第21話
桃香の分からないという問題は全部で三つあった。三角関数の問題、対数の問題、そして整数の証明問題だ。俺はそれぞれの問題の解き方を解説した。
「翔くんってやっぱり凄いね。教え方がめっちゃ上手。完璧に理解できちゃったよ」
本当に理解できているかどうかは分からないが、桃香は満足そうな表情を浮かべている。まあ、感謝をされて悪い気はしない。
「私、昔から数学って苦手なんだよねー。数学ってどうやったらできるようになるの?」
桃香は文系選択者だ。桃香に限らず、世間の文系選択者の大半が数学を苦手としていることだろう。
「数学が苦手な人は、とりあえず問題を解きまくって、内容毎の解法パターンを丸暗記するのが得策だと思う」
適している勉強方法は人によってもちろん違うが、数学が苦手な人は、数学を数学として捉えるのではなく、暗記物として扱うのが一番というのが俺の持論だ。計算力や論理的思考力なんてものは一朝一夕で身に付くものではないし、酷な話だが、元々のポテンシャル次第なところが大きい。受験数学において得意な人と苦手な人の差が著しく激しいのはそれ故だろう。
「質より量を重視した方がいいってこと?」
「少しニュアンスは違うけど、概ねそう捉えて問題ない」
質なんてものは量をこなしてこそ担保されるものだしな。
「そもそも数学なんてなければ受験がだいぶ楽になるのになあ」
桃香は渋面を作り、大学受験のシステムに不平を漏らした。
「私立大学じゃダメなのか?」
国立大学を一般受験する場合は、大学入学共通テストと呼ばれる一次試験を受ける必要があり、文系理系共に国語、数学、英語、社会、理科、情報の試験が必須となる。それに加え大学独自の二次試験を受け、一次試験と二次試験の合計点で合否が決まる。一方私立大学の一般受験は大学入学共通テストを受ける必要がない。各大学が実施する試験のみで合否が決まる。文系の場合、一部の学部を除けば国語、英語、社会の三教科のみで受験ができる。ちなみに理系は数学、英語、理科が課されることが多い。
文系選択者で数学の勉強をする必要があるということは、必然的に桃香が国立大学を志望していることが分かる。
「国立大学に受かったら、お父さんが車を買ってくれるって言ってるのよ。車よ?最高じゃん!これはもう国立に受かるしかないわ!」
「──国立大学にこだわる理由はそれだけ?」
「うん。国立大学ならどこでもいいわ。特に興味のある大学も学部もないしね。ちなみにね、中古じゃなくて新車を買ってくれるって話なの!」
目を輝かせている桃香だが、一方で俺は拍子抜けしてしまった。人の志望理由に文句を言うつもりはないが。もう少しまともな理由があると思っていたからだ。同じ大学受験をするにしても、三宮とは志がまるで違う。
「ごめん、私何か悪いこと言ったかな?」
ひょっとすると無意識に呆れ顔を作っていたのかもしれない。宿題を忘れた小学生のように、桃香は申し訳なさそうな表情を浮かべている。
「いや、言ってないよ。車を買ってもらえるなんて羨ましいと思ってさ」
「あまり羨ましそうな顔には見えないよ」
「──余計なお世話かもしれないが、国立大学ならどこでもいいっていう考え方は勿体無いんじゃないか?」
「どういうこと?」
「全く興味のない大学や学部に入学したら、入ってから辛い思いをしてしまう気がしてさ。大学は最低でも4年間という長い時間を過ごす場所だ。それなら、ちょっとでも興味があるところへ行った方が、充実した学生生活を送れるだろ。例え車を持ってなかったとしてもな。大学は基本的に学問を学ぶための場所だが、それ以外にも得られるものはきっとたくさんある。だからこそ、どこでもいいって安易に考えるんじゃなくて、本当に自分が行きたいと思う場所を今からでも探した方がいいんじゃないか?」
説教じみたことを言ってしまったから、てっきり嫌な顔をされると思ったが、予想に反して桃香は「翔君の言う通りね」と素直な反応を示した。
「それに、どの大学や学部を卒業するかによって、就職先はかなり変わるだろうしな。大学、学部選びを慎重に行うことは、将来の自分のためにもなるはずだ」
特に学部はかなり重要だ。俺のように医者になりたいのであれば、同じ大学でも医学部に行かなければ意味がないといったように。
「将来かあ……」魂が抜かれたかのように急に元気を失った様子で、桃香はそう呟いた。不思議に思い、「どうした?」と尋ねてみると──。
