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第1章 邂逅

リョウがその空き地に足を踏み入れたのは、雨が止んだ瞬間だった。

空を覆っていた雲の色が、ほんの僅かに濃くなったような気がした。


昼なのか、夕方なのかも判然としない空の下、彼はただ、そこに立ち尽くしていた。

ブランコの鎖が軋む音が、やけに耳に残る。無人の公園。

子供の声はどこにもなく、遠くの幹線道路の騒音だけがかすかに届く。


リョウはベンチの前で足を止め、ポケットに入れていたスマートフォンを取り出した。

画面に通知はない。SNSはとうに使わなくなっていたし、連絡が来るような相手もいない。

指先で適当に画面をスワイプする動作が、彼にとって唯一の「所在」を感じさせる動きだった。


だが、今日は違った。指を止める。息を吸う。

そして、何かを思い出すように、そっと手を前に差し出した。

——空気が、冷えていく。

出した右手の先、約数十センチの何もない空間。

その空間だけが、確かに温度を失っていく。肌がざらつき、空気が鈍く震えた。

まるで、世界の一部が削り取られているような感覚。


「……やっぱり、まだうまくいかない」


ぽつりと、リョウは呟いた。

少し意識を集中させるだけで、この『普通ではない力』が使えることを、リョウは自覚していた。

力が及ぶ範囲や強弱の制御も、ある程度は可能だ。

だが、どこかでブレーキがかかる。リミッターといった方が正しいかもしれない。

一定以上の力を出そうとすると、歯車が外れて滑るような感覚と共に、力がすぅっと抜けていく。

心の奥深くに、正体の知れない“壁”がある。

踏み込めば何かが壊れてしまうような、得体の知れない恐怖。

そのとき——


「そんなところで、使わない方がいいよ」


女の声だった。

背後からだ。

振り返ると、黒いパーカーのフードを目深に被った女が立っていた。

年齢は判断できない。大人のような佇まいだが、少女のようにも見える。


腰まで伸びた長く黒い髪。

この街の象徴ともいえる、酸を孕んだ有害な雨に似た、重たく、艶のある黒髪。

雨とは違い、しなやかで流麗なその髪が、曇天の下で鈍く揺れ光っている。


肌はほとんど見えず、彼女の姿は街の色に溶け込むようだった。

だが、目だけが違った。

曇天の下でもはっきりと輪郭を持つその目は、リョウを射抜くように鋭く、ネコ科の獣を思わせた。


「…誰だ、あんた」


警戒というより、素直な疑問だった。


「驚かせるつもりはなかったの。ただ、見ていられなくって」


淡々と話す女。ぶっきらぼうだが、悪気があるわけではなさそうだ。


「…何のことだ? というか、何者なんだよ。いきなり」


リョウは内心、動揺していた。まずいところを見られたという事もあったが、それよりも、初対面の人間と会話をしている事実に、違和感を覚える。


こんなささいな関わりすら、リョウにとってはどこか遠い、色褪せた記憶の残滓に感じられた。


「カラサワ・リョウさん…だよね?」


ぎくりとした。なぜ、名前を。


「…そうだけど。なんで知ってるんだ? ストーカーってやつか」


その類いではないことはわかっていたが、動揺を悟られまいと口をついて出た言葉だった。


「違うわ。…真面目な話なの」


「…じゃあまず、名乗ったらどうだ」


一度も目を逸らさず話す女に、たじろぎそうになるのをこらえる。


「…私の名前?」


かすかな間。だがすぐに女は口を開く。


「"ミナ"でいいよ。…そう呼んでくれていい」


感情が読めない、乾いた口調。だが、その態度には、妙な確信めいたものがあった。


「あなた、不思議な力を持ってるでしょ。それ、使ってたよね」


「……見てたのか?」


「うん。ずっと、見てた。初めてじゃないよ、こうして近くにいるのは」


何かを試すように、ミナはわずかに首を傾げた。

リョウは彼女の言葉の意味をすぐには理解できなかった。


「あなたのその能力、ちゃんと意味をわかって使ってるの? …そうじゃないよね」


「意味? この… 俺がやってることの?」


「そう。そのあなたの能力は、ただの現象じゃない。一方的なエネルギーではないの」


何を言っているのかはわからないが、少なくともこの女は何かを知っている。

おそらく自分だけが持っている、この『異常な力』のことを。


リョウは動揺を悟られまいと、こちらを真っ直ぐに見つめるミナの目を見つめ返す。

