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プロローグ

「君に運命を変える力を与えよう」


 何の前触れもなかった。気温が変わるとか、風が吹くとか、視界がぼやけるとか、そういう変化は一切なかった。


 部屋で勉強していると、背後から突然声がした。


 振り返ると、見たこともない謎の生命体が宙に浮いてこちらを見ている。


 楕円型の顔、頭に生える猫のような両耳。体は顔の半分ぐらいの大きさしかなく、引っ張ったらちぎれてしまうんじゃないかという弱々とした頼りない印象を受ける。そんな貧相な体からひょっこりと生える小さな手足。全長は30cmぐらいといったところだろうか。


 アンバランスなフォルム、レモンの皮のような黄色いそいつは、「これはぬいぐるみです」と言われれば何とか納得できるが、俺の知る限り、一瞬にして姿を現し、浮遊ができ、言語を扱うぬいぐるみはこの世の中に存在しない。


 こいつは何者だ?


 一体何が起きているんだ?


 俺はただ、机に向かって数学の微分の問題を解いていただけだ。


 ひょっとすると勉強している間に眠ってしまったのかもしれない。右頬を強くつねるが痛みが生じるだけで景色は変わらない。


「おいおい、黙ってないで何か返答してくれよ」


 目の前のそいつは口角を上げ、ニヤリとして笑みを浮かべている。黒のフェルトペンで縦棒を書いたかのような両目は瞬きを一切しない。動く口と動かない目。動と静が混沌する表情は不気味さを増幅させる。


 人というのは、本当に驚いた時には声が出せず、体が動かない状態になると、どこかで聞いたことがあるが、その話はどうやら正しいようだ。


 使い古した教科書や参考書が敷き詰められた黒色の本棚、壁にかけられている見慣れた学生服、ダークブラウンの掛け布団が乗った木製のシングルベッド。


 間違いない、ここは俺の部屋だ。


 どこか別の異空間へ飛ばされた訳ではない。この謎の生命体がどこかからやってきたのだ。いや、俺の部屋そっくりの別の場所に俺が飛ばされたという可能性もある。考え出したらキリがない。


「君、僕の声聞こえているよね?」


 頭を少し傾けてそう尋ねられる。聞こえているさ。聞こえているからこそ驚いて声が出せないでいるのだが──。


 ただ、このまま黙っていては何も分からないまま思考が余計に錯綜するだけだ。首を小さく縦に振り、肯定の意思を見せる。


「良かった、やっぱりちゃんと聞こえていたんだね。だとしたら無視するのは酷いよ。やれやれ、困ったもんだ」


 謎の生命体は肩をすくめる動作をしてそう言った。口元には笑みを浮かべているため、本当に困っているようには見えない。


「お前は……何者なんだ──?」


 ようやく喉の奥に溜まっていた言葉を吐き出すことができた。


「ああ、そうか、名乗るのを忘れていたよ」そう前置きをしてから、謎の生命体は俺の問いに答えた。


「僕の名前は『にこまる』よろしくね、茜川翔くん」

「にこ……まる……?」

「そう、にこまる。どうしたの?」


 別にどうもしていない。ただ、少しだけ可愛げのある名前だなあと思っただけだ。


 というか名前は特に重要じゃない。そんなことよりも──。


「名前は分かった。それよりも、お前の正体は何なんだ?どう見てもこの地球上の生き物とは思えないんだが……」

「正体と言われてもなあ。僕の正体を表す言葉なんて日本語にそもそもないからなあ。もちろん英語にもドイツ語にもタミル語にも」


 タミル語とはインド南部の町やスリランカ、シンガポールの公用語として使われている言語であり、世界中で約7000万人が使用している。英語、ドイツ語の並びでなぜタミル語が出てきたのだろう……?


「でもまあ、そうだね、強いて言うなら──」


 代用になる言葉を教えてくれるらしい。中々律儀な謎の生命体だ。


「妖精かな」

「……え?」

「妖精って知らない?英語でフェアリー、ドイツ語でフィー、タミル語でティーバティ」


 いや妖精は知っている。ただ、俺の思い描く妖精は、小さな女の子に羽が生えている美しい生命体で、目の前のそれはお世辞にも美しいという言葉から程遠い位置に属した容姿をしているから、言葉選びを間違えているんじゃないかと思ったんだが──。


「よく分からないけれど、僕のことバカにしてるでしょ」


 謎の生命体こと、にこまる、自称妖精は口をへの字にしてムッとした表情を見せる。


「そんなことはないよ」


バカにはしていない、選ばれた言葉に疑念を抱いただけだ。しかし、それをわざわざ伝える必要もないだろう。


「それで、にこまる……妖精のような存在であるお前は、何の目的で俺の前に姿を現したんだ?」

「あれ、それは最初に言ったと思うけど?」


 2回も説明させるつもり?みたいな表情でこちらを見てくるが、お前が最初に何を言っていたかなんて覚えていない。突然の出来事に困惑していて、声を耳に入れる余裕なんてなかった。


「まあ大事なことだからね、もう1回言うよ」


 俺は言葉を聞き逃さないよう、黄色い妖精の顔に視線を向けた。


「君に運命を変える力を与えよう。そのために、僕はここに来たんだよ」


 運命を──変える?


 宙に浮くにこまるが輝いて見えた。


 天井に設置されているシーリングライトの明かりのせいではない。何か別の、人工物ではない神々しい光が照らされているような感じがした。


 同時に、床にできた暗い影が蒸気のようなものに変化して、黄色い体を漆黒が覆う。


 光と影を身に纏ったにこまるは不思議と、これからの俺の運命を暗示しているような気がした。


「正確には、他人の運命を変える力だけどね」

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