第12話
中学1年生の夏休み。大量に出された宿題の一つである自由研究をするために、俺は東部分館に来ていた。
1階で本を借りてから2階のフリースペースに行く。当時からこの場所は満席になることは決してなく、こじんまりとした部屋が異様に広く感じた。
「カタツムリに興味があるのかい?」
本を読んでいると急に声をかけられた。振り向くと一人の男の人が立っていた。
年はおそらく20代後半から30代前半頃、肩まで伸びているパーマのかかった髪。深い彫りの目に整った鼻、髭は綺麗に剃られていて顔全体に清潔感が溢れている。
それが本郷純一郎との出会いだった。
「いや、特にそういうわけでは……夏休みの自由研究です」
いきなり見知らぬ人物に声をかけられて少し驚いたが、ぱっと見た感じ悪い人ではなそうだった。
「カタツムリを調べるように、学校で指定されているのかい?」
本郷さんは俺が読んでいる「カタツムリ図鑑」という題名の本を指さしてそう言った。
「いえ。動物、植物、宇宙のことでも。先生からは、理科に関するものであれば何をテーマにしても大丈夫だと言われています」
「理科に関するものか。それなら世の中の全てのものがOKということだね」
「全てというのは、どういうことですか?」俺は本郷さんの言葉の意味がよく分からなかった。
「何でもいいから何か指さしてごらん」
ますます意味が分からなかったが、とりあえず手元にある自分の消しゴムを指さしてみることに。
「消しゴムか。多くの消しゴムはね、ポリ塩化ビニルという主成分に可塑剤というものを混ぜて作られているんだよ。ポリ塩化ビニルというのは、いわばプラスチックのこと。消しゴムっていう名前なのに、成分はゴムではなくてプラスチックっていうね」
俺は消しゴムを親指と人差し指でつまみ、圧力を加えてみた。程良い弾力。これがプラスチック?
「今のは化学の話さ。ほら、理科に結びついた」本郷さんは満足そうに微笑んだ。
俺はその言葉を聞いて、何となくだが意図が理解できた。
「世の中は理科で溢れているんだよ。どんな物も、どんな生物も、どんな現象も、そこには理科の知識が詰まっている。学校で理科を勉強するということは、世の中を知ることと言ってもいい」
「えっと、お兄さんはひょっとして理科の先生ですか?」
「お兄さん?最近の子供はお世辞が上手いなあ。僕は今年で43歳のおじさんだよ」
43という数字に衝撃が走る。この顔で43?俺の父親とそんなに歳の差がないのに、本郷さんはとても若く見えた。ジーパンに白の無地の半袖シャツというラフな服装も年齢を低く印象付けているのかもしれない。
「理科の先生ではないよ。僕は生物学者だ。日々様々な生物を研究し、それを仕事としている」
本郷さんはその後30分ぐらい、生物学者の仕事がいかに心躍るものかを語った。世の中には何百万という生物がいることや、神秘的な体の構造をしている生物のこと、新事実を発見した時の感動は数値では計り知れないこと等、無邪意な小学生のようにひたすら話し続けた。
俺はその話に惹かれていた。特段、生物学のことに興味が湧いたわけではないが、研究のことを幸せそうに語る本郷さんの姿を見ていると、「知る」ことの楽しさというものが、じわりじわりと体に染み込んでくるようだった。
「そういえばカタツムリをテーマにした理由を聞いていなかったね」
本郷さんは自分の話を切り上げて話のバトンを俺に渡した。
「理由は……ありません。本棚にあったので何となく手に取ってみただけです」
悪いことをしたわけではないのに、謝りたい気分だった。本郷さんの話を聞いた後では、俺がカタツムリをテーマにして調べようと思った理由は浅はかにも程がある。目の前の生物学者を侮辱してしまったような罪悪感を覚える。
「じゃあそれは運命の出会いというやつだね。数多くある本の中で、偶然にも選ばれたのがカタツムリということだ。これは何かの巡り合わせかもしれないなあ」
しかし本郷さんは全く意に介した様子はなかった。むしろ、適当に選択したという行為をポジティブな考えに変換している。俺にはそんな発想はなかった。
「本郷さんは、カタツムリを研究したことはありますか?」
「本格的に研究の題材にしたことはないなあ。何冊か本を読んだことはあるけどね。そうだ、一つだけカタツムリの知識を君に教えよう」人差し指を立てて、本郷さんは語る。
「カタツムリの殻は右巻きのものと左巻きのものがあるんだ。数で言うと右巻きが9割と圧倒的に多く、左巻きは1割しかいない。右巻きが多い理由は、天敵から身を守ための構造が右巻きの方が優秀という説が有力だけど、実は詳しい理由はまだ解明されていない。ちなみに人間も右利きが全体の9割で、左利きが1割と言われている。カタツムリの殻と割合が全く同じだ。なんて不思議なことだろうか」
