第38話
朝起きたら筋肉痛になっているかもしれない。そう思って昨晩眠りについたが、体には何の異変もなかった。昨日あれだけ自転車を爆速で漕いでいたのに、これが大人の言う、若さの力というやつなのかもと推察する。
登校し教室に入ると、先に来ていた大智が「昨日はありがとな」と声をかけてきた。
昨日の大智の叫びは、時計の時間で言うなら1、2分程度だったが、体感時間ではその何倍も続いていたように感じた。
「どういたしまして」と返答すると、大智はそれ以上会話を続ける気がないようで、自分の席に戻って行ってしまった。
今日も無言昼食になるんだろうなあと思っていたが、実際はそうはならなかった。最近人気の出てきたティックトッカーについてどう思うか、今年の紅白歌合戦には誰が出場すると思うか等、大智はいくつか話題を振ってきた。当然だが、受験に関する話題は一切出なかった。
大智はきっと、いつも通り振る舞おうとしている。俺に心配をかけないようにするために。こいつはそういうやつなのだ。だからこそ、その姿を見て無性に切ない気分となってしまう。
放課後。今日は東部分館に行く気にはなれなかった。そのまま家に直行しようという気分で駐輪場へ向かう。
駐輪場へ行くと、聡美が自分の自転車の前でしゃがみ込んでいる姿が見えた。
「どうしたんだ?」気になったので声をかけた。
「翔──。ちょっと聞いてよ、タイヤがパンクしてるのよ」
聡美は後輪のゴム部分を何度か指で押して見せた。俺も押してみたが、ゴムはベコベコしており、中の空気はすっかり抜け切っていた。
「いつからこの状態なんだ?」
「分かんない。朝来る時は何もなかったのよ」
俺は後輪をゆっくり回転させ、どこから空気が抜けているか調べてみた。すると、小さな釘が刺さっているのを発見した。
「釘が刺さっている。これが原因だな」俺はその部分を指差し、聡美に見せた。
「本当だ。いつの間に?」
誰かが故意的にやったのか偶然刺さったのか、現状からでは判断できない。
「どうしよう」
「自転車屋に持って行って修理してもらうしかないな」
「この近くにあったっけ?」
「いや、ないと思う。少なくとも俺は知らない」
「じゃあオケガワサイクルに持っていくしかなわね」
オケガワサイクルとは俺たちの地元にある、桶川さんという方が個人で経営している自転車屋だ。ちなみに俺のママチャリもその店で購入している。
「そうした方がいいな」
桶川さんはパンチパーマがトレードマークの40代ぐらいの男性で、見た目が厳ついためよく怖い人だと誤解されるが、中身はとても優しい人だ。俺も何度かパンクを直してもらったことがあるが、いつも笑顔で丁寧に対応してくれる。
「あれっ、でも今日って木曜日よね?」
「それがどうかしたのか?」
「あの店、木曜日が定休日じゃなかったっけ?」
そういえばそうだった。
「他の自転車屋でも探してみるか?」
「いいわ、めんどくさいし。今日はここに置いてって、明日持っていくことにするわ」
そう言って聡美は自転車に鍵をかけた。
「歩いて帰る気か?」
「そうするしかないでしょ? こんなことで親に迎えに来てもらうのも悪いし」
「──後ろ、乗せてやろうか?」
「えっ?」
驚いた様子で聡美はこちらを見た。無理もない、言い出した俺自身も驚いているのだから。普段の俺だったら、「気をつけて帰れよ」と言って軽くあしらっていることだろう。
「いいの?」
聡美はまじまじと俺の方を見ながらそう聞き返してきた。内心、「何であんたの後ろになんか乗らなきゃいけないのよ」と、一刀両断されると思っていただけに意外な反応だった。
「構わないよ。お前の家から俺の家は近いしな」
俺の家と聡美の家は、自転車ならば5分程度で行き来できる距離にある。こいつを送ってから家に帰ったところで、帰宅時間はさほど変わらない。
「どうしようかな──」
「別に、嫌なら断ってくれてもいいんだが」
「嫌なんて言ってないでしょ。──歩くのは疲れるし、乗るわよ」
教師の目がある校舎敷地内で堂々と二人乗りをできるわけがなく、学校の正門を出て5分程歩いた道端で聡美を後ろの荷台に乗せることにした。
「お尻が少し痛いわ。クッションとか持ってないの?」
「そんなもの持ち歩いているわけないだろ」
このママチャリの荷台は荷物を運ぶためのもので、人を乗せる目的で作られていない。そもそも、自転車の二人乗りは道路交通法違反だ。
「まあいいわ、我慢してあげる」
聡美は自転車に対して体を横にし、右手で俺の制服を掴むといった体勢で荷台に座っている。少し不安定だ。
「落ちるなよ」
「あんたの運転次第ね」
漕ぎ始めこそ少々ふらついてしまったが、ある程度スピードに乗ってしまえば比較的安定した走行をすることができた。一人で普通に乗るよりは足への負担はかかっているが、昨日の爆走に比べると楽に感じる。
人通りの多い道を走っているためか、周りからの視線を幾度も浴びる。俺たちの関係性を知らない人間が見れば、その瞳には仲睦まじい高校生カップルとして映っていることだろう。でも俺たちは付き合っているわけではない。関係性はただの幼馴染だ。
同学年の女子と話をする時は、人にもよるが多少なりとも気を使うことが多い。もちろん三宮にだってそうだ。しかし、聡美は違う。聡美には、何一つ気を使うことはない。あいつもそうだろう。この互いにフラットな関係が居心地良かった。
「悪くないわね」
「ん? 何がだ?」
