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第30話

 日中よりはマシになったが、夕方になっても外は暑い空気を漂わせていた。


 三宮と駅前で別れた後、俺は家の近くにある東石金公園を訪れた。遊具がブランコしかない小さな公園。別にここじゃなくても、家でできる。ただ、何となく立ち寄りたい気分だった。


 黄緑色のハンカチで汗を拭く。足元には白詰草が広がっていた。


「あっ、翔ちゃんがいる」


 振り向くとそこには唯ちゃんと麻子さんがいた。


「こんにちは」とりあえず挨拶をしておく。


「一人で何してるの?」


 唯ちゃんはそう聞いてきたが、まだ何もしていない。「息抜きってやつだよ」と適当に答える。まあ、これからやることを言うつもりもないが。


 唯ちゃんは特に興味もなさそうな顔で「そうなんだあ」と言った。


「買い物帰りですか?」


 手にエコバッグを持っているのを見て、俺は麻子さんに尋ねた。


「ええ、そうよ」


 麻子さんは今日も美しかった。食材の入ったエコバッグが、高級ブランド店の新作のバッグのように見える。


「今日の夕飯はね、私とお母さんでカレーライスを作るんだよ!」


「唯ちゃんがカレーを?」麻子さんの方へ顔を向けて言うと、「そうなのよ。急に料理がしたいって言い出して──だから、比較的簡単にできるカレーライスを一緒に作ることにしたの」とのこと。


「私、料理するの初めてだからとても楽しみ!」


 10歳ならば今まで料理の手伝いをしたことがなくても不思議ではない。しかし、唯ちゃんの場合はしたくてもできなかったはずだ。1、2ヶ月前まで、思い病気に罹っていたのだから。料理だけではなく、様々な行動に制限がかかっていた。同年代の子が普通にやっていることを、彼女はただ眺めることしかできなかった。


 でも今は違う。当たり前のことを、当たり前のようにできる。その喜びは、きっと本人にしか分からないものだろう。


「唯ちゃんなら、きっとおいしいカレーを作ることができるよ」

「翔ちゃん、ありがとう」

「いつか唯ちゃんの作ったカレーを食べさせてね」

「もちろんいいよ。お腹がお相撲さんみたいになるまで食べさせてあげる」


 一体何杯のおかわりをさせられるのだろうか。


「私からも一つ、翔ちゃんにお願いしたいことがあるんだけど、いい?」

「お願い? 俺にできることならいいけど──」


 バイクを買って欲しいとか、宇宙に連れて行って欲しいとかじゃないよな──。


「学校の勉強を教えてほしいの!」


 ああ、それならできそうだ。


「いいよ」俺は二つ返事で引き受けた。


「やったあ!夏休み中、たくさん翔ちゃんの家に行くね」

「ちょっと唯、翔君は忙しいのよ。特に今年は──。迷惑かけちゃダメ」


 麻子さんは俺が受験生であることを気遣ってくれているようだ。


「大丈夫ですよ。唯ちゃん、いつでもおいで」

「うん!」


 小学生の勉強を見てあげるなんてお安い御用だ。それをしたところで、俺が受験に落ちるなんてことはない。


「気持ちは嬉しいけど……受験生にとって夏休みは大事な期間でしょ? 唯のために時間を費やしてもらうなんて申し訳ないわ……」

「気にしないでください。俺は頭が良いんで、受験は何とでもなります。それよりも、どうして勉強を教えて欲しいの?」


 俺は上機嫌になっている唯ちゃんに尋ねた。


「私、今までずっと入院してて学校に行ってなかったでしょ? だからその分の勉強をこの夏休みで一気にやろうと思ってるの。でも分からないことがたくさん出てきそうだから、それを翔ちゃんに教えてもらいたいなって思って」


 唯ちゃんは1年生の頃から学校に行けていない。つまり、約3年分の勉強を40日ぐらいで詰め込もうとしているのか。唯ちゃんのことだから、病気を患っていた時も、病室や家で多少は勉強をしていたと思うからゼロスタートではないだろうが、それでも中々大変そうな計画を立てている。