「私の家が小さな印刷会社を経営してるって話は、前したよね?」
付き合っていた頃、確かにそういう話を聞いた記憶があったため、俺は頷く。
「おじいちゃんの代から受け継いでいる会社で、50年以上も歴史があるんだって。それで、お父さんもお母さんも、将来は私に引き継いでほしいみたいなの。ほら、私って一人っ子だから他に人がいなくてさ。大学を卒業したら会社を手伝うように言われてるんだよね。でも、正直私としては会社を引き継ぎたいとは思っていなくて……だからと言ってなりたい職業があるわけじゃないし……親には感謝してる。ただ、自分の将来が他人に決められてしまっているっていうのは、正直、嫌だなあ……」
暗い表情を浮かべながら、桃香はそのように家庭事情を語った。
自分のことを自分で決められないという現実は、俺が想像しているよりも辛いことに違いない。
そして俺は、つい先ほどの自分の発言を後悔した。
桃香が国立大学ならどこでもいいと言っているのは、おそらく、車が買ってもらえるからというのが一番の理由ではない。
どこの大学に進学したところで、親の会社を引き継がなくてはいけないという未来は変わらない。その諦めの感情が根底にあることが最大の理由だ。
俺は無責任だ。
人の事情も知らず、軽々しく物言いをしてしまった自分が腹立たしい。
誰もが自分の将来を自由に決められるわけではない。
桃香のように、親の敷いたレールを進まなくてはいけない人もいれば、大学に行きたくても、金銭面の関係から進学を諦めなくてはいけない人もいるだろう。
それに比べて、俺は、なんて恵まれていることか。
「ごめんね、勝手に家のことなんか話しちゃって。翔君は──今も医者を目指しているの?」
「──まあ、一応」
「凄いねえ。決意が固くて、尊敬しちゃうよ」
何も裏のない素直な感想。桃香に俺を妬む気持ちがないのは分かっている。それが分かっているから余計に、微笑む顔を向けられて、胸が痛む。「自分で将来の夢を決められて羨ましい限りね」という言葉が呪詛となって襲いかかってくるような感覚に陥る。
「ちなみに、医者になろうと思ったのはいつ頃からなの?」
「中学1年生だな」
「そんなに前からなのっ⁉︎ってことは、5年間ぐらいずっと同じ夢を持ち続けてるってこと?」
「そういうことになるな」
「やっぱり翔君って凄いよ。初志貫徹ってやつだね」
決して凄くなんてない。俺は自分の意志で、自分がなりたいと思ったから努力を続けているに過ぎない。それに、まだ何も、成し遂げてはいないのだから。桃香にはどうも俺の姿が過度に美化されて映っているようだ。
「私も、将来のやりたいことを真剣に探してみようかな……」
「親の印刷会社は……どうするんだ?」
「正直に話してみようと思う。自分の将来は自分で決めたいって。もちろん、それだけを言っても納得は得られないだろうから、やりたいことを明確にしてからだけどね」
意を決したような目つきが向けられる。
「自分の人生なんだから、やっぱりもっと真剣に向き合わないとね。私、どうせ親の会社を継がなきゃいけないっていうことに幼い頃から縛られてて、それ以外の道を考えることを最初から放棄していた気がする。でも、翔君と話していて、それじゃあダメだなって思った。考えを放棄するには、まだ早過ぎるってことに気付けたよ。──ありがとう」
「俺は別に何も──」
「翔君のおかげだよ」
俺が否定しようとするのを桃香は打ち消した。感謝の気持ちがひしひしと伝わってくるが、本当に俺は、礼を言われるようなことを何一つしていない。むしろ、家庭の事情に土足で踏み込んだことを非難されるべきなのに。
「改めて考えると、車の有無なんかで大学を選ぼうとしていたなんて、愚かにも程があるよね。反省しないと」
「いや、一つの選択肢としてはありだと思うぞ」
「気を使わなくてもいいよ。間違っている考えは素直に直さないと。逆に、間違いを間違いとしてそのまま放置するのはよくないでしょ?」
深い意味などなく、何となく桃香はそう言ったに違いない。だけど、桃香のこの言葉は俺に大地を揺らす程の衝撃を与えた。
そうだ──間違っているものは、正しく直す必要があるのだ。
「とはいえ、やりたいことって、どうやったら見つかるのかなあ」
会話はそれから、桃香のやりたいこと探しへと切り替わる。
日中のじめじめとした空気は、今はもうすっかりと教室から消えていた。




