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第37話

 急に、何を言い出すんだ?


 昨日まで、模試の結果を見てあんなに浮かれていた人間の言葉とは思えなかった。


「俺の母親が、今勤めている会社をリストラされたんだ」

「リストラ……」

「世の中不景気だっていうニュースをよく聞いていたが、正直そんなのは対岸の火事だと思ってたよ。まさか自分の家がこんなことになるとはな」


「失われた三十年」という言葉を耳にしたことがある。バブル経済崩壊を機に、日本の経済がずっと停滞している状況を指す言葉だ。社会に出て働いたことのない高校生の俺にとっては実感の湧かないことだが、それは大智にとっても同じなのだろう。


「俺の母親は運送会社の事務で働いていたんだ。親父と別れてから勤め始めて10年間、その仕事一筋だった。俺たちの学校行事なんてほとんど参加できていないぐらい、仕事を優先していたよ。『妹たちの授業参観ぐらい行ってやれよ』って俺が怒ったことがあるんだが『ごめんね。でも、働かないとあなたたちの生活が……』って言われて何も言い返せなかったよ。仕事熱心なそんな母親を、会社はあっさり切り捨てやがった」


 拳に力を込める大智。その様子が、手の中で会社を握り潰しているように見えてくる。


「元々裕福な家庭じゃなかったんだ。母親が会社を解雇されて、大学に行ける余裕なんてあるわけがない」

「母親にお願いされたのか? 受験を諦めてほしいって」


 大智は首を横に振って「いや、俺の母親はそんなこと言わないよ。俺が自分の意思で決めたんだ」と主張する。


「だったらまだ諦めるのは早いんじゃないか? 奨学金を借りるっていう方法もあるだろうし──」

「そんな簡単な話じゃねえんだよ」


 鋭い目で睨まれる。だけど、その瞳の奥には弱々しさが見えた。


「奨学金なんてものは元々借りるはずだったんだよ。もちろん大学に入ったらバイトもするつもりだった。それでギリギリ何とかやっていけそうだったんだよ。金に困ったことのなさそうなお前には、分からないだろうけどな」


 大智の言うとおり、俺は金銭での不自由をこれまでに感じたことはない。大学に行くのも、奨学金を借りる予定はない。親が全て授業料を払ってくれるからだ。大学生活が始まっても、小遣いをもらえるのでバイトをする必要がない。「バイトをするぐらいならその時間、勉強をしろ。大学は研究機関なんだからな。思いっきり学んでこい」と父親に言われている。


 そんな甘えた環境に置かれている俺から「奨学金を借りればいいんじゃないか?」という言葉は大智からすると、上から目線の侮辱以外の何ものでもない。


 軽率だった──。弁明の余地がない。


「俺は母親を憎く思ったことは一度もない。もちろん今のこの状況でもな。他に女を作ってどこかに行っちまったクソ親父は今でも恨んでいるが。金のことで不自由な思いは何度もしてきたが、一番苦労して大変なのは母親だってことを分かっていたからな。妹たちも同じ気持ちさ。年頃で欲しいものとかやりたいことがたくさんあるはずなのに、何一つ文句を言わない。出てくる言葉は『お母さん、いつもありがとう』だぜ?」


 暖かい家庭──俺は大智の家族にそのような印象を抱いた。


「お前が将来金持ちになりたいって言ってたのは、ひょっとして家族のためか?」


 大智は特別物欲が高いわけではない。それなのに、会った時から金に対する思いが人一倍強いことは不思議だった。でも今の話を聞いて、こいつは自分にではなく、家族のために金を使いたいと考えている。そう思った。


「ああ、そうだよ。偏差値の高い大学に受かって大企業に入社すれば、かなりの額の給料が見込める。その金で母親や妹たちに仕送りをしたかった。裕福、とまではいかないかもしれないが、金での不自由な思いを解消することぐらいはできると思ったんだよ」


 やはりそうだったか。


 世の中金が全てではない。そんなことは大智も分かっているはず。しかし、世の中の大抵のことが金で解決できてしまうのも真実だろう。


「とりあえず明日からバイトを探そうと思っている。翔、高校生でもできるバイトで割のいいものを何か知らないか?」

「明日から? 学校は、どうするんだよ?」


「話聞いてたか? 俺の家は現在収入源が0なんだぞ。何も資格を持っていない50代の母親が、すぐに新しい仕事が見つかるとは思えない。失業手当っていうのが出るらしいが、それも大した額じゃないだろうしな。我が家に貯金があるとも思えない。もちろんクソ親父は養育費なんてものを別れてから1円たりとも送ってこない。だったら俺が働いて生活費を稼ぐしかないだろ? 学校は普通に行くさ。バイトするのは放課後とか土日だよ。別に学校を辞めてもいいんだが、母親はきっとそんなことを望んでいないだろうからな」


