第22話
帰宅すると家には誰もいなかった。
父親はこの時間、まだ仕事をしているから当然だが、母親がいないのは珍しかった。買い物にでも行っているのだろうか。
「にこまる、出てきてくれ」
自分の部屋に入ってすぐ、にこまるを呼ぶ。
「何か用?」
姿を現したにこまるはどこか気怠そうにしている。ひょっとして寝起きなのかもしれない。
しかし、「シックザルを使う」俺がそう言うと途端に態度を変え、「その決意はどこからやってきたものだい?」と聞いてきた。
「お前の話だと、運命というのは既に決まっているんだよな?」
「しつこいなあー。何回もそう言っているじゃないか」
仏頂面をされるが無視して俺は話を続ける。
「つまり、唯ちゃんが10歳で死を迎えるというのは、初めから決まっていたことであって、そういう運命だから仕方のないことだと」
「そうだよ。もっと細かく言えば、あの子が6歳の時に病気に罹って、それから小学校へ通えなくなってしまい、病室で過ごす中で憧れを抱いたバイクに乗って日本一周をしたいという夢を叶えることなく、10歳で病死するということは、元々決まっていたことだよ」
悪意のある言い方に虫唾が走る、が、今こいつの言動に対して怒りをぶつけたところで意味がない。憤る感情を抑える。そして──。
「そんな運命は間違っている」と、言い放つ。
「──は?意味が分からないんだけど」
にこまるは俺の言葉に怪訝そうな様子を見せる。
「唯ちゃんみたいな良い子が、そんな悲惨な運命を背負わされるのがそもそも間違っているって言ってるんだよ。誰なんだ、そんな運命をあの子に与えたのは?神様か?だとしたら、神様というのは相当頭の悪いやつなんだな。センスの欠片もないイカれた野郎だ」
神様などという空想上の権威的象徴に罵詈雑言を浴びせている自分が、何とも愚かで醜い。だけど他に文句を言う相手がいない。この不条理な運命を呪う対象が、現実世界にはない。
「唯ちゃんがこんな運命を辿るのは間違っている。間違いを正しく直すことは当たり前のことであって、誰からも責められる言われはない」
他人の運命を変えることには正直、未だに強い抵抗感がある。しかし、桃香の『間違っている考えは素直に直さないと。逆に、間違いを間違いとしてそのまま放置するのはよくないでしょ?』という言葉が、唯ちゃんにシックザルを使うことへの正当性を与えてくれた。
「別に間違っているとか正しいとか僕にとってはどうでもいいけどさ、一応確認するよ。運命を変えた結果、それが君や唯ちゃんにとって、いいものになるか悪い物になるかは分からない。もちろんこの僕にもね。それでも本当に、シックザルを使うんだね?」
「構わない。もう決めたことだ。今から考えを変えるつもりはない」
「了解。じゃあ、唯ちゃんの顔を思い浮かべて、運命を変えることを念じてみな」
目を瞑り、唯ちゃんの顔を思い浮かべる。
無邪気に笑う幼い少女が姿を現す。
君が10歳でこの世を去るなんて間違っている。間違っていることは、正しく直すべきなんだ。
俺は念じた。唯ちゃんの運命が変わることを。
病気が治り、自由を手にすることを──。
一瞬だけ、気を失った感覚に陥った──刹那と呼んでいいほどの短い時間。時間に小さな穴が空いた感じ。
目を開けると、何の変哲もない見慣れた自分の部屋が視界に広がった。
頭が少しだけ重く感じたが、それ以外に目立った体調の変化はない。
「唯ちゃんの運命が変わった世界へようこそ」
目の前に現れたにこまるがそう告げた。
本当に何かが変わったのだろうか。そんな実感は全くなかった。
「ただいまー」
玄関の方から母親の声が聞こえてきた。当たり前だが、母親の声質にも変化はない。嫌というほど聞き慣れた、中年女性の声音。
特に用があるわけではなかったが、部屋を出て母親がいるリビングまで行き、「この時間に外出していたなんて珍しいね」と声をかける。
「スーパーへ買い物しに行ってたんだけどね、麻子さんと偶然会って、すっかり長話しちゃってたのよ」
テーブルの上には我が家行きつけのスーパーの袋が二つ、中身がパンパンに詰まった状態で置かれていた。力士が相撲をとっているようにも見える。
「麻子さんと何をそんなに話していたの?」
唯ちゃんのことが何か分かるかもしれない、そう思い、母親に尋ねる。
「そうそう、おめでたい報告があるのよ。唯ちゃんね、退院するらしいわよ。今までのように一時帰宅じゃなくて、正真正銘の退院!病気がね、治ったんだって!」
興奮気味にそう語る母親に、俺は言葉が出なかった。
「何で黙ってるのよ。唯ちゃんが退院したのよ?嬉しくないの?」
「余命宣告は?──残り半年の命っていう話は?」
「もう大丈夫だって。昨日病院で検査したら、担当医の先生から病気が治ってるっていう話をされたらしいわ」
運命が──変わった……?
