第5章 遭遇
薄曇りの空の下、小さな公園の片隅。
鉄製の滑り台は錆び、ブランコはひとりでに揺れている。
時折吹く風が、湿った空気を巻き上げ、地面に落ちた枯葉をはらりと舞い上げた。
「だらしないわね」
ミナの、可愛らしくも重く鋭い声の先に、リョウは無様な体勢で地面を舐めていた。背中に重い鈍痛。湿った砂利が手のひらに絡みつく。
「ぐっ……鬼か、あんた……」
呻きながら起き上がると、目の前にはジャージ姿の仁王立ちで腕を組むミナ。
上着はいつもの黒いパーカーだ。
フードの奥から、無表情な瞳がこちらを見下ろしていた。
「能力に頼りすぎると、いざという時に死ぬわよ」
冷酷に言い放つミナ。
ふたりは、これから待ち受けるであろうドールズたちとの戦いに備えてトレーニングをしていた。
他者との戦いに備える、という非現実な事象にまだ懐疑的だったリョウは内心納得していなかったが、これはミナがほぼ強引に始めたことだった。
能力のことをもっと知りたかったリョウだが、ミナいわく『まずは体を鍛えろ』との事だ。
「しかし、こんなこと本当に役に立つのか? 戦うったって、俺はケンカだってロクにやったことないんだぞ?」
なんとか回避する理由を探すが、ミナの目は有無を言わせない。
「私みたいに、何も発現できない落ちこぼれは、体術で生き延びるしかなかったの」
「今のあなたも、たいして変わらないわ」
そう言いながら、ミナはフードを取り腰まで伸びた黒髪を後ろでひとつにまとめる。
艶やかな黒髪が、雨雲のように重たく風に揺れた。
初めて見るミナのフードを取った姿は、驚くほど幼かった。
黒目がちの大きな瞳は、誤魔化しや言い訳を許さない鏡のように思えた。
「だからって、容赦なさすぎだろ……。今の何、ほんとにただの蹴りか?」
組み手の最中、目の前にいたはずのミナが消え、直後にリョウは前のめりに倒されたのだった。まだ背中が痛む。
「ええ、寸止めだったけど」
「当たってんじゃねーか!」
公園の片隅にうずくまりながら、リョウはぜえぜえと息をついた。
額から流れる汗が、顎を伝ってシャツに染みていく。
ミナはそんなリョウの苦悶すらも見慣れたように受け流すと、淡々と次の指示を出した。
「じゃあ、あと二十本ダッシュ。その後はまた組み手ね。…いえ、まずは受け身の練習かしら?」
「くっ……」
覚悟を決めたはずだった。だがこれは予想外だ。
肉体的な訓練とは、もっとこう、軽く走ったり筋トレしたりする程度だと思っていた。
しかし実際は、ほとんどがミナ直伝のドールズ流・護身術訓練。
いわゆる軍隊式である。
朝六時から始まったこの訓練は、飯抜きのまま昼過ぎまで延々と投げられ、走らされ、転がされていた。
「なぁ……ひとつだけ、言わせてくれ……」
「何?」
「俺、体育1だったんだ」
「知ってる。というか、見りゃわかる」
「……泣いていい?」
「ダメ」
彼女の冷淡な返答に、リョウは空を仰いだ。
だが、それでも逃げ出さなかった。
体は言うことを聞かずとも、心は折れなかった。
ミナの言葉の奥に、ただの厳しさ以上のものを感じていたからだ。
やがて、日が傾き始める頃。
ようやく鬼教官のメニューをやり終えた。と言っても、1日ぶんだが。
ベンチに腰を下ろし、ふたりはしばし無言の時間を共有する。
汗で濡れたシャツを風が冷やしていく。
「意外と、やるじゃない」
ポツリと、ミナが呟いた。
「……死ぬかと思った」
「でも、やり通した」
「逃げたら、あんたが怖いしな……」
ミナは、ふ、とだけ笑った。
しばらくの沈黙の後、彼女が口を開いた。
「……私、あなたの部屋に住むことにするわ」
「……は?」
あまりに唐突すぎて、リョウの思考が止まる。
「共に戦う以上、お互いをよく知る必要があると思うの。それに、こうやってわざわざ公園に来るのも時間のムダだし」
「そ、それは……いや、無理だって!俺、他人と住むのとか無理なタイプだし……」
「潔癖症なの?」
「違うけど! ほら、一応男女なワケだし、 心の準備ってものが…」
言い合いになりかけた、その瞬間。
「——お取込み中、悪いんだけど」
冷たい声が降ってきた。
「ちょっとお邪魔するわね、いいかしら?」
木陰から、白いワンピースの少女が現れる。銀のショートボブと長い首、手には花柄の日傘。
『レイニー』と呼ばれていた少女だ。
涼しげな顔で、ふたりのやりとりを見据えている。
「…あんたは、まさか」
ミナの目が細められる。ネコ科の獣のような、静かな闘争心を燃やす。
リョウはミナの警戒態勢を即座に感じ取り、身構える。
ミナは少女を睨みつけたまま、視線を外さず呟いた。
「リョウ。 …気を付けて」
黒く艶やかに揺れていた髪が、静寂と共にすっと止まる。
ミナが呼吸を止めている。
怒りでも憎悪でもない、ただ重く静かな圧を放つ。
小さな体は微動だにしない。
今までに見た事が無いほど集中しているミナを見て、リョウは唾を飲み込む。
これが、ドールズなのか。
そして、目の前に現れた、この少女も…?
