第16話
「俺にとって東部分館は、本郷さんと出会った大切な場所だ」
高校3年生になった今でも、こうして時折通ってしまうのは、忘れてはいけないと心が強く訴えているからだ。
本郷さんと過ごした、短い日々のことを──。
「本郷さんとはそれ以来会っていない」
あれから5年が経った。その間一度たりとも俺は恩師の姿を見ることなく、時計の針は機械的に一定の速度で回っていた。
「連絡も一切ないんですか?」
顔を曇らせている三宮に俺は「ああ」と答えた。
「おそらく本郷さんはもう──」
「生きてますよ、きっと」
俺の言葉を遮る三宮。その先を言わせないという意思が目に宿っている。
慰めてくれようとしている気持ちは素直に嬉しい。だけど、理想や幻想に永遠と浸っていても、跡に残るのは虚無感だけだ。俺はもう、現実を受け止める覚悟を持っている。
「人は必ず死ぬ。でも、寿命で死を迎えるのと、病気や事故で命が絶たれてしまうのでは、同じ死でもそれは別物だと思う。誰がどう考えたって、後者は不幸だよ。まだ生きていられるはずだった命が失われるのだから。本人だけでなく、周りの多くの人間に深い悲しみを刻み込む。俺は医者になって、そんな悲しみを抱える人を一人でも多くなくしたい。救える命があるなら救いたい」
俺が本郷さんの命を救うことは、もはや叶わない夢だ。ならせめて、同じように病気で苦しむ人たちや周りで辛い思いをする人たちを助けたい。
自分が味わった悲しみを、他の誰にも経験してほしくなかった。
「医者になるには大学の医学部を卒業する必要があると知って、それなら本郷さんが通っていた富川大学の医学部で医学を学びたいと思った。何ともまあ単純な話さ」
おそらく本郷さんが医学部を卒業していなかったら、俺は意味もなく、より偏差値の高い大学の医学部を目指していただろう。
「私は単純だとは思いません。茜川くんが富川大学を目指している理由は、とても素晴らしいものだと思います」
「そんなことないさ」
「いいえ、立派です。恩師の方が学んだ場所で自分も学びたい、という茜川君の想いに感動しました」
嘘偽りのない真剣な目がこちらを向いている。
「医者を目指す理由にも心を打たれました。誰かのために尽くそうとする意志、尊敬します。それに比べて私は、自分のことしか考えていませんね……情けないです」
「お前の夢は、島に住む全員のためになることだ。自分のためだけではない。情けないなんてことは決してないさ。むしろ、誇りに思っていいことだ。少なくとも、俺はそう思う」
島を守るために官僚となって空港を建設する。並大抵の人間ができることではない。その夢を叶えるために日々努力している三宮が情けないわけがない。
「ありがとうございます」
胸を撫で下ろしたといったような表情で、三宮は礼を述べた。
「茜川君──」
「何だ?」
「志望校合格を目指して、お互い、頑張りましょうね」
「──そうだな」
官僚と医者。世間一般的にどちらもエリートな職種といって間違いないだろう。大多数の人間が、その職業を聞くと「優秀ですね」と口にするに違いない。だけど俺も三宮も、世間からのそんな言葉を浴びたいために官僚や医者になるのではない。成し遂げたいことがあるからその道を進むのだ。官僚や医者になることはゴールではなくて、ゴールに辿り着くための手段だ。大学受験はその手段の手段に過ぎない。
「俺たちは二人とも、必ず合格するさ」
慢心なんかではない。今までの努力、そしてこれからも努力できるという意志が自然と自信を構築している。
それに、手段の手段に手を焼くようじゃ、俺たちの夢は到底叶えられないぐらい大きなものだしな。
「茜川君のお墨付きは、100%の信頼があります。4月からはお互いに大学生ですね」
「帰省する時は東京土産を買ってきてくれよ」
「何がいいですか?」
「東京ばな奈で」
「定番ですね。他には何かないんですか?」
「じゃあ、ソラカラちゃんのキーホルダーを」
「ソラカラちゃん……?」
「東京スカイツリーのマスコットキャラクターの名前だよ」
「そうなんですね。分かりました、ソラカラちゃんのキーホルダーも買っておきますね」
現在5月下旬。何ともまあ気の早い話。そしてこんな話を冗談ではなく互いに本気でしているのが面白く感じる。
「こうして茜川君と話していると、お互いが医者と官僚になるという運命はもう決まったかのように感じてきました。それぐらい、なんだか自信が湧いてきました」
「もちろん油断はせずに、これからも勉強を頑張りますけどね」と微笑みながら付け加えた三宮だが、俺は喉に異物が引っかかる感覚を覚えた。
脳裏に巨大なすごろく盤が出現する。
そしてそのすごろく盤を上から見下ろす、謎の黄色い生命体の姿も──。
運命──。
「三宮、一つ変な質問をするが、答えくれないか」
「何でしょうか?」
一度深呼吸をしてから俺は問う。
「人の運命は既に決まっている。それは決して変えることができないものだと言われたら、お前は信じるか?」
突然の宗教とも哲学とも言える問いに、一瞬だけ驚きの表情を見せた三宮だが、腕を組み考えを巡らせ、答えを出そうとしている。
俺の頭がおかしくなったと瞬時に思い込んだ大智や聡美とは全然違う。
「質問を質問で返すようで悪いのですが、茜川君は『ラプラスの悪魔』というものをご存知ですか?」
俺は首を横に振る。ラプラス関数という言葉なら聞いたことあるが。
