第33話
本日の東部分館のフリースペースには、いつもよりも多くの小学生や中学生の姿が見えた。流石は夏休みだ。
「すまない、待ったか?」
勉強をしている三宮に声をかけ、向かいの椅子に座る。
「いえ、私も今来たところです」
今日の三宮は、無地の白色Tシャツにデニムのショートパンツといった涼しげな格好をしていた。
「それにしても珍しいですね。茜川君からお誘いをもらうなんて」
そう、俺は今日三宮に東部分館に来てほしいと事前に連絡をしていた。多分こうやって約束をして会うのは初めてだ。
「渡したいものがあってな」
「渡したいもの──ですか?」
俺はバッグからラッピング包装された小さな箱を取り出して三宮に渡した。
「えっと、これは一体──?」
「この前のハンカチのお礼だ。受け取ってくれ」
俺が今日駅に行ったのは、この返礼品を買うためだ。
「そんな、悪いですよ。あれは私が勝手にあげたものですし……」
「そう言わずにもらってくれ。頼むよ」
三宮が見返りなんてものを求めていないことは分かっていた。だけど、物をもらっているのにこちらが何も返さないというのは、俺のポリシーに反する。今回のこのプレゼントは、三宮のためというよりは、自分のためにやっていることだ。
「分かりました。では、遠慮なくいただきます。ありがとうございます」
もらわないのは逆に失礼だと思ったのだろうか、三宮はそう言って素直に受け取ってくれた。
「開けてもいいですか?」
「もちろん」
三宮は紙を全く破ることなく丁寧にラッピング包装を剥がした。俺だったら多少は破いてしまいそうだが、こういうところでも普段の性格が出るんだなと思った。
「すごい──綺麗なボールペンですね」
お礼の品の候補は色々あった。真っ先に思い浮かんだ物はハンカチだ。もらった物と同じ物であれば等価交換なため、どちらかの損得は発生しない。しかし、あまり面白みがないなということでやめた。キーホルダーやストラップも考えたが、彼氏でもない男からそういう物をもらっても迷惑だろうと思い却下。いっその事、菓子折りでいいんじゃないかとも思ったが、三宮の味の好みが分からなかったため、これもなしとなった。で、最終的に、実用性のある物にしようということで、ボールペンを採用した。
「持ち手の上部がガラスでできているんだよ」
「本当だ。だからこんなにキラキラしているんですね」
駅前の商業ビルの中に、ガラス専門店がある。その店ではガラス製の商品がたくさん売られており、このボールペン以外にも、箸置き、イヤリング、ネクタイピン等、多種多様な物がある。
「ありがとうございます。大切にしますね」
ボールペンを元の箱に入れ、ラッピング包装で再度包んでから三宮はバッグに入れた。本当に、丁寧なやつだ。
今日ここに来たのは、このボールペンを渡すだけで他に用はない。すぐに帰宅してもよかったのだが、俺たちは受験生。自然と一緒に勉強する流れとなる。こうなるのは分かっていたため、勉強道具は持ってきている。
シックザルを使用してから10日程経った。未だに何かが変わった様子は感じられない。
唯ちゃんは身近な人物だったため、変化をすぐ知ることができたが、北原市長とは一度しか話をしていない間柄だ。もちろんあの日以来会っていない。彼の運命がいかに変わったのか、知る術はあるのだろうか。
横のテーブルを見ると、坊主頭の中学生らしき男子が蝶の図鑑を読んでいた。
ひょっとして、自由研究か?
