第42話
探究科学科のクラスの生徒数は40名。つまり、教室には生徒用の席が当然40用意されている。縦5列、横8列に並べられた机と椅子。現在は朝のホームルーム。そのため各自が自分の席につき、担任教師の連絡事項を退屈そうに聞いている。
しかし、一つだけ空席があった。廊下側から見て横二列目の前から三番目の席。
そこは聡美の席だった。
出席をとる時、担任教師は聡美がいないことについて特に何も言及していなかった。それは聡美の欠席、または遅刻の連絡が事前にしっかりと学校に入っており、無断の不在ではないということを意味している。
だが、聡美が学校を欠席したり、遅刻したりしたことは今までに一度もなかった。高校生活だけではなく、小学校と中学校でもだ。
今までに遅刻、欠席がなかったからとはいえ、今日もそうではないという保証はない。たかだが一日学校に来ていないだけだ。わざわざ理由を担任教師に聞くことでもないし、聡美に直接連絡をしてみるほどのことではないだろう。
連絡事項は終わったみたいで、担任教師は教室から出ていった。
空席を眺める。何となくだが、遅刻ではなく欠席だという予感がした。今日は聡美に会えないだろう。
会えないといえば、もう二ヶ月以上になるのか。
三宮と、会っていないのは──。
学校が終わると東部分館には行かず、家に直帰した。
着替えるのが面倒だったため、制服のまま自室の勉強机で数学の問題と格闘することに。
今日は11月最終日。明日から12月になる。
この時期になると、数学はどんな問題でも、問題文を読んだ瞬間に解法が頭に浮かぶようになっている。別にこれは自慢ではない、ただの事実だ。
基本的にどの教科もほぼ完璧に仕上がっている。特に数学と理科は、明日が受験でも満点を取れるんじゃないかというぐらいの自信がある。唯一懸念事項があるのは国語だ。古典については大丈夫だが、問題は現代文。現代文が苦手というわけではないが、本番で事故が起こるとするならこの教科だろう。
時計の針は19時を指していた。
「夕飯まではあと30分ぐらいか」俺は数学の問題集を片付け、現代文の問題集を棚から取り出す。
するとその瞬間、ズボンのポケットが振動し始めた。
誰かから電話がかかっているようだ。ポケットからスマホを取り出し、相手を確認してみると──聡美?
通話ボタンを押し、電話に出る。
「もしもし、聡美か?」
「──うん」
元気のない声。明らかにいつもと様子が違う。
「大丈夫か?」心配になり、そう声をかける。
無音──返答がない。
嫌な予感がする。部屋の窓は閉まっているはずなのに、冷たい風にさらされている感覚に襲われる。
「……今から……会える?」
「どこに行けばいい?」
「──東石金公園に」
「すぐに行く」
俺は通話を切り、部屋を出た。
玄関で靴を履いていると「今から出かけるの?もう夕飯できたわよ」と母親に声をかけられた。
「急用ができた」
「何時に帰ってくるの?」
「分からん」
「分からんってどういうことよ?ご飯冷めちゃうわよ」
「電子レンジがあるから問題ない」
母親はまだ何か言っていたが、俺はそれを無視して外へ出た。
東石金公園に着くと、聡美は既にそこにいた。
俺の家の方が聡美の家よりも公園に近い。そして俺はここまで全力疾走してきた。それなのに先に着いているということは、おそらくここで電話していたのだろう。
公園に外灯は一つしかない。唯一の光源は、弱々しい光を聡美に照らしていた。
「ごめんね、急に呼び出しちゃって」
「気にするな。それよりも、一体何があったんだ?」
俺は率直にそう聞いた。
「──お父さんの会社、経営破綻しちゃったの……」
もしかしたら杞憂に終わるんじゃないか、そんな淡い期待はあっさりと崩れ落ちた。
経営破綻だと?
