第10章 獅子 エピローグ
”空を裂いて、鴎たちが飛ぶ。
彼らの翼が、心に静かな響きを灯す。
ひとひらの風が、またひとつの群れを、遠くへ溶かした。”
誰かが、そんな詩を残していた。
風の流れを捉えるため、波打つように飛ぶ。
時には途方もない距離を、ありつける保証もない餌を求めて旅をする。
飄々として、自由で、無垢な姿。
離れては寄り添い、寄り添っては漂う、白い影。
彼らは薄曇りの下にあって尚、堂々としていた。
「…いい加減、下ろしてくださらない?」
レイニーの声。
「ぅえっ!?」
ミナは驚きのあまり声が裏返る。
投げ出すようにレイニーを地面へ立たせると、胸を押さえながら言った。
「な… ちょっとあんた、起きてたんなら早く言ってよね!」
髪や服の乱れを丁寧に直しながら、レイニーはわざとらしく拗ねたように答える。
「なによゥ、別にいいじゃない。 …口笛、お上手でしたわよ?」
いじわるっぽく、ニヤニヤと笑う。 まるで子供だ。
「ぐぅ…!」
ミナが顔を赤らめながら睨みつける。
気を失ったレイニーを抱きかかえていたミナは、しばらくそのまま空を見上げていた。
あどけない少女の寝顔のせいか、ただ単純に人の温もりを感じたからなのか──
なぜかはわからなかったが、心地よかったのだ。
「でも、アナタって強いのね」
こほんと咳払いしてから、レイニーはミナを真っ直ぐに見つめる。
「負けたわ。 …完敗よ、カンパイ」
驚くほどあっさりと負けを認めるレイニーに、ミナは啞然とする。
「…へぇー、もっと怒ったりするもんだと思ってたけど、意外ね」
「あれほど見事にアナタの術中にハマっちゃったんだもの。そりゃあ認めるしかないわよ」
少し悔しそうに口を尖らせているが、そこに敵意や憎悪といった感情は見られない。
ドレスやスカートのあちこちを手で払い、汚れを確認している。
ミナは浅くため息をつきながら答える。
「バレてたか… ああでもしないと、勝ち筋が無かったのよ。ごめんね」
レイニーは目を丸くして、向き直った。
「…アナタって、本当にわからない人。 なぜ謝るの? いえ、謝れるの?」
「わたしはアナタを本気で殺そうとしたのよ?」
真っ直ぐに訴えかけるような物言いに、少したじろいだ。
「なぜって言われても…」
言い淀むミナに、なおもレイニーは畳みかけるように言った。
「自分が殺されるかもしれないのに、相手は傷付けたくない…とでも言うつもり? 最後のアレも、わざとわたしに防御させたんでしょう?」
レイニーの圧に押され、目を伏せながらも絞り出すように言葉を返す。
「…深い意味なんてないわ。私はただ、誰も悲しませたくないだけ。 カッコつけて言ってるんじゃなくて、自分もよ。 …私も、悲しい思いはしたくない」
言葉を選んでいる様子はない。 本心だ。
レイニーは黙ったまま、じっとミナの目をみている。
「私たちは、戦いのために生まれたのかもしれない。誰かのために造られたのかもしれない。でも、そうしなきゃいけない、なんて決まりは無いのよ」
「みんな同じなのよ。あんたも、私も、リョウだってそう。…みんな同じ、人間だわ」
「誰かの都合のために生きるなんて、私はゴメンよ。 私は、私が正しいと思った道を生きる」
道、という言葉にわずかに反応するレイニー。
その目に浮かぶ感情は、哀れみか、同情か、あるいは羨望か。
「だから、私は誰も傷付けない。 …それが正解かどうかなんて、知らないわ」
小さく聞こえる鴎の鳴き声と、風の音。
「……」
しばしの沈黙の後、レイニーが切り出す。
「…カラサワ博士の望んだ、ドールズによる世界平和。 本当にそんな事が、出来ると思っているの?」
ミナは、開き直ったかのように即答する。
