから今回もそうなったら嫌だなって思って」

「今回は──大丈夫だよ」

「どうしてそんな断定ができるんだよ?」

「根拠はない、直感だ」


 不思議そうに俺の顔をじーっと見る兄貴だが、「そうか」とだけ言い、それ以上追及してこなかった。


 オレンジジュースを飲み干し、自室へ戻る。


 スマホを確認すると大智からLINEの通知がきていた。


「USJ最高!」というメッセージに、ユニバーサルスタジオジャパンのアトラクションの前で大智と、友達らしき男子大学生五人がピースをしている写真が添付されていた。


「お土産買っておけよ」と返信してスマホをズボンのポケットに入れる。


 大智はK大学に合格し、今年の春から関西で一人暮らしを始めている。


4月中旬頃にいきなり電話がかかってきて「周りがみんな関西弁で、アウェー感がやばい」と弱音を吐いていたが、この写真を見る限りでは楽しそうにやっているようで安心した。


 大学受験といえば、桃香も無事に富川大学に合格している。桃香は入学してすぐにコンビニと本屋のバイトを始めた。先週、何も知らずに桃香のバイト先である本屋に行って、本棚の整理をしている姿を見た時は少し驚いた。


「バイトの掛け持ちって思った以上に大変だわ」と言っていたので「バイトは一つでもいいんじゃないか?」と聞くと「少しでも多くお金を稼ぎたいから──」と答えていた。


 少し踏み込んで話を聞いてみたところ、富川大学の卒業後はR大学の大学院に進むと決めており、その資金を今から貯めているということを教えてくれた。そんな事情を知らずに、「一つでもいいんじゃないか?」と軽い気持ちで発言してしまったことを後悔した。


 大智も桃香も、合格するとは思っていた。もちろん二人の合格は嬉しいとは思うが、意外性はなく、驚きはしなかった。


 だけど一人、度肝を抜いてきたやつがいた。


 聡美だ──聡美は銀沢大学の医学部に合格した。


 三学期の始業式に聡美は何事もなかったかのように登校し、クラスメイトたちを驚かせていた。


 道下ホテルは経営破綻をすることになっていたが、大国ホテルグループという、これまた巨大な企業がそれに待ったをかけたのだ。


 なんと大国ホテルグループが、道下ホテルを傘下に入れることを提案し、道下ホテルはこれを受諾。道下ホテルは吸収合併される形にはなってしまったが、最悪の危機を乗り越えることができた。


 家政婦を雇うような裕福な生活は流石にできなくなった道下家だが、娘を大学受験させられる程の余裕は出てきたらしく、聡美は銀沢大学を受験することができるようになった。ただそれでも、複数の大学を受験するのは経済的に厳しいようで、銀沢大学一本という背水の陣で受験に挑むことになった。


 12月、全く勉強できていなかったであろ聡美だが、残された時間で血の滲むような努力をしたのだろう、見事その手で国立大学の医学部合格を勝ち取った。


「ゴールデンウィークに帰省するから」と、卒業間際に言っていたが、「課題で忙しいから帰省は夏にするわ」と二日前にLINEがきていた。


 大智、桃香、聡美、何かと苦労はしているようだが、三人とも大学生活を満喫しているように思えた。


 荷物をまとめて自室を出る。


「東部分館に行ってくるよ」リビングのソファに座っている兄貴に声をかける。兄貴は母親が録画していた恋愛ドラマを見ていた。


「東部分館──ああ、あの図書館か」体はそのままで、顔だけがこちらを向く。


「頑張れよ、未来の後輩」


 その言葉には返答せず、俺はリビングを出た。


 昨年末頃に、再び廃館の危機に陥っていた東部分館だが、あれから約五ヶ月経った今日も無事に開館している。


 ネットニュースによると、廃館にすべきか存続させるべきか、市議会議員の中でも意見が割れているらしいが、北原市長の強い意向で、しばらくの間は存続させる方向性で話は一応まとまっているとのこと。北原市長の感謝思いでいっぱいだ。


 しかし、フリースペースの利用者は今日も俺一人のみ。この現状を見ると、廃館した方が富川のためになることは明白だった。ありがたい気持ちと申し訳ない気持ちが混ざり合い、胸の中で不協和音が生じる。


