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第41話

 小学校三年生の頃だったと思う、何かのお菓子を食べている時に、急に右の奥歯が痛み出した。それを母親に伝えたところ、問答無用で駅前の歯医者に連れて行かれた。診察の結果、案の定右の下の奥歯が虫歯という事実を突きつけられる。そして虫歯はそこだけではなく、左の上の奥歯に2箇所、症状は軽いものの発見された。早速治療をということで、この日俺は歯医者デビューを果たした。


 乳歯はどうせ抜けて永久歯が生えてくるのに、治療する意味はあるのかと思ったが、歯医者の先生曰く、虫歯の乳歯を放置しておくと、永久歯の形成に悪影響を及ぼすのだという。


 歯医者の治療を恐れる子供は多いと聞くが、俺はそんなことは全くなかった。麻酔を歯茎に打たれる際は少しだけ痛かったが、そのおかげで治療中に痛みが起きることは一度もなかったからだ。ひょっとすると俺の治療を担当してくれた先生は凄腕の名医だったのかもしれない。


 そういうわけで、治療内容自体は特に何も思うところはなかったのだが、一つ、勘弁してくれと思うことがあった。


 それは治療期間が長いことだ。3箇所の虫歯の治療を終えるのに、1ヶ月以上はかかった記憶がある。その間、歯医者に何度も通うのがめんどくさかったし、時間を無駄にしているように感じていた。


 今後も虫歯になって歯医者に通うことは避けたい。そう思った俺は絶対に虫歯にならないと決意し、歯磨きを今まで以上にしっかりするようになった。中学に入ってからは、3ヶ月に一回、虫歯治療でお世話になった駅前の歯医者で定期検診を受けるようにもなった。


 それは高校3年になった今も続いており、その定期検診をついさっき終わらせてきた。


 日曜日の富川駅前。通行人の半分以上が冬用のコートを着用しているのが見え、もう少しで12月なのだということを改めて実感した。


 スマホを見ると、時刻は12時半過ぎだった。このまま帰宅しても良かったのだが──。


「美味いドーナツが売っている店でも探すか」ふとそう思い、歯医者の前に停めていたママチャリを駅前の駐輪場へ移動させてから、駅周辺を散策することにした。


 そして歩き回ること約30分、残念ながら目ぼしい店は見つかることなく、ただの散歩に終わってしまった。


 別に駅前にこだわる必要はない、またいつかの機会に他の場所で探せばいいかと思い、駐輪場へ戻ろうとした時だった。


「翔君じゃん」


 振り返るとそこには、ベージュのダッフルコートを羽織った桃香が立っていた。


「よっ」

「前にも駅前で会ったよね。あの時は駐輪場だったっけ?今日はどうしたの?」

「歯医者帰りだ」

「虫歯?」

「いや、虫歯にならないための定期検診を受けてるんだよ」

「ああ、そういうことね。なるほどなるほど」

「そういうお前は、塾帰りか?」


 夏休みに駅前の駐輪場で会った時、桃香は塾の夏期講習を受けていると言っていた。だから今日も塾があったのかと思いそう聞いてみた。


「さっきまで講習を受けてたけど、まだ帰らないよ。今はお昼を買いに出て来ただけ。午後からも講習を受けて、終わっても自習室で閉館時間まで勉強する予定」


 どうやら一日塾に缶詰状態のようだ。こういう話を聞くと、受験日まで刻一刻と近づいていることを強く感じる。


「大変そうだな。頑張れよ」

「ありがとう。翔君は相変わらず余裕そうだね。じゃ、またね」


 そう言って桃香は踵を返して歩き出した。


「待ってくれ」だが俺はその背中に声をかけた。


 立ち止まり、振り返った桃香は不思議そうな表情で俺の方を見ている。


「美味いドーナツが売っている店を知らないか?」


 俺の投げかけた言葉を聞いた桃香は、不思議そうな表情を維持したまま「えっ?」と、一言だけ声をもらした。


 富川駅の駅前というと、南口側と北口側の二つに分けることができる。


 南口側は商業ビルや居酒屋、カラオケ店やボーリング場、映画館等の娯楽施設等が多く集まっており、駅前で遊ぶとなると大抵はこの南口側へ行くことになる。以前三宮と行ったゲーセンがあるのもこの南口側だ。ついでに言うと、俺のお世話になっている歯医者や桃香の通う塾もこっちにある。


 一方北口側は、オフィスビルやテレビ局、博物館に総合体育館等の建物が集まっているエリアで、南口側と比べると落ち着いた雰囲気が漂う場所だ。


「この辺だったと思うけど──あったあった、このお店だよ」



 桃香が連れてきてくれたのは駅前北口側から5分程歩いた場所にある、小さな洋菓子店だった。ログハウスのような外観がオシャレな雰囲気を漂わせている。看板には『ロブラン』という文字が書かれていた。


 俺が先ほど散策していたのは南口側だ。まさか北口側にこんな店があったとはな。


 店内に入ると、正面には多種多様な洋菓子が入ったショーケースが置かれていた。右手には少ないながらも、テーブル席が用意されており、店内で食事をすることも可能みたいだ。


「このドーナツが前食べた時にとても美味しかったよ」


 桃香はショーケースの中にある一つのドーナツを指差した。こんがり焼けた小麦粉の輪に、チョコソースとオレンジジャムがかかっているそのドーナツは、「キングドーナツ」という商品名が付けられている。大きさは某チェーン店の一般的なドーナツの二倍ぐらいあり、中々のカロリーが含まれていそうだ。なるほど、キングの名を語るだけのことはある。