「フランスの数学者、ピエール=シモン・ラプラスという人物が提唱した理論です。簡単に説明すると、『現時点のありとあらゆる全ての物理現象を解析することができれば、未来を確定させることができる』というものです」
理屈は分かるが、実践的理論とは言えないと俺は思った。単純に、全ての物理現象を解析することなど不可能だからだ。
「ちなみに私はこのラプラスの悪魔という理論に否定的な立場です。なぜなら、物理現象だけで世界が構築されているとは思わないからです。物理現象だけでは説明のつかないものが、世の中には溢れていますので」
「宇宙人とか幽霊の存在とかのことか?」
「それらもそうです。ただ、それら以上に複雑で不思議なものがあるじゃないですか」
「と、いうと?」
「感情です」胸に手を当て、ゆっくりと三宮はそう答えた。
「人はその時の精神状態によって、自身の能力以上のことを成し遂げてしまうこともあれば、その逆もあったりしますよね。例えばスポーツの試合で、アウェイの会場よりもホーム会場で試合をする方が勝率が良いというデータがあります。これはホーム会場の方が慣れた環境でパフォーマンスを行えるからという理由もあるらしいですが、一番はサポーターの応援の力だと言われています。応援されると嬉しい、頑張ろうといった感情が起こりますよね。ポジティブな感情が本来以上の力を引き出しているからでしょう」
サッカーワールドカップにおいて、開催国のその大会の成績が比較的良くなると言われているが、それも同じ原理なのだろう。
そしてきっと、感情の波によって結果が変わるのはスポーツだけではない。将棋や囲碁といった頭脳戦においても、同じことが言えるのではないかと思った。
「プラシーボ効果もそうですね。効果のないものでも有効な薬だと言われて飲んだら、本当に有効に作用するというのも、人の感情によって導き出される現象です」
ちなみに何の効果のないものでも、副作用が出るとものと言われて飲んだら、本当に体に悪影響な症状が出ることがある。これをノセボ効果という。
「物理現象のように、感情には法則なんてものは存在しません。なので解析は不可能です。解析できないのであれば、ラプラスの言う未来というものを確定することはできません」
「つまり、俺の質問への回答は、NO?」
未来が確定できないのであれば、運命は決まっているとは言えない。そう思って俺は答えを確認したが、三宮は首を縦に振らなかった。
「正直、分からないというのが回答です。中途半端ですみません」
「運命は決まっているとも、いないとも言える、ということか?」
「個人的には決まっていないと信じたいんですが、決まっていないという根拠が上手く説明できないという感じです」
いわゆる悪魔の証明というものに似ている。あるものを証明するのは簡単だ。それを一つ見せるだけでいい。しかし、ないものを証明するのは非常に難しい。全ての条件下でそれが「ない」ことを見せなくてはいけないのだから。
「でも、運命が決まっていて変えられないと考えるよりも、運命は決まっていなくて変えられると思っている方が絶対に良い、ということは確かです」
自信のある声音──。
「どうしてそう言い切れるんだ?」
「だってその方が、楽しいじゃないですか」
三宮はそう答えた。顔に向日葵のような笑顔を咲かせて。言葉には、信念のようなものが含まれている。
「運命が決まっているか決まっていないか、私には分かりません。でも、何が起こるか決まっていないからこそ、人生は楽しいと思うんです。全てが予測可能な日々をもし過ごしているのだとしたら、それは生きているとは言えない気がします。そうですね、作業をこなしているという方がしっくりきます」
作業をこなしている──この無機質な表現がとても的を得ていると感じた。
「私は今生きていて、とても楽しいです。もちろん辛いこともたくさんありますが、そういうものも全て含めて。月並みの言葉ですが、せっかくの一度きりの人生です。楽しまなくては損です。人生を十分に楽しみ満喫するには、実際はどうであれ、運命は決まっていないと信じた方が良いと思います」
タネの分かっている手品を鑑賞するのと、タネの分かっていない手品を鑑賞するのであれば、100人中100人が後者の方がワクワクすると答えるだろう。もちろん俺だって例外ではない。運命が決まっていると信じてしまうのは、ショーの前に、手品のタネを手品師から聞く行為と同じようなものだ。そんなことをしなければ、楽しい手品が見られるというのに──。
俺は不必要に、考えすぎていたのかもしれない。
「ありがとう、三宮」
どうしてお礼を言われたのか分からず、ぽかんとした顔をする三宮。
肩に固定されていた重石が外れて、体が少し軽くなったような気分。今なら走り幅跳びの記録が30センチ伸びるかもしれない。
地面に目をやると、長い影法師は既に暗闇と一体化していた。
「すっかり暗くなってしまったな」
「時間が過ぎるのはあっという間ですね」
「悪いな、こんなに遅くまで付き合わせてしまって」
「とんでもない。とても有意義な時間でした。また、こうやってゆっくり話をしたいです」
その言葉に、なんとも言えない高揚感が湧いた。しかし、「また機会があればな」と少し素っ気なく返答してしまう。思春期男子のお手本のような行動をとってしまったことが我ながら悔しかった。