人間の利き手はさておき、カタツムリの殻の巻き方の秘密が解明されたところで、何か得があったり、世の中のためになったりということはないだろう。でも、それでも俺は、理由を知りたいと思った。
「まあとにかく、自由研究頑張ってね。最終的にはレポートみたいな形でまとめるんだろう?完成したらぜひ見せてほしい。僕は研究の息抜きによくここへ来て本を読んでいるからさ」
本郷さんはそう言い残して去っていった。
それから俺はカタツムリについて徹底的に調べた。
東部分館にはカタツムリの本が2冊しかなかったため、わざわざ本館まで行き、追加で本を借りた。また、実物のカタツムリを捕まえて家に持ち帰り、毎日観察もした。虫かごの中のカタツムリをじっと見つめる俺に対して母親は「よくそんな君の悪いものをずっと見ていられるわね」と白い目を向けていたが、何も気にならなかった。
中学1年生にしては、かなり完成度の高いレポートが作成できたという自負がある。他の生徒がA4用紙2、3枚程度でまとめていたのに対し、俺のレポートは30枚を超えていた。
「茜川、よく頑張ったなあ」
俺がレポートを提出すると、担任の教師はそう褒めてくれた。褒められて悪い気はしなかったが、正直嬉しくもなかった。
一週間後、レポートは返却された。「見ました」という文字のスタンプが押されて。もちろん他の生徒のレポートにも同じものが押されていた。2、3枚のレポートと30枚を超えるレポートの扱いが同じ。もちろん枚数が多ければ良い、というわけではないが、俺のレポートに対する熱量は他の生徒とは次元が違っていたことは確かだったと思う。
その日の放課後、東部分館のフリースペースに行くと本郷さんはいた。
「これは凄いなあ」俺がレポートを見せると本郷さんはそう言って褒めてくれた。
担任の教師の言葉とさほど意味は変わらない褒め言葉なのに、俺は何故だか無性に嬉しかった。
「何を言うか」よりも「誰が言うか」の方が大切だということを知った瞬間だ。
「君はこんなにも凄いレポートを作成できるんだから、さぞかし学校の成績も優秀なんだろうなあ」そう言いながら本郷さんはレポートを俺へ返した。
「悪くはないです。一学期の期末テストは、総合得点が学年で10位でした」
「なんだ、やっぱり優秀じゃないか」
「まあ、一般的にはそうだと思うんですけど、どうも自分では凄いとは思わないんですよ」
「ほう。どうしてだい?」
「俺には2つ上の兄貴がいるんですが、兄貴のテストの順位は毎回1位なんです。1位以外の順位を取ったことは見たことがありません」
「ははは、なるほどね。君はお兄さんと自分を比較しているわけか」
そういうことになる。別に悔しいとか、勝ちたいとか、そういう気持ちはない。ただ、自分よりも凄い人間が身近にいると、どうしても自分の能力が霞んで見えてしまう。
「しかし、君にはあんな素晴らしいレポートを作成できる力があるんだ。学校のテストで1位を取るぐらいの能力はあると思うけどね」
「まさか。俺を買いかぶり過ぎですよ」
「いや、正当な評価だよ。僕には分かる。君は──優秀だよ」
優しい目、なのに鋭い視線が俺を捉える。見えない何かが身体を縛り付ける、そんな感覚を覚える。
「何か──根拠があるんですか?」
「僕も優秀だから、というのが根拠かな」犯人に確たる証拠を突きつけた刑事のような顔で本郷さんはそう言った。
「……それって根拠なんですか?」
本郷さんが優秀なのはもちろん分かっている。おそらく子供の頃からそうだったことも。だからといって、それが俺の頭の良さを保証するものになるのかは、疑問を持たざるを得ない。
「立派な根拠さ。ちなみに、次のテストはいつかな?」
「──来月末に二学期の中間テストがありますが……どうしてですか?」
「まだ1ヶ月以上あるね。よし、その中間テストで、総合得点1位を取ってみようか」
「ふぇっ?」
いきなりの無茶難題に喉から変な声が出てしまう。兄貴と同じ血は流れているが、いきなり俺が1位なんて取れるわけがない。
「一学期のテストで君が1位を取れなかった理由が、僕には何となく分かっているからね」
そもそも俺の頭の中には、テストで1位を取れない理由を考える、という思考がなかった。自分の学力はこれぐらいだろう、そう決めつけていたからだ。だから理由が存在し、それを理解しているという本郷さんの言葉には驚きを隠せない。
「理由を、教えてください」
1位を取りたいという気持ちよりも、どんな理由なのかという興味が勝る。
「シンプルなことさ」そう前置きをして、本郷さんは答えを教えてくれた。
「勉強のやり方が間違っているんだよ」
自分の頭に?マークが浮かぶのが分かった。言っていることの意味はもちろん分かる。だけどあまりぱっとしなかった。