ミナは腰を深く落とし、右手を突き出して、左手は地面に触れようかという位置まで下げる。
異様な構え。
だがそこには一分の隙もない。
「ふたりでラブコメでもやってるの? ふふ、お熱いことねぇ」
レイニーは嗤いながら、優雅な足取りでゆっくりと歩を進める。
「 …そっちの、野良ネコみたいなのはサードね? アナタはどうでもいいわ」
静かな物言いだが、得体のしれない不穏な空気を纏う少女。
可憐な姿かたちをしているが、それに似つかわしくない禍々しい圧を放っていた。
口ぶりや態度からも、只者ではないことがリョウにもわかった。
サード… ミナのことだ。
こいつもやはり、ドールズか。
しかもどうやら、用があるのは俺の方らしい。
ということは。
間違いなく、戦うべき相手だ。
「まったく、回収する価値があるのかしらねぇ、こんなの」
「…本当にキミがアルファなら、話は変わってくるんだけど。リョウ君?」
足元から背骨まで、強烈な悪寒が走った。名前まで知られているのか。
いや、悪寒の正体はそれだけではなかった。この少女の目…
底の見えない深い井戸のような、真っ黒のその瞳は、光さえ通さない奈落の穴を連想させた。感情というものが全く感じられない、真の闇。
こんな暗い瞳を、リョウは今まで見たことがなかった。
「じゃ、とりあえず行きましょうか。アナタ可愛い顔してるから… 向こうで、ゆっくり遊びましょうね?」
持っていた日傘を開き、レイニーが嗤う。
開いた日傘の下の空間が、歪んでいるような気がした。
「な… これは…?」
リョウの目に、異様な光景が映る。
日傘を差した少女の、上半身が透けているのだ。
いや、正確には、影になっているはずの所だけが、だんだんと薄いガラスのようなモノに変異している。
「怖がらなくてもいいのよ…? おててを、つないであげるわ」
レイニーが左手をリョウの方へ差し出す。
そのままリョウの方へ足を踏み出した── その刹那。
ミナの足元が微かに動いた。
風が舞う。
腰を深く落とした体勢から、音もなく飛びかかったミナの鋭い手刀が、レイニーの持っていた日傘を吹き飛ばした。
「っ……!」
不意を突かれたレイニーの表情が一変する。
ミナはそのまま空中で体を捻り、滑るようにレイニーの背後へ着地した。
その間も、視線は常に相手の挙動を捉えている。
怒気を含んだ眼差しで、レイニーはミナを睨みつける。
「あら… やってくれるわね……!」
「廃棄物ごときが、この私に触るんじゃないわよ!」
レイニーの激昂に、あたりの地面がビリビリと唸る。
目が霞むほどの耳鳴りに、全身の皮膚が粟立つ感覚。
途轍もない力の奔流だった。
リョウは、初めて見る自分以外の力の行使、その圧力に恐怖した。
日傘が吹き飛ばされたことで、透明化は止まっているようだったが、まだ少し蜃気楼のようにゆらめいて見える。
「いいわ、野良ネコから先に駆除してあげる。身の程を知りなさい」
少女の周りの空気が変わる。
いや、違う。
よく見ると、少女とミナの間の空間だけが、色素が抜け落ちたようなセピア色に変わっていく。
恐ろしいほどの殺気を纏い、少女がミナの方へ手をかざす。
地面がビリビリと震え、砂利の粒が戦慄く。
まずい。
何をする気かわからなかったが、止めなければ確実にミナが死ぬ。
リョウには直感があった。
「やめろっ!」
リョウが叫んだ。その瞬間、彼の周囲の空気が歪む。
足元の地面が白く染まり、氷のような冷気がレイニーの足を地面ごと、瞬時に凍りつかせた。
と同時に、強烈な風が逆巻く。
「な……なに、これ……っ」
驚愕するレイニー。
リョウが力を使う事は想定していた。
だが、その”発現する速度”が予想を遥かに超えていたのだ。