「やってみなきゃわかんないじゃない。 …まずは、あんたたちが協力してくれることが前提だけど」
風に運ばれてきたレイニーの大きな女優帽をすっと拾い、軽くはたいて差し出す。
レイニーは小首を傾げてため息をつき、肩をすくめて見せた。
「…参ったわね。 ホント、変な人」
帽子を受け取り、両手ですっぽりと被る。
「でも」
右手で帽子の前側を押し上げ、歯を見せてニヤリと笑った。
「悪くないわね、そういうのも」
危険極まりない、ドールズの初期ロット。
しかし、初めて見せるその屈託のない笑顔からは、戦闘兵器としての側面など微塵も感じられない。
ミナは両手を腰に当て溜め息をひとつつくと、レイニーと目を合わせ、笑った。
──これでいい。
この子も、私も、何ができるかなんて、今はどうだっていい。
たとえ呪われていようと、どんな宿命を背負っていようと、ただ心の沿うままに進めばいいんだ。
それがきっと、博士の言った『正しい道』なんだ。
正しい道を進んでいればきっと、私たちの役目、リョウが託されたもの…
そして、この世に『異能』が存在する意味も、わかる時が来る。
それまではただ、進もう。
「さて、じゃあ行きましょうか?」
服を整え、身支度を終えた様子のレイニーが、さらりと言った。
「…行くって、どこへ?」
ミナはぽかんとしている。
レイニーはすでに出口へ歩き出していたが、足を止め振り返った。
後ろ手を組み、覗き込むような上目遣いでミナを見つめて言う。
「お紅茶、ご馳走して下さるんでしょう?」
「あ…」
──そういえば、そんなことを言ったような気がする。
「とっても美味しい所を知ってますわ。お席、空いてるといいんですけど」
有無を言わさぬ物言いで踵を返し、颯爽と歩き出す。
あわてて追いすがるミナ。
「…高いトコじゃないでしょうね?」
手持ちにあまり自信が無かった。
というより、こんなお姫様のような少女が行っている店になど、自分には全く縁が無いと思っていたミナは、値段以上に不安な要素が多すぎたのだ。
「あら、仕方ありませんわね。じゃあ今回は割り勘、という事にしておきましょうか。 …その前に、アナタのお洋服をなんとかしないとダメねぇ」
そう言って、ミナの服を見る。
パーカーのフードは右半分がほとんど消滅しており、肩口あたりに空いた穴からは下着が見えている。
ジャージの裾も大きく裂け、左の靴に至ってはもはや原形をとどめていない。
「あー…」
ミナは改めて自身の服を見て、立ち尽くす。
レイニーが口に手を当て、ぷっと吹き出した。
「…あんたがやったんでしょーが!」
ついさっきまで、このふたりは殺し合いをしていたのだ。
少なくとも、レイニーはそう思っていた。
「そーだったかしら? 誰かさんに気絶させられたから、忘れちゃったわ」
相手に優位を取らせない、底意地の悪い言い回しで返すレイニー。
「ふぬ…」
思いっきり蹴り飛ばした当人のミナは、何も言い返せない。
「まぁ、丁度いいわ。 アナタに似合う、カワイイお洋服を見繕ってあげる」
レイニーは満面の笑顔を向ける。いたずらを思いついた子供のような目をしていた。
「カ… カワイイ… お洋服…?」
──イヤな予感しかしない。
ミナは自身がフリルのついたドレスを着ている姿を想像し、首をぶんぶんと横に振った。
「とりあえず、まずはショッピングね。行きますわよ!」
意気揚々と歩き出すレイニー。
ミナはため息をつきつつ、左の靴を気にしながらぎこちない足取りで渋々あとを追いかける。
「…カンベンしてよぅ。 私はそんな服、絶対着ないからね!」
街へ向かうふたりの背中を、心地よい潮風が導くように吹き抜ける。
薄曇りの雲が、白と黒のつがいの影法師を見下ろしていた。
相変わらず空に晴れ間は見えないが、ほんの少しだけ、空が高くなった気がした。