その姿を見て、俺は5年前にカタツムリの本を読んでいたことを思い出す。
あの日、この場所へ来なかったら、本郷さんとは出会っていなかっただろう。彼に出会っていなかったら俺は、今も兄に劣等感を抱いて日々を過ごしていたに違いない。自分に自信を持つことなく、能力を埋させたまま、退屈な人生を歩んでいただろう。
本郷さんは紛れもなく、俺の運命を変えた。
ここは、俺の運命が大きく変わった転換点なのだ。
でもその場所が今、なくなろうとしている。静かに、ゆっくりと──。
坊主頭の男子は真剣な表情で図鑑に釘付けになっている。よほど興味が惹かれることが載っているのかもしれない。
あの子は知っているのだろうか?この場所がなくなろうとしていることを。その図鑑が読めなくなるかもしれないことを。でも、知っていても知らなくても、あの子にとってはきっと大した問題ではない。あの子にとって大切なのは本なのであって場所ではない。東部分館がなくなっても、蝶の図鑑はどこでも手に入る。
あの子だけではない。今このフリースペースにいる小中学生にとって、この場所はただの公共施設の一つに過ぎない。なくなったところで、誰も悲しまないだろう。
特別な想いを抱いているのは俺と三宮だけだ。人口約40万人いる富川市民の中で、俺たち二人だけが、この場所を守ろうとしている。
誰も必要としていなくても、俺たちは必要としているのだ。
「えっ!」
突然、三宮の驚く声が館内に響く。横のテーブル席の坊主男子も、図鑑から目を離してこちらを見ている。
「どうしたんだよ急に」
「茜川君、これを見てください」そう言って三宮は自分のスマホを差し出してきた。受け取り、画面を見てみると──。
「『富川市立図書館分館 廃館予定リスト』……今更これがどうかしたのか?」
このリストは以前にも見たことがある。24の分館の内、利用者の少ない半分の12の分館の名前が書かれているものだ。そしてそこには東部分館の名前も。
「リストの中身をしっかり見てください」
そう言われ、候補となっている分館の名前を一つ一つ見ていくが、そこには東部分館の名前がなかった。10日程前には確実に載っていたのに。
変化はそれだけじゃない。
廃館予定の分館の数が12から6に減っていた。
リストが変わっている──。
よく見ると、リストの下には※マークの付いた短い文章が載っており、こう書かれていた。
『※再度精査をした結果、廃館する分館を上記に変更 ○月△日 富川市長 北原正俊』
日付は今日のものだった。
これはつまり──東部分館の廃館が、今日付でなくなったということだ。
この場所は──思い出の場所は消えずに残り続ける。
運命が変わった瞬間。
シックザルの力によって、北原正俊の運命は変わった。
「これからもずっと、ここへ来ることができるんですね」
三宮の顔は嬉しさで溢れかえっていた。
「ああ、そうだな」
「私たちの想いが、北原市長に届いたんですね」
「……想い、か」
「──どうしたんですか茜川君?」
「いや、何でもない」
俺はスマホを返して勉強を再開した。三宮はもう少し喜びに浸っていたそうにしていたが、すぐに英語の参考書を読み始めた。
時刻は18時。勉強をしているとあっという間に閉館時間となった。
フリースペースには俺たち以外の利用者の姿は見えなくなっていた。蝶の図鑑を読んでいた坊主頭の子も、とっくにいなくなっていた。
「ボールペン、本当にありがとうございます」
三宮は改めて礼を言ってから、自転車に乗って帰って行った。
一人で佇む俺。
振り返り、東部分館を見た。
消えてしまうはずだったこの建物は、運命が変わったことによってその存在を守られた。
だが今回、何が運命を変えたのだろうか?
果たしてシックザルの力によるものなのだろうか?
それとも三宮が言ったように、俺たちが直接北原市長に会いに行き、想いを伝えたことが、市長の心を変えたのかもしれない。または、そんなことをしなくても、何か別のきっかけで市長は東部分館の廃館を取り下げていたかもしれない。
シックザルを使わなくても、運命は変わっていたんじゃないか?
そもそも、東部分館が廃館になるという運命は最初から存在していなかった、ということもありえる。
いくら考えても真実に辿り着ける気がしない。
唯一答えを知っている奴は近くにいる。だけどそいつは──決して何も教えてくれないだろう。
考えても分からないなら、これ以上考える意味はない。
だから今はただ、素直に喜ぶべきだろう。
今のこの運命を──。