 大智の決意は固そうだ。まさに、一日を生き抜くのに必死という感じがこれでもかというぐらい伝わってくる。俺が何を言っても意見を変えることはないだろう。それに、もう軽率な言葉をかけたくはない。


「悪いが、ぱっと思いつくものはないな」


 バイト経験のない俺にはそう言うしかなかった。


「そうか。まあいいさ。ネットの求人情報を見て、一番時給がいいのを選べばいいからな。生活費もそうだが、妹の大学費用も今のうちに稼いでおかないとな」

「富川中部を受けるって言ってた妹か?」

「ああ。将来の夢は医者らしいからな。お前といい、道下といい、なぜか俺の周りには医者志望が多い」


 医者になるには大学の医学部を卒業することは必須だ。それに、一般的な学部が4年間なのに対して医学部は6年間大学に通う必要がある。つまりそれは、2年間分他の学部よりも授業料がかかるということだ。国立大学の場合、授業料はどの学部も同じだが、私立大学となると、医学部の授業料は他の学部よりも桁違いに高い。


「小5の妹は将来アナウンサーになりたいらしい。キー局を目指しているのかローカル局を目指しているのかは知らないがな。二人とも、何とかして大学に行かせてやりたい」


 アナウンサー事情に詳しいわけではないが、テレビ局のアナウンサーになるには大卒であることは必要条件だろう。個人的にはアナウンサーの業務に大卒である必要性を感じない、高卒でも問題ないと思うが──学歴社会の弊害だな。


「いいお兄ちゃんだな」

「別に、普通だ。お前も俺と同じ立場で妹がいたら、同じことをしてるはずだ」


 照れ臭かったのか、大地の顔は少しだけ赤くなっている。


 そして俺は唯ちゃんの顔を思い浮かべていた。もしも唯ちゃんが実の妹だったら──たしかに、同じことをしていても不思議じゃない。


「やっぱり金は大切だよ。金がないと、夢を持つことができても、それを追いかけることができない。スタート地点に立てても、走り出すことができないんじゃ、意味がない」

「お前には、夢がないのか?」

「ないよ。金持ちになるっていうのは手段であって目的じゃないしな。今俺がすべきことは、家族の生活を守り、妹たちの夢のために金を稼ぐことだ。それ以上のことは何も望んでいない。自分のことなんて、どうでもいい」

「──それは、本心なのか?」

「……ああ、本心だとも」

「本当か?」

「しつこいぞ」

「家族の幸せのためなら自分の人生は犠牲になってもいい。本当に──そう思っているのか?」

「──思ってるわけねえだろ!」


 激昂した表情を大智は俺に見せた。


「ふざけるなよ! いいわけがないだろ! たしかに俺はお前や妹たちのような夢を持ってはいない。だけどな、今夢を持っていないことと、これからずっと夢を持たないことは全然違う。俺は大学に行きたかった。キャンパスライフに憧れてたのもそうだが、大学に行けば何かやりたいことが見つかると思ってた。家族のことが大切なのは本当だ。でもな、それと同じくらい自分の将来だって大切に決まっているだろ!」


 俺たちはまだ18歳なんだ。自分以外の幸せを願うことはあっても、それは自分の幸せが保証されていることが大前提だ。全てを投げ捨て誰かを救うなんてことは、普通の高校生にできるはずがない。高校生なんてものは、まだまだ精神が未熟な子供だ。


 家族思いの優しい心を持った大智もまた、普通の高校生なのだ。


「翔、お前だったらどうする? 自分を含めた家族全員が幸せになるためには──何か解決策があるなら教えてくれ」

「すまない、策は──思いつかない」


 救いを求めるような目で大智は俺にそう訴えるが、無責任なことは言えない。今言えることとしたら──。


「─叫べ。体の中の物を全て吐き出すように、全力で叫べばいい」


 俺の言葉を聞き間髪入れず、大智は立ち上がり海に向かって叫んだ。何度も何度も言葉にならない声を上げ続けた。波をも揺らすような、強くて、悲しい叫びをひたすらと──。


 水平線を眺めながら、俺は何も言わずに、ただそれを聞き続けた。

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