 さて、俺がゴールデンウィークにも関わらず、東部分館にやってきたのは、何を隠そう受験勉強をするためだ。


 俺は今年の大学受験で失敗した。


 挑んだのは東京大学文科一類。合格を勝ち取ることはできなかった。


 敗因は単純に対策不足。


 志望校を富川大学の医学部から東大に変えたのは年明けすぐのこと。流石にその時期から東大の対策をするには時間がなさすぎた。それに医学部志望の俺は今までずっと理系の勉強をしていた。高三の1月に急に文転するのは誰がどう考えても無謀な行動である。


 俺の夢は、恩師である本郷さんが通っていた富川大学の医学部で学び、医者になって病気で苦しむ人たちや周りで辛い思いをする人たちを助けることだった。


 その夢がどうでもよくなったわけではない。今でも叶えたいという気持ちはある。


 でも、俺が医者になってしまったら──凶悪な生物兵器の開発が進み、世界が崩壊してしまうという運命を辿る可能性は大きい。


 それは絶対に避けなくてはいけないことだ。


 だから俺は医者になるのをやめた。医者にならないのであれば、医学部に入る必要はない。本郷さんの学んだ場所で学びたいという思いはあったが、本郷さんが生きているということを知って、重かったその思いは軽くなり、諦めがついた。


 にこまるの運命を変えたことによって、多くの人の運命が変化している。本郷さんが今どこで何をしているかは分からない。依然として他国の政府に無理やり生物兵器の研究をさせられているかもしれないし、平穏無事の生活を送っているかもしれない。


 いずれにせよ、俺は彼に会いに行こうと決めている。いつになるかは分からない。でも、必ず彼のいる場所を探して、インド映画百本分の俺の話を聞かせるつもりだ。


 とはいえ、今の俺はただの東大を目指す浪人生。まずは二回目の大学受験を成功させるのが当面の目標である。


 日本史の参考書を開き、勉強を始める。


 文系受験と理系受験の違いはいくつかあるが、その一つは社会と理科の科目数だ。理系受験(国立)の場合、社会は基本的に一科目、しかも一次試験である共通テストのみ科される。しかし文系受験(国立)の場合は、共通テストの社会は二科目必要であり、二次試験でも必須である。今まで理系だった俺は、当然社会は一科目しか勉強しておらず、二次試験用の勉強もしていない。当面は、社会の勉強を中心に受験勉強を進めることにしている。


 俺が志望校を東大の、しかも文科一類に変更した理由はただ一つ。


 三宮の夢を、俺が叶えるためだ。


 自分の夢を断念すると決意した時、不思議と俺は三宮の顔が頭に浮かんだ。


 彼女が夢を諦めなくてはいけないのなら、代わりに俺が叶えればいい。理屈なんかない、ただの感情だ。そういう思いを持ってしまったのだから仕方がない。


 感情というのは、それがどれだけ非論的でも非科学的でも、止められるものではない。ブレーキが壊れた新幹線のようなものだ。一度走り出したら誰にも抑えられない。


「東大の文一を受験し、将来は国土交通省に入って真照間島に空港を建設する」大学入試の一次試験である共通テストが終わった後、俺は三宮に電話してそのことを伝えた。いきなりの宣言に三宮はかなり困惑していたが、俺が「もう決めたことだから」と頑なな態度を取っていると最終的には「ありがとうございます」という言葉が返ってきた。


 一時間程日本史の勉強をして休憩に入る。


 フリースペースは依然として貸切状態。新しく利用者が来る気配はない。


 誰もいないならここで電話しても問題ないだろう。俺はスマホを取り出して電話をかけた。


「もしもし、三宮です」


 三宮はすぐに電話に出てくれた。


「茜川だ」

「お久しぶりです、茜川君」


 三宮と最後に電話したのは3月上旬。東大文一に落ちたことを報告するために俺から連絡を入れた。今日のこの電話は、二ヶ月ぶりの会話ということになる。


「今、時間大丈夫か?」

「はい、大丈夫ですよ。ついさっき、仕事が終わりましたので」


 三宮は今、真照間島で塾を運営している。塾といっても、塾生は小学生と中学生が数名いるだけで規模はかなり小さい。もちろん講師は三宮一人だ。三宮の祖父が所有している小さな平屋を借りて、そこで授業をしている。受験指導というよりは、学校の授業のサポート的なことを行っているらしい。そのような近況話を以前の電話で聞いた。


「ゴールデンウィークなのに仕事があるんだな」

「ゴールデンウィークだからこそあるんですよ」


 塾というものに通ったことがないからよく分からないが、そりゃそうか。平日の学校がある日中に子供たちが塾に行けるわけがない。塾の稼働が平日の夕方や夜、休日に盛んになるのは自然なことだ。