彼女の黒目がちな瞳からは、やはり感情を読み取ることはできなかった。

ミナは言葉を続ける。


「その力を使えば、必ず“どこか”に影響が出る。何かを冷やすってことは、何か別の場所を熱してるのと同じことなの」


その言葉に、リョウは息を飲んだ。

誰にも言われたことのない言葉。

誰にも指摘されたことのない理屈。

それも当然だった。

リョウは今まで、誰にもこの力を見せたことがなかった。

見せたところで、気味悪がられるか、避けられるだけだと思っていた。

どちらにしろ奇異の目で見られる上に、そもそも自分でも説明ができない事だったからだ。

それを、この女は知っているようだった。それも、かなり正確に。


「……それ、本当なのか?」


「信じないなら、別にいいよ。でも、使い続ければいずれわかる。自分の力が何なのか。何をしているのか。 …誰を、巻き込んでいるのか」


風が吹いた。ミナのフードがわずかに揺れる。


「忠告しておくわ。その力を軽々しく使わないで。あなたの能力は——」


一瞬、言葉が途切れる。だが彼女はすぐに続けた。


「——とても危険なものよ。その力を使えば、あなたは必ず代償を払うことになる」


「代償……?」


「作用と反作用、と言えばわかりやすいかも。その力は、それをもっと過激に、無慈悲にしたものなの。

あなたが何かを凍らせた分、何かが燃える。あなたが軽く使っただけでも、どこかの何か… あるいは、誰かが影響を受ける」


「それがもし、大きな力だったなら… その『誰か』も、大きな影響を受けることになる」


静かに、だが確かに告げられたその言葉に、リョウは言葉を失った。

何も答えられないまま、彼はただ、冷たくなった自分の手を見つめていた。


しばらくの沈黙が、二人の間を満たす。空は相変わらず灰色のままだ。

変化の兆しはない。だが、何かがじわじわと形を変えていく気配があった。


ミナはその場に留まったまま、視線を逸らすことなく言葉を続けた。


「あなた、自分が普通の人と違うって、どこかで確信してた。そうでしょ?」


「それは…」


普通であるはずがない。こんなことが出来る人間を、いままで一度として見たことが無いからだ。


「それはある意味では正しいわ。でも、その本当の意味を、あなたは知らなきゃいけない」


「意味…って」


いままで、自分の人生にすら意味を見出せずにいたリョウにとり、これほど難しいことはなかった。

力の意味、自分の意味…思い返せば、深く考えたことなど無かったのかもしれない。

湿っぽい風が、ふたりの間をうねる様に通り過ぎる。

今まで淡々と話していたミナの言葉が止まっていた。

不自然な静寂の中、ミナが少し躊躇するように、だがきっぱりと言い放つ。


「…あなたは、普通の人間ではないの」


その言葉に、リョウの胸の奥が、かすかに痛んだ。

彼自身、ずっとどこかで思っていた感覚。

それを他人の口から、しかも初対面の少女に言われたことに、妙なリアリティがあった。

ミナは顔を上げ、リョウを見据えてこう言った。


「このままじゃ、きっと後悔する事になる。あなたも、あなたの知らない誰かも」


続けて、ミナは決然と、しかし哀願するような声で言う。


「思い出して。あなたのこと… 自分のことを」


それだけを言い残し、ミナは踵を返して歩き出した。

その背中を、リョウは追わなかった。問いかけも、呼び止める声も、出てこなかった。

ただ、目で追っていた。


彼女の歩幅は小さく、音もなく、すぐに街の雑踏に紛れていった。

灰色の空の下、リョウはひとり、その場に立ち尽くしていた。

少しだけ、息が詰まるような感覚があった。


突然、目の前に現れた彼女——ミナ。得体の知れない少女。名前も本名ではないのだろう。

彼女が誰なのかも、なぜ自分の力を知っていたのかもわからない。

ただ、あの眼光と、決然とした声の温度だけが、記憶の底に焼きついていた。


まるで、何かを確信している者の眼差しだった。自分のことを、自分以上に理解しているような——。

リョウは深く息を吐き、ポケットのスマートフォンを再び取り出した。

画面には何も表示されていない。

それなのに、なぜか通知が届いているような錯覚を覚えた。

呼ばれたような、探されたような、そんな奇妙な余韻だけが、いつまでも胸に残った。

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