第18話
その日の夕方。唯ちゃんと麻子さんが我が家を後にし、部屋で勉強していると「翔、少し話があるからリビングに来てくれない?」と母親から声をかけられた。
リビングへ行くとダイニングテーブルの椅子に母親は座っていた。斜め向かいの椅子に腰をかける。
「話って何?」
「唯ちゃんのことよ」
暗い表情の母親。嫌な予感が胸を刺す。
「麻子さんから、翔にも伝えてほしいとお願いされてね」
俺と唯ちゃんが遊んでいた間、母親と麻子さんはこのリビングで話をしていた。察するに、愉快なママ友トークとは程遠い話題が繰り広げられていたのだろう。
「病気のこと……だよね?」
恐る恐る尋ねた。わざわざ母親が俺を呼び出し、しかも麻子さんからの言伝となると、考えうるものは一つしか思いつかなかった。
「……そうよ」
暗い顔をさらに暗くさせて母親は答えた。ひょっとしたら別のことかもしれない、と少しだけ期待していたが、そんなものは一瞬で粉々に砕かれた。
「翔、落ち着いて聞いてね。唯ちゃんなんだけど、この前担当医の先生から……余命半年の宣告を受けたらしいの……」
想像を遥かに超える最悪の知らせ──。
ある程度のことは覚悟をしていたが……これは……。
唯ちゃんが、あと半年しか生きられない……。
まだ10歳だぞ?こんな悪夢のような現実が罷り通っていいのか?
強く握りしめた拳から出る手汗が気持ち悪かった。
体内から憎悪の感情が湧き起こるが、それをぶつける対象がいないことに気付く。
誰も悪くない──。
誰も責められない──。
いや、強いて言うなら、唯ちゃんにこのような悲痛な人生を歩ませた運命が──。
「麻子さん、翔が唯ちゃんを遊びに誘ってくれたこと、とても感謝してたわ。残り少ない人生の思い出を作ってくれてありがとうって……それで、そんなあんたに何も言わないのは失礼だからこのことを伝えてほしいって……」
母親の目から涙がこぼれ出す。水滴が、一つ、また一つとテーブルへ落下していく。
唯ちゃんは自分の余命があと半年であることを知らない。話を聞かなくても分かる。もし知っていたら、あんな楽しそうにゲームをしていられるわけがない。
蛇口が壊れた水道水のように、母親の目からこぼれる涙はしばらく止まりそうにない。そして、これ以上伝えることはないといった感じで口を閉ざしている。
悲愁な姿を背に、俺はリビングから出た。
部屋に戻りベッドに倒れ込む。
いずれ麻子さんは唯ちゃんに余命を伝えなくてはいけない。そのことを考えると、こちらまで気が重くなってくる。
バイクで日本一周をして綺麗な景色を見たい──そんな夢を語った少女。病気が必ず治ると信じて描いた夢。
だけどその夢は、少女の知らないところで音もなく静かに消失していた。
唯ちゃんの病気を治すことのできない現代医療の限界──。
本当に治すことはできないのだろうか?医者たちが真剣に治療法の確立を研究していないだけなのではないか?
もし俺が医者だったら、病気を治せたかもしれない──。
いや、たらればの話をしても意味がない。
現実は変わらない。
少なくとも、ただの高校3年生ができることなんて何もない。
何も……。
「にこまる、いるか?」
「もちろん」
俺の呼びかけに一瞬で姿を現し返事をする黄色い生命体。まるで忠犬だ。
「シックザルっていうのは、どうやって使うんだ」
「簡単だよ、目を瞑って運命を変えたい相手の顔を思い浮かべて念じるだけでいい」
「やけにシンプルだな」
「だろ?ちなみに念じるのも10秒くらいで大丈夫。するとあら不思議、一瞬にして運命が変わる。という感じさ」
「なるほど、即効性もあると」
「そうと分かれば早速唯ちゃんに使おう!」
右手を高く上げて意気揚々としているにこまるを俺は無視し、ベッドの上で寝返りを打つ。
「何だよ?唯ちゃんの運命を変えるために僕を呼んだんじゃないのか?」
ムスッとするにこまるを尚も無視する。
シックザル──他人の運命を変えるこの力が本物ならば、唯ちゃんを救えるかもしれない。
半年後に病気で亡くなるという運命から、病気が治り元気な姿を取り戻すという運命へ変えることができれば──。
しかし、必ずしも良い運命に変わるとは限らない。現状よりも悪い運命を導き出してしまうことだってあるだろう。
そもそも俺は、人の運命を変えていいのだろうか?
力があるからといって、それを振りかざす権利があるかどうかは別だ。
人の運命を変えたり、創りあげたりしていいのは、人を超えた「神」と呼ばれる存在だけのはず。
ただの人間が他人の運命を変えるなど、どう考えても人倫に反している。
だけどこのまま何もしなければ……唯ちゃんの命が──。
倫理と感情の葛藤。二つの争いは熾烈を極め、勝敗は一向に見えてこない。
「にこまる、今日は一旦。もう消えていいぞ」
「はあ?人を呼び出しておいてその態度はどうなんだい?」
「シックザルを使うかどうか……少し考えさせてくれ」
「あっそう」と言って不機嫌な様子で部屋から消えていくにこまる。
この力は、そう易々と使っていいものではないはずだ。
今この場で即決はできない。