「それで、今日はどういったご用件で電話を?」

「用件は、特にない」

「──え?」

「さっきまで勉強していてな。今は休憩中で、何となく電話してみただけだ」


 返答がない。姿は見えないが、呆気に取られているのが想像できる。


「悪いな。迷惑だったか?」

「いえ、迷惑ではないです。少し、驚きはしましたが」

「島の生活はどうだ?」


 とりあえず無難な質問をしてみることにした。


「とても楽しいです。住んでみて改めて思いました。私はこの島が大好きなんだと」


 弾んだ声が聞こえてきた。心から今の生活に満足していることが伝わってくる。


「浪人生活は順調でしょうか?」

「どうだろうな。自分では順調のつもりだが、浪人してからまだ模試を受けていないから、客観的にどれくらいの立ち位置にいるかは分からない」

「茜川君ならきっと大丈夫ですよ。4月には東大生間違いなしです」

「だといいけどな」


 とは言ったが、正直受かる自信はかなりある。数学と英語は元々かなり仕上がっているため、国語と社会の力をつけていけば問題ないだろう。勉強のモチベーションも、浪人を始めてから今のところ一日たりとも落ちていない。


 もちろん、油断をして手を抜くつもりもない。


「もし茜川君が東大生になったら一つお願いがあるんですが……」

「何だ?」


 三宮が頼み事をするなんて珍しい。


「茜川君に東京の街を案内してほしいです」

「東京を?」

「はい。私、東京に行ったことがなくて。一度でいいから東京の街で遊んでみたいんです」


 俺も東京なんて、これまでの人生で一回しか行ったことがない。2月に試験を受けるために東大へ行ったぐらいだ。


「それは別に構わないが、意外だな」

「そうですか?」

「ああ。お前は別にそういう、都会への憧れみたいなものを持っていないと思っていた」

「ふふっ。私も普通の女の子なんですよ。原宿でクレープを食べたり、渋谷のスクランブル交差点を歩いたり、池袋の水族館でペンギンさんを見たり、東京のキラキラした街で色々とやってみたいんです」


 興味津々といった声音で三宮はそう言った。


「じゃあ俺からも一つ、頼みを言っていいか?」

「いいですよ、どうぞ」

「受験が終わったら、真照間島を案内してくれ」


 沈黙が訪れた。


 でもそれはほんの僅かな時間で、すぐに意気揚々とした声が返ってきた。


「喜んで!」

「嬉しそうだな」

「はい、嬉しいです。茜川君が真照間島に興味を持ってくれるなんて、こんなに嬉しいことはありません」


 まるで祭りで綿飴を買ってもらった幼稚園児みたいな喜びようだ。


「来年が、楽しみになってきました」

「──流石に気が早くないか?」

「別にいいじゃないですか。気が早くて悪いことは何もないですよ」


 それもそうだなと思った。楽しみなことがあるというのはそれだけで気分が高まり、色々なことが上手くいくような気がする。


「俺もお前が東京に来るのを、今から楽しみにしておくよ」

「是非そうしてください」


 これを一つのモチベーションにして、さらに勉強を頑張るとしよう。


「そろそろ勉強を再開するから切るよ。いきなりの電話に付き合ってくれてありがとな」

「いえ、そんな。勉強頑張ってください」


 最後に三宮からの声援をもらい、電話は終了した。


「東京か──色々と遊べる所を調べておく必要があるな」日本史の参考書を手に取るが開かず、俺はそんなことを考えていた。


 まずいな、集中できていない。気持ちを入れ替えないと。軽く両手で頬を叩いてから、大きく深呼吸をする。


 合格する自信はあるが、俺の合格が100%決まっているわけではない。


 そう、決まってなどいない。


 未来がどうなるかなんて、誰にも分からない。


 運命が決まっているなんてことは決してない。


 巨大なすごろく盤が頭に浮かび上がった。しかし、そのすごろく盤のマスには何も書かれていなかった。


 マスは最初、空白の状態なのだ。他人、ましてや神が何かを書き込むのではない。


 自分で文字を刻むのだ。


 運命とはそういうものだ。


 運命は決まっているものではない──自分で創っていくものだ。


 手に持っていた日本史の参考書を開く。まずは東京大学に合格するという運命を創るとしよう──。


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