怯んだ隙を見逃さず、ミナはリョウのもとへ跳んだ。
素早くリョウの身体を抱え、跳躍するようにしてその場を離脱した。
灰色の街角。
人気のない通路の片隅で、リョウはミナの腕から解放される。
というより、放り出された。
「なんとか助かったのか……って、おい」
「バカ」
ミナは一言だけ呟いた。怒っている。
「無茶な使い方をしないで。……代償のこと、忘れたの?」
「……っ」
その言葉で、リョウの表情が変わった。
「代償……どこに、何が起きるってんだ? ああしなきゃ、あんたは──」
リョウは苛立ちを隠さない。この力は、謎が多すぎる。
わからないことを制御しながら上手く扱えなど、こんな乱暴な話はなかった。
ミナは目を閉じ、深く息を吸う。
廃墟のようなビルの湿った外壁。
雑に置かれた室外機にひょいと腰かけ、足を組みながらリョウの方を見ずに答える。
視線は、遠くの路地をまばらに行き交う人々に向けられていた。
「基本的に、能力を使えばどこかに“反作用”が起きる。でも、それは——実は、選べるの」
「選べる… だって?」
「訓練すれば、ね」
ミナは周囲の人の気配に注意を配りつつ、思い出すようにゆっくりと話す。
「異能は本来、ふたつの地点に同時に作用させることができるの。あなたの力で例えると、一方を“冷やす”なら、もう一方は“温める”。反作用は、必ず起きる。どちらにどれだけ力をかけるか、それも制御できるようになるわ」
「そんなことが…」
リョウは自分の右手と左手をそれぞれ見つめた。
「ものは試しよ、やってみて」
「やってみて…って、一体どうすりゃいいんだ?」
「…私に聞かないでよ」
そういって、ミナは少しおおげさにムッとした表情を見せる。
怒っているわけではなさそうだが、確かに、能力を使えないミナに答えられるはずがなかった。
「…そうだな、とりあえず──」
リョウは右の手のひらを上に向け、やわらかく広げる。
空気が振動するような、微かな鳴動。
ほどなく、広げた手の上、何もない空間に球状の白いモヤが形成されていく。
「……!」
ミナの目が輝く。少し驚いた様子だったが、リョウは気づかない。
「で、このまま左手を…」
同じように手のひらを空に向ける。
先ほどと同様、何もない空間に形成される球状のモヤ。
だが、それはモヤというより、陽炎に近かった。じりじりと熱の気配が漂う。
「あ、あれ? なんで…」
予想とは違う結果だった。リョウは、両手ともに”冷やす”つもりでいた。
だがどうやっても、左手側の温度は上がるばかりだった。
反比例するように、右手の方は風を纏うほどに冷やされ、球状のモヤは、もはや雪玉の体を成しつつある。
ミナが両ひざを上げ、おろした反動で室外機から軽快に飛び降りる。
座っていた部分、太ももあたりのジャージの汚れを払いつつミナが言う。
「そういうことよ」
心なしか、少し楽しげに見える。
「それが、代償の正体ってこと」
やめ、の合図を出すかのようにミナは右手首をすいっとスナップさせる。
同時に、リョウは力の行使を止めた。
ふたりの間に乾いた風が舞う。
薄暗がりのビルの隙間に、遠吠えのような低い唸りが響いた。
ミナが告げる。
「あなたの力は、いうなれば“熱交換”ってところね。どこかを凍らせれば、どこかを熱する」
「さっきみたいに、しっかり2つの場所を意識すれば大丈夫だけれど、力を強くすればするほど、制御が効かなくなってくるはずよ」
「そういう、ことだったのか…」
「だから、訓練するの。力に振り回されないように」
ミナの言葉に、リョウは目を閉じ天を仰ぐ。
「ふーっ、こりゃ大変そうだな…」
いまだ冷気と熱気が両手から漂うなか、彼の表情は静かに、しかし決意に満ちていた。