全国にホテルを多店舗展開するような巨大企業だぞ──それが経営破綻だなんて、とてもじゃないが信じられない。
「いくら何でも急すぎないか?それとも、前々からそういう雰囲気だったのか?」
「分からない。お父さん、普段家で会社の話なんて全くしないから……昨日の夜突然、会社が経営破綻したっていうのを言い出して……」
高校生の娘に会社の経営状況を日頃から話しているわけはない、か。言われてみれば俺も、自分の父親から勤め先の会社の内情なんて聞いたことがないことに気づく。ただ、今はそんなこと、どうでもいい。
「負債総額が何十億以上もあるんだって……」
「何十億……」
あまりの額の大きさに俺は唖然とした。そんな金、どうやって返済できるっていうんだ? 普通のサラリーマンが一生かけて稼いだ金でも到底及ばない。例え宝くじの一等が当たったとしても、完済には程遠い。
「今住んでいる家も出ていかなきゃ行けない。当然だけど受験なんて無理ね……これからの生活を考えると、とてもじゃないけど学校に行く気が起こらなかった……」
こんな状況で学校に行けるやつなんていないだろう。他人の俺ですらひどく動揺しているのだから、当事者の心は計り知れないほど、不安定で脆くなっているはずだ。
「翔、あんたって、お金持ちの人を軽蔑したことがある?」
「いや、ないな」
いきなりの質問に虚を突かれたが、本音を答えた。
「あんたはそう言ってくれると思ってた。でもね、世の中の大半の人間は、お金持ちの人だったり家庭に良い印象を持ってないと思うのよ。私自身、これまでに妬みや嫌悪の感情を向けられたことが数え切れないほどあるわ」
聡美ほどの金持ちの家に生まれると、そういう経験をしていてもたしかに不思議じゃない。金持ち故の悩みというやつだ。
「『お金持ち=悪』っていう論理の欠片もない方程式が、世間では当然のように認知されている。でも、私のお父さんは一生懸命働いて、真っ当にお金を稼いでいた。何も悪いことなんてしていない。私たち家族も、誰かに迷惑をかけるようなことなんてしていない。それなのに何でこんな……こんな天罰のようなことが下されなきゃいけないの?不幸のどん底に突き落とされなきゃいけないの?誰のせいでこんなことになってるの?私は悪くない。私は何もしていないのに……なんで──」
「聡美──」
「翔、私たち家族って、これからずっと借金を抱えたまま生きていくのかな?死ぬまでずっと、ただただお金を返すだけの人生で終わってしまうのかな……?」
抑え切れない恐怖、不安、悲しみが涙となって、聡美の目からどんどんこぼれ落ちていく。底の見えない深い絶望が、そこにはあった。
ポケットに入れっぱなしにしていた、皺のついたポケットティッシュを渡した。「ありがとう」と言って聡美はそれを受け取り、涙を拭く。
「人生は何が起こるか分からない。まさに今回の、親父さんの会社の経営破綻は予想できなかったことだろ?普通に考えればお前のこれからの人生は、辛いものが待っているはずだ。でも、悪いことだけじゃなくて、良いことが起こるのも人生だよ。現状打開できる可能性も、今まで以上の幸せを手に入れる可能性もある。どんなことだって起こりえるんだ。人生がどうなるかなんて、誰にも分からない」
そう、誰にもわかるわけがない。
運命など、決まっているわけがないのだから。
「俺にできることなんて、小さなことかもしれないけど、それでももし、助けが必要な時は言ってほしい。今日みたいに、すぐに駆けつける」
何十億円という莫大な金は、俺が将来医者になったとしても返済できるものではないだろう。金のことでは無力かもしれない。だけど、心のケアぐらいならしてやれる。話を聞くことなら、いくらでも。
「ありがとう……翔」
「今は何かを深く考えない方がいい。何かが起こってから考えればいいさ」
考えるという行為は、想像以上に精神を削り落とす。こんな状況で落ち着けというのも酷な話だが、しかし、聡美の心は既に限界がきている。
俺たち二人はしばらく立ち尽くしていた。
何をするわけでも、話すわけでもなく、ただそこに──。