「乗り心地よ。あんた、二人乗り慣れてる?」
「慣れてるも何も、今日が人生で初めてだ」
「そうなの? でも、だとしたら中々才能があるのかもね。初めてでここまで上手く走れるんだから」
二人乗りの才能があってもあまり嬉しくないな。活用できる場面はさほどないだろうし。
二人乗り評論家気取りの幼馴染を後ろに乗せたまま、その後も順調に道を走っていく。しかし、交差点を左折したところでハプニングが──。
反対車線にパトカーがいるのが目に入った。聡美は俺の背中でその存在には気づいていない様子だ。「降りろ」と声をかけようとした瞬間、「そこの二人乗りの高校生、止まりなさい」とパトカーの拡声器から警告が発せられた。
「うわあ、最悪。警察じゃん。いつの間に? 翔、降りるから止まって」
だが俺はそんな聡美の言葉を無視して全力でペダルを漕ぎ出した。
「ちょっと、あんた何考えてるの!」
「受験生の俺たちが警察に捕まるのはまずいだろ、学校に連絡されて、どんな処分を下されるか分からない。受験に悪影響が出る可能性は十分にある」
「だからって、逃げて捕まったら余計にまずいでしょ!」
「逃げ切れば問題ない!」
見つかっただけで、二人乗りの様子を録画、撮影されたわけではない。現行犯逮捕さえされなければ後から何か言われたとしても、どうとでも言い逃れができる。
「しっかり掴まってろよ!」
足にさらに力を込め、どんどん加速させる。太腿に乳酸菌が溜まっていく感覚を覚える。
パトカーはUターンをしてこちらの車線に入り、サイレンを鳴らしながら俺たちを追いかけてきた。
「捕まったら許さないわよ!」
そう叫び、聡美は両腕で俺の腹部をギュッと抱きしめた。
少しだけ、胸の高鳴りを感じたような気がしたが、きっと思い過ごしに違いない。
自転車が自動車の速度に勝てるわけがない。そんなことは百も承知。左手に住宅街が見えたのでその一画に入る。パトカーも跡を追ってくるが、道幅が狭いためスピードをあまり出せていない。十字路に出くわすたびに左折、右折を繰り返していると、パトカーの姿は次第に見えなくなっていた。
住宅街を抜けて、大通りに出る。交差点にさしかかり、直進するのが家までの最短距離だったが赤信号になっていたため、右折をすることに。普段あまり通ることのない道を疾走する。
11月だというのに、俺の体は汗まみれになっていた。サイレンの音が聞こえなくなってきたところで、少しだけスピードを緩める。
「撒けたみたいね」
「──なんとか、な」
「すごく息上がってるけど、大丈夫?」
「問題ない」
疲れてはいるが、体力の限界はまだきていない。ただ、このペースで走り続けると不意に足を攣ってしまうかもしれない。スピードをさらに落とし、通常の速度で走ることにした。
「一時はどうなるかと思ったけど、もう安心ね」聡美は安堵の声を漏らした。
違法とはいえ、たかだか高校生の二人乗り、何か凶悪犯罪を起こしたわけではない。見失ったからといって、警察が応援を要請したり、検問所を設けたりして俺たちを血眼になって捜し出すなんてことはしないだろう。
「結構頼もしかったわよ」
「それはどうも」
「素っ気無いわね。こんなに可愛い美少女が褒めてるのよ、もう少し喜んだらどうなのよ」
何を言ってるんだか。だけど、こういうくだらないやり取りは嫌いじゃない。
しばらく走っていると前方に、二階建ての大きくて派手な建物が見えた。外装はまるでアラブの宮殿のよう。
一体何の建物だろうかと一瞬思ったが、答えはすぐに分かった。
本屋だ。建物の天辺に『本』と書かれた正方形の看板が付いていた。看板の周りは電飾されており、これもまた派手である。
昨今、電子書籍の普及により本屋の店舗数が激減しているという。実際、家の近くにあった本屋は去年閉店してしまった。そんな時代の中、視界に入っている本屋は堂々とした存在感を放っていた。
「こんなところに本屋があったんだな」
「私も知らなかったわ。にしても、変わった本屋ね」
パッと眺めた感じ、外壁には汚れや錆といったものはあまり見当たらない。おそらく最近できた店なのだろう。
「いつもと違う道で帰ると、こういう珍しい発見もあるのね」
パトカーに遭遇しなければこの本屋を見ることはなかったはず。これも怪我の功名というやつか。
宮殿型本屋を通り過ぎ、特に起伏のない平坦な道を進む。
そういえば、と、あることに気付く。聡美はパトカーと遭遇した時からずっと、今も両腕で俺の腹部を強く抱きしめている。自転車の速度はもう速くない、そんなにしっかりと掴まる必要はないにも関わらず。
「もう、腕解いてもいいんじゃないか?」と言おうと思ったが、やめた。別に何か不便が生じているわけでもない。
T字路にさしかかった。方角的に、左折すれば俺たちの家付近に行けるだろう。
だけど俺は右折した。
「道、反対じゃない?」
聡美も何となくの現在地を分かっていたらしく、そう指摘してきた。
「知っている」
「だったら何で──」
「少し遠回りしたい気分になった」
「はあ? どういうことよ?」
「分からん」
「分からないわけないでしょ、ちゃんと説明しなさいよ」
──本当に、分からないんだよ。
俺は黙ったまま自転車を走らせた。正面遠くに、富川屈指の観光スポットである横山連邦が見える。
「まあ、別にいいわ」
その言葉を聞き、俺は自転車のスピードをさらに落とした。それでも聡美の腕の力が弱まることはなかった。