「分かった、これを買ってみる」

「だったら私も一つ買おうかな。今日のお昼ご飯はこれで決定」

「教えてくれたお礼に奢るよ」

「本当?ありがとう翔君」


 レジカウンターへ行き、店員にキングドーナツを二つ注文した。


「キングドーナツが二つで980円になります。お持ち帰りですか、店内でお召し上がりですか」

「店内でお願いします」

「かしこまりました」


 すると桃香が「えっ、店内?」と俺に聞いてきた。


「せっかくだから一緒に食べようと思ったんだが、迷惑だったか?」

「いや、全然迷惑じゃないよ。ちょっと驚いただけ。てっきりお互い持ち帰りにして、ここで解散かと思っていたから」

「もちろんそれでもいいが──」

「ううん、一緒に食べよ!ね、お願い!」


 念仏を唱えるかのように両手を合わせて、桃香はそう懇願してきた。


 テーブル席は残り一つしか空いていなかった。少し到着が遅かったら店内で食べることはできなかったかもしれない。


 キングドーナツとガラスコップに入った水はすぐにテーブルへ運ばれた。甘い匂いが鼻にスゥーと入っていき、食欲をそそらせる。


「いただきます」と挨拶をしてから桃香は早速ドーナツを一口、口に入れた。


「ん〜おいしい!勉強後の甘味は別格ね」


 俺も一口食べてみる。ふわふわとした生地の食感に、チョコソースとオレンジジャムが絶妙にマッチしている。なるほど、たしかにこれは美味い。


「どうかな?翔君の口に合う?」

「ああ、めちゃくちゃ美味い」


「だったら良かった。安心したよー」桃香は微笑み、また一口ドーナツを口に入れた。


「そういえば、どうしてドーナツを探していたの?」

「──急に食べたくなったんだよ」


 もちろん本当は聡美のためだ。でもそれを言うと、桃香はきっと嫌な気分になるだろう。真実を伝えることが、必ずしも良い結果になるわけではない。学校では「嘘をついてはいけません」と教えられることが多い。だけどそれは半分正しくて半分間違っているというのが俺の私見だ。他人を騙したり、不愉快にさせる嘘というのはつくべきではない。だが、嘘をつくことによって誰かを救ったり、人の心を傷つけずにすむことがあるのも事実だ。大切なのは嘘をつくかつかないかではなく、相手のことや気持ちを考慮した発言ができるかどうかだ。


 俺の嘘の言葉に対して桃香は「そうなんだ」とだけ答えた。表情からは、嘘が見抜かれているかどうかは判断できない。


 店内はピアノの落ち着いた曲調のBGMが流れていた。どこかで聴いたことのある曲だが、思い出せそうで思い出せない。


「そういえばね、この前の模試の結果でR大学がA判定だったんだよ」


 俺がTOT現象に陥ってると、桃香は笑顔でそう言ってきた。


「おめでとう。凄いじゃないか」

「ありがと。もちろん油断はしないけど、でもやっぱり嬉しいね、A判定って」


 大智、聡美に続き桃香も第一志望校のA判定を取っている、俺の周りの親しい人間はみんな、順調に合格への道を進んでいるようだ。


 身近な人の不幸は見たくない。誰しもがそうだろう。もちろん俺だってそうだ。全員が第一志望の大学に進学するというハッピーエンドを迎えたい。


「前に外国の言語を学びたいって言っていたが、具体的には何の言語を学ぼうと思っているんだ? 無難に英語とか?」


 コップの水を一口飲んでから、進学後のことを質問してみた。


「もちろん英語は大学に入ってからも勉強するつもり。それと同時進行で、まずは中国語を学ぼうって思ってるよ」

「何で中国語を?」

「中国語が英語に次いで、話者人口が世界二位だからだよ。私ね、世界中のたくさんの人とコミュニケーションを取りたいの。すごく安直な発想だけど、話者人口の多い言語を学べば、より多くの人と話せるようになるかなあって」


 中国語が話者人口二位の理由は単純に、中国人の人口が多いからだ。インドの方が中国よりも人口が多いのに、ヒンディー語が中国語よりも話者人口が少ないのは、インドでは英語も公用語として使用されているからだろう。


「私の考え、変かな?」

「全然。むしろ効率が良くて個人的には結構ありだ」

「翔君にそう言ってもらえるなんて、すごく嬉しい」

「ちなみに話者人口三位って何語なんだ?」

「スペイン語だよ。大体五億人ぐらいだったかな?アルゼンチンとかメキシコで使用されているはず」

「ということは、中国語をマスターしたら次はスペイン語を?」

「うん。スペイン語の次はアラビア語、アラビア語の次はフランス語。そうやって話せる言語をどんどん増やしいくつもり」


 目をキラキラさせながら桃香はそう語った。きっと頭には、多言語を習得して様々な外国人と流暢に会話している自分の姿を思い浮かべているに違いない。


「早く世界中の人たちとコミュニケーションを取りたいなあ」

「まずはR大学に合格しなきゃな。A判定を取り、せっかく親の許しも得てるんだから、ここで躓くわけにはいかないだろ?」

「そうだよね、絶対に受からなきゃね!」

「お前のR大学合格と、その先に待つ夢の実現を、俺は願ってるよ」


 この言葉は、決して嘘じゃない。


「ありがとう、翔君」


 桃香は満面の笑みを見せてそう言った。

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