婚約破棄を回避するために「痩せ薬」を飲んだ結果、ブチ切れると服が弾け飛ぶ「筋肉聖女」になってしまった件
すべての始まりは、一ヶ月前の王都の庭園で開かれたティーパーティーだった。
公爵令嬢マリアンヌは、目の前に並べられた宝石のようなイチゴのタルトに目を輝かせていた。
彼女は、少しばかりふくよかだった。動くと揺れる柔らかそうな頬、パンのような白い手。流行りのスリムなドレスは窮屈そうだが、その愛嬌のある笑顔は、本来なら周囲を和ませるものだったはずだ。
「……おい」
冷ややかな声が、マリアンヌの至福の時間を凍らせた。
婚約者である第二王子、セシル殿下だ。
「セ、セシル様。ごきげんよう」
「ごきげんよう? ……ふん、お前は呑気でいいな」
セシル殿下は、マリアンヌがフォークで刺そうとしていたタルトを、無慈悲に払い落とした。
グチャッ。鮮やかな赤色が、白い石畳に無惨に散らばる。
「あ……」
「また食うのか? よくその醜い体で、恥ずかしげもなく砂糖の塊を欲しがれるものだ」
周囲の貴族たちがクスクスと笑う。
「見て、また豚令嬢が叱られてるわ」
「殿下もお気の毒に」
マリアンヌの顔が羞恥で赤く染まる。彼女はただ、甘いものが好きで、穏やかに暮らしたいだけの心優しい少女だった。誰かを傷つけたことなど一度もない。
「マリアンヌ。僕は忍耐強いが、限界だ」
セシル殿下は、汚いものを見るような目で彼女を見下ろした。
「来月の建国パーティーまでに、その脂肪を削ぎ落としてこい。今の半分の細さにならなければ、婚約は破棄する」
殿下は踵を返し、ヒラヒラと手を振って去っていった。
残されたマリアンヌは、潰れたタルトを見つめ、ポロポロと涙をこぼした。
(痩せなきゃ……。痩せて、綺麗になって、殿下を見返さなきゃ……)
その夜から、マリアンヌの地獄が始まった。
食事を抜き、コルセットで締め上げ、庭を走り回った。だが、元々運動音痴で代謝の悪い彼女の体は、頑として変わらなかった。空腹で意識が飛び、倒れ、それでも体重計の針は動かない。
絶望に打ちひしがれ、フラフラと路地裏を彷徨っていた時だ。
彼女は、運命の――そして致命的な出会いを果たす。
「おやおや、お嬢さん。手っ取り早く『美しさ』を手に入れたいかね?」
黒いフードを被った行商人が、怪しげな小瓶を差し出した。
ラベルには古語で黄金の獅子の涙と書かれている。
「これは脂肪を筋肉に変え、さらにその質量を魔力で極限まで『圧縮』して美貌を作る秘薬だ。飲むだけで、君は国一番の美女になれる」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ。ただし、一つだけ注意点がある」
行商人は、ニヤリと笑って付け加えた。
「決して、怒ってはいけないよ。感情が高ぶれば、圧縮の封印は解かれ……『中身』が飛び出してしまうからね」
その時のマリアンヌは、その言葉の本当の恐ろしさを理解していなかった。
ただ、殿下に認められたい一心で、その琥珀色の液体を一気飲みしたのだった。
そして、一ヶ月後。建国記念パーティーの当日。
公爵家の馬車から降り立った一人の少女に、会場中の視線が釘付けになった。
「あ、あれは誰だ? なんという美しさだ……」
「まさか、マリアンヌ嬢か!?」
そこにいたのは、透き通るような肌と、折れそうなほど華奢な手足を持つ、絶世の美少女だった。
かつてのふくよかな面影はない。ウエストは両手で掴めそうなほど細く、特注のシルクのドレスが優雅に風に揺れている。
(……成功よ。これなら殿下も認めてくださるわ)
マリアンヌは扇子で口元を隠し、優雅に微笑んだ。
だが、その内心は穏やかではなかった。
体内で渦巻く膨大なエネルギー。魔力で無理やり小さく押し込められた筋肉たちが、「解放しろ! 暴れさせろ!」と悲鳴を上げているのだ。
今の彼女は、ピンを抜く寸前の手榴弾のようなものだった。
そこへ、元凶であるセシル殿下が近づいてきた。
マリアンヌの変貌ぶりを見て、殿下は目を見開いた。
「マリアンヌ……なのか? 驚いたな」
殿下は彼女の全身を舐めるように見回し、満足げに頷いた。
「見違えたぞ。あの醜い肉塊が、こんな宝石になるとは。これなら僕の隣に置いても恥ずかしくない」
彼は慣れた手つきで、マリアンヌの腰に手を回し、引き寄せた。
「さあ、踊ろうか。僕のために美しくなった褒美だ」
その言葉に、マリアンヌのこめかみがピクリと動いた。
(僕のため……? 私は、あなたの心ない言葉にどれだけ傷つき、どれだけ苦しい思いをして……)
イラッ。
小さな怒りの火花が散った瞬間、マリアンヌの二の腕の皮膚が波打った。
ミチッ……。
「ん? 今、何か音がしなかったか?」
「い、いいえ。気のせいですわ、オーホホホ(危ない! 今、上腕三頭筋が自己主張を!)」
マリアンヌは必死に笑顔を作った。怒ってはいけない。怒れば、圧縮が解ける。
だが、殿下の無神経なトークは止まらない。
「しかし、前の君は本当に酷かったな。まるで樽が歩いているようだった。正直、一緒にいるのが苦痛で仕方なかったよ」
「…………」
「それに比べて今はいい。細くて、弱々しくて、守ってあげたくなる。やはり女はこうでなくてはな」
ブチッ。
マリアンヌの脳内で、理性の弦が切れる音がした。
「……弱々しい、だと?」
ドクンッ!!
