第26話
富川駅から南に約1キロメートル離れた場所に富川市役所は位置している。八階建てクリーム色の外壁には至る所に錆がついており、年季がかなり入っていることが見て分かる。
東部分館から自転車をこぐこと30分。汗だくになりながら俺たちは市役所の駐輪場へ到着した。
「天気予報によると、今年の夏は10年に一度の暑さになるらしいですよ」
額の汗を水色のハンカチで拭きながら三宮はそう言った。
「去年の夏も、10年に一度の暑さになるって聞いたけどな」
「私もそのような記憶があります。きっと、ここ数年、毎年夏の気温がどんどん上がっているんだと思います」
小学生ぐらいの時の夏は、暑いと感じる日はあっても今ほどではなかった。これがいわゆる地球温暖化ってやつなのだろうか。
着ている服は汗が染み込み、少し重くなっているような気がした。流れ出る額からの汗を手の甲で拭う。
「よかったら、これ使ってください」
スクールバッグから黄緑色のハンカチを取り出し、三宮は俺に差し出した。
「いいのか?」
「もちろん。私、ハンカチはいつも二枚持ち歩いているので」
「じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとう」
受け取ったハンカチで汗を拭く。コットン製の生地が肌に触れるのが心地いい。タオルで汗を拭くことはあっても、ハンカチで汗を拭くというのは人生で初めてかもしれない。
「後日、洗ってから返すよ」
「そんな気を使わなくてもいいですよ。それ、プレゼントします」
「いや、それは流石に悪い気がするんだが」
「大丈夫です。私、ハンカチたくさん持っていますから。いつも勉強を教えてくれているお礼です」
確かにフリースペースで勉強している時に、分からない問題を聞かれて教えたことは何回かあるが、そんなに多くはない。お礼品をもらうほどのことではないが──。
「分かった、大切にするよ」
しかしここで受け取らないというのは逆に失礼な気がして、俺はハンカチをもらうことにした。それに、いくら断っても三宮には一切引く気がなさそうに見えたしな。
自動ドアになっている入り口から中へ入ると、屋上まで吹き抜け構造となっている解放感のある広い空間に出た。右手にはエスカレーターと階段、左手にはエレベーターがあり、これらを使って上の階へ上がれるようになっている。
俺たちはとりあえず、入り口正面に設置されている総合案内所という場所に行き、受付の方に話を聞くことにした。
「すみません。市長室はどちらにありますか?」
三宮の質問に受付の若い女性は「市長室でしたら五階にございますが、いかがいたしましたか?」と答えた。
「北原市長にどうしてもお話したいことがありまして……市長は今、在室していらっしゃるでしょうか?」
「失礼ですが、アポイントはお取りになっていますか?」
「─いえ、取っていません」
「ですと、申し訳ありませんが、市長の在室についてはお答えすることができません」
当然の反応だった。何の事前連絡もなしに会いに来ているのだから、そう言われてしまうのは仕方ない。
「そこを何とか教えていただくことはできないでしょうか?」
しかし引き下がらない三宮。その様子に受付の女性は俺たちに訝しい目を向ける。
「どうしたんだね?」
すると後ろから年配男性が近づいてきた。胸元に「TOMIKAWA」のロゴが入った白のポロシャツを着ていることから、市役所の職員だということが一目で分かる。
「市長にお会いしたいという方たちなのですが、アポイントを取っていないらしくて──」
「なるほどねえ」
「どういたしましょうか?」
不審者を見るような目で年配の男性職員が俺たちの方へ顔を向ける。
「君たち、高校生かな?とりあえず学校名と名前を聞かせてもらえるかい?」
そう問われ、「富川高校3年生の三宮有紗です」と、三宮が答えたので「富川中部高校3年生の茜川翔です」と、俺も同じように話した。
「おお、富川に富川中部か。君たち、優秀なんだね」
「そんなことはないです──あっ、でも、こちらの茜川君は本当に優秀な方ですけど……」
自身は謙遜するが俺のことはしっかりと立ててくれる三宮。何だろう、悪い気はしない。
「私の方から市長に連絡を取ってみるよ。少し、そこで待っててくれるかな?」
「ありがとうございます。とても助かります」
「いいのでしょうか?」若い女性は心配そうに男性職員にそう尋ねるが、「大丈夫だ、私が責任を持つ」と言ってエレベーターの方へ向かって行った。
「親切な方ですね」男性職員の背中を見ながら三宮がそう呟いたので「そうだな」とだけ答えておいた。
親切は親切なんだろうが、富川と富川中部の高校生という肩書きのおかげだろう。富川に住む年配世代の人たちというのは、偏差値の高い高校を必要以上に神格化していることが多々ある。富川に限らず、地方都市では結構起きている現象な気がする。ちなみに高丘高校という富川高校とほぼ同じ偏差値の高校があるのだが、富川の地では、富川中部、富川、高丘高校は高校御三家と呼ばれている。
個人的には学校名なんかで人物を評価されたくないのだが、今回はその学校名に助けられているので、少し複雑な気分だ。
十分ほど時間が経ってから、男性職員は戻ってきた。
「市長の許可が出たよ」
得意げな表情で俺たちへそう報告する男性職員。こんなにもあっさりと市長に会えるようになるとは。ひょっとしたこの男性職員の役職はかなり高いのかもしれない。
「本当ですか、ありがとうございます」
「市長室はエレベーターで5階に上がって、着いたら左手に廊下を進んで、その突き当たりにあるからね」
「場所まで丁寧に教えていただきありがとうございます。行きましょう、茜川君」
俺は男性職員と受付の女性に会釈をし、エレベーターの方へ歩き出している三宮の跡を追った。
「市長室」と明朝体で印字されたプレートが掲げられている扉をノックすると、「どうぞ」という声が中から聞こえてきた。
扉を開けると中には、爽やかな若い男性がいた。
もちろんそれは北原市長だった。テレビで見ていた人が目の前にいる。芸能人に会っているような感覚を覚えた。
市長室の正面にはガラス製のローテブル、その両脇に黒色のソファーが設置されていた。奥には横長のテーブルと回転椅子が置かれている。部屋の奥隅には天井まで届きそうな木製の棚があり、本がびっしり並んでいる。
「こちらにおかけになってください」
ソファーを案内されたので俺と三宮は並んで座ることにした。俺たちが座ってから市長は向かいのソファーに座る。
「富川市長の北原です。よろしくお願いします」
北原市長はそう言って、名刺を2枚取り出して俺たちに差し出す。年下である高校生の子供、しかもアポイントなしの電撃訪問客に対してこの腰の低さ。市長の器の広さが分かる。
名刺は受けとってもすぐにしまってはいけないという謎ルールがあるらしい。そのことをどこかで聞いたことがあったので、俺は市長の名刺をローテーブルの上に置いた。三宮もその辺のマナーを承知しているらしく、俺と同じようにしている。
「富川中部高校3年生の茜川翔です」
高校生の俺はもちろん名刺なんてものは持っていない。口頭で自己紹介をする。
「富川高校3年生の三宮有紗です。本日は急な訪問にも関わらずお時間を作っていただきありがとうございます」
「とんでもない。こうやって市民の皆様の声を聞くのが私の仕事ですから。本日は私に何か話したいことがあると聞いたのですが、どうされました?」
柔和な顔で北原市長は俺たちに訪問の理由を尋ねた。
三宮がこちらを向く。俺は小さく頷き、説明を任せる意思表示をした。