「やる気があっていいね。でも、無理はしないように」

「無理は、少しぐらいはした方がいいんだよ」

「──え? どうしてそう思うの?」

「だって──やりたいことが、いつやれなくなるか分からないんだもん。私、今はこうして元気だけど、もしもまた病気になっちゃったら、勉強も料理もできなくなっちゃうでしょ? そうなってからじゃ遅いの。だから、やれる時には少しの無理をしてでも、やりたいことをしておかないと」


 重い──なんて、重い言葉なのだろうか──。


 本人は何か特別なことを言ったつもりはないのだろう。相変わらず、可愛らしい笑顔を見せている。


 唯ちゃんの病気は完治している。再発して自由が奪われることはないに違いない。


 でも、自由が奪われる要因なんてものはいくらでもある。明日、急に交通事故にあうかもしれない。自然災害が襲いかかってくるかもしれない。他国が戦争を仕掛けてくるかもしれない。もちろん、何か別の重い病気に罹ってしまうことだってある。


 誰にでも等しく、自由が奪われる可能性はあるのだ。


 そしてそれは、予告なんてものはなく、やってくる時は突然なのだろう。


 唯ちゃんはきっと、本気で自分の病気が再発するなんて思ってはいない。でも、また自由が奪われてしまうんじゃないかという恐怖心が、体の見えない場所に小さく潜んでいる。


 これもまた、一種の病気なのかもしれない──。


「どうしたの翔ちゃん?なんか元気ないよ? 大丈夫?」


 唯ちゃんが心配そうに俺を見ていた。


「ごめん、大丈夫だよ」


 今は深く考えないでおこう。唯ちゃんが自由を手にしていることは事実。そして料理と勉強に精を出そうとしている。それ以上でもそれ以下でもない。


「そういえばさっきか気になってたんだけど──それ、誰の?」


唯ちゃんの目線は、俺が手にしている黄緑色のハンカチを捉えていた。


「──俺のだけど?」

「嘘だ。翔ちゃんがそんな可愛いハンカチ持ってるわけないじゃん」

「ああ。これはもらい物なんだよ」


 さり気なくディスられたような気がしたが、まあいいか。


「誰にもらったの?」

「友達だよ」

「女でしょ?」

「え?」

「女からもらったんでしょ?」


 その通り。三宮有紗は正真正銘、女だ。


 唯ちゃんはほっぺたを膨らませて不機嫌な表情をこちらに向けている。


 まさか、嫉妬してるのか?


「その女の名前は?」

「それは──秘密ということで」


 言うとややこしいことになりそうだと思ったため、俺は三宮の名前を隠すことにした。


「翔ちゃんのケチ!」

「こら、なんて失礼なことを言うの!」


 麻子さんは唯ちゃんを叱りつけた後、「ごめんなさいね翔君、不愉快な思いをさせてしまって」と俺に謝罪をした。


「いえ、俺は別に大丈夫ですよ」


 当の唯ちゃんはそっぽを向いていじけている。こういう仕草は子供らしいなあと思うが、俺が異性からの贈り物をもらっていると知った時の反応は、大人っぽく感じた。


「女の子は男の子よりも精神の発達が早いと言いますが、こういうことなんですね」


 思えば、自分が小学生の頃もそうだ。男子よりも女子の方が圧倒的に色恋沙汰に興味関心だった。これはいつの時代も変わることのない真理なのだろう。


「翔君に一つ、教訓を教えてあげるわ」と、麻子さんが人差し指を立てる。


「教訓──ですか?」

「女はね、生まれた時から女なのよ」


 俺はその言葉を聞いて、とても納得がいったのと同時に、女って怖いなあと改めて感じた。


「ということは、中野さんも生まれた時から女だったんですか?」


 なぜだか分からないが、少し意地悪な質問をしてみたくなった俺は、麻子さんにそう聞いた。すると麻子さんは「ふふっ」と微笑んでから答えてくれた。


「もちろんよ」


 やっぱり、女って怖いな──。

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