心臓が早鐘を打ち、魔力の封印が決壊する。
圧縮されていた質量が、物理法則を無視して解放された。
「え?」
殿下の目の前で、不可解な現象が起きた。
マリアンヌの華奢な肩幅が、一瞬で倍に膨れ上がったのだ。
ビリッ……ブチブチブチィッ!!
シルクのパフスリーブが弾け飛び、中から鋼鉄のボウリング玉のような肩が出現する。
コルセットが悲鳴を上げて砕け散り、腹部には岩盤のようなシックスパックが隆起した。
「ひっ……!? マ、マリアンヌ!?」
マリアンヌは見下ろした。
可憐な美少女の面影は消え、そこには鬼の形相をした巨人が立っていた。
彼女は、腰に回されていた殿下の腕を掴む。殿下の腕が小枝のように見える。
「誰が守ってあげたくなるって? ああん?」
地響きのような重低音が大広間に轟く。
殿下は恐怖で腰を抜かしかけた。
「ひ、ひぃぃ! 化け物! 衛兵! 衛兵!!」
「化け物だと? 笑わせるな! こちとら一ヶ月間、コカトリスのササミと森の薬草しか食ってねぇんだよオラァッ!!」
マリアンヌは殿下の胸倉を軽々と持ち上げると、右腕を大きく振りかぶった。
背中のドレスが完全に消滅し、「鬼の顔」が浮かぶ背中が露わになる。
「歯ぁ食いしばれェェ!!」
ドォォォォォン!!
マリアンヌの右ストレートが炸裂した。
殿下は美しい放物線を描き、空を舞い、会場の奥にあるビュッフェのローストビーフの山へと頭から突っ込んだ。
シーン……。
会場が静まり返る。半裸の巨人と化した公爵令嬢を前に、誰も言葉を発せない。
マリアンヌは「ふぅ」と息を吐いた。怒りが収まると同時に、急速に筋肉がしぼみ……また元の「可憐な美少女」の姿に戻っていく。
ボロボロの布切れをまとった美少女が、そこに立ち尽くしていた。
「……あ」
やってしまった。婚約破棄どころか、王族への暴行。これは処刑だ。
マリアンヌが絶望に膝をつきかけた、その時。
「……ブラボー!!」
野太い称賛の声が上がった。
声の主は、王国最強と謳われる老人、ガルド将軍。彼は涙を流しながら、マリアンヌの前に跪き、自分のマントを彼女の震える肩にかけた。
「素晴らしい……! 先ほどの瞬発的なバルクアップ! そして広背筋の可動域! これぞ私が生涯追い求めた『究極の肉体美』だ!」
「は?」
「マリアンヌ嬢! いや、師匠! どうか私に、その変身の極意をご教授願いたい!」
将軍の熱気に当てられ、マリアンヌは呆然と呟く。
「えっと……とりあえず、コカトリスのささみ?」
「おお、ササミ! なんという甘美な響き! あの高タンパク低脂質の神の食材ですな!」
将軍の熱気に当てられつつ、マリアンヌは落ちていた骨付き肉を拾い上げ、豪快にかぶりついた。
口いっぱいに広がる肉汁の旨味。一ヶ月ぶりの肉の味は、あの日食べ損ねたタルトよりも遥かに美味だった。
こうして、マリアンヌは婚約者と「普通の令嬢」としての未来を完全に失った。
だがこれは、後に大陸全土を震え上がらせる伝説の、ほんの序章に過ぎない。
ドラゴンを背負い投げし、魔王と腕相撲で決着をつけることになる『筋肉聖女』の波乱と破壊に満ちた覇道は、まだ始まったばかりである。
(完)