母親がこんな嘘をつくわけがない。だけど、確かめずにはいられなかった。
「中野さんは、今どこに?」
「麻子さん?家に居ると思うわ、一緒に帰ってきたから。どうしたの?」
母親の質問には答えず、俺はすぐにリビングを飛び出した。
隣の家に建つ、白い外壁の二階建ての一軒家。玄関前の庭には人工芝が茂っている。
インターフォンを押すと「どちら様でしょうか?」と麻子さんの声が聞こえてきた。「茜川翔です」と答えると、「ちょっと待っててね、今開けるわ」と返ってくる。そして10秒もしないうちに玄関の扉は開けられた。
「こんにちは、翔君」麻子さんは微笑みながら俺にそう声をかけた。
「こんにちは。すみません、急に押しかけて」
「大丈夫よ。──唯のことよね?」
先程まで俺の母親と話していたからか、俺が訪れてきた理由は察しているようだ。
「はい。母に聞きました。──病気が治ったと」
「そうなのよ。ごめんなさいね、翔君にはもっと早く直接伝えるべきだったのに」
「いえ、そんなことは──」
麻子さんはそう言うが、母親の話によると、病気が治ったと判明したのはつい昨日のこと。謝られる必要が全くない。
「その……唯ちゃんは、本当にもう大丈夫なんですか?余命半年っていう話を聞いていたので、心配で……」
「私も未だに少し信じられないのよね。担当医の先生も驚いていたわ。『これは奇跡ですよ』って」
「奇跡──ですか?」
「先生にもどうして病気が治ったのか、詳しく分からないらしいのよ。だから、病気は確かに治っているらしいけど、念の為、一週間程は入院して様子を見て、それでも問題がないようなら退院をしましょうって」
医者にも理由が分からない──そういう例は実際に幾つかあるのかもしれないが、今回のことは医学的な何かではなく、人智を超えた力が働いている──。
一週間後、唯ちゃんは退院した。病気が再発することもなく、平穏無事に。
「翔ちゃん、私ね、病気が治ったんだよ!」元気な姿で我が家に報告をしに来てくれた唯ちゃんは、全身から希望が満ち溢れていた。
「4年間、私を縛り続けていた鎖はもうなくなった。私はとうとう、自由の翼を手に入れたんだ」そんな声が聞こえてくるようだった。
シックザル──俺は確かに他人の運命を変えたのだ。隣の家に住む女の子の運命を──。病気で消えていくはずだった命は、確かにその姿をこの世にとどめた。
結果的に俺は、一人の人間の寿命を操作したことになる。古来より禁断の所業とされている領域に手を出したのだ。
生命への冒涜、ともとれる。
俺のしたことは、果たして本当に正しかったのだろうか?そんな疑念がよぎるが、それはすぐに消え去った。
正しかったに決まっている。例え誰が何と言おうが関係ない。
元気な唯ちゃんがここにいる。そしてその姿を、これからも見ることができる。
この結果が間違っているわけがない。
「唯ちゃん、改めて、退院おめでとう」
「ありがとう、翔ちゃん!」
ニコニコとした表情。100点満点を与えたくなる笑顔。
やはり俺は、正しかった。




