第8章 記憶の影
一夜明け、リョウたちは廃墟となったショッピングモールの屋上に来ていた。
この街には、人の手が入らなくなった建造物などいくらでもある。
少し前までは、いくらか『活気』のようなものも感じられた街だったが、いつからか空の青みが薄れ、それに呼応するように住人の生気も薄れていった。
栄えていた商店街の目抜き通りは重いシャッターで閉ざされ、走り回る子どもの姿は隠され、工事現場の看板の日付は数年前で止まっている。
ひとつづつ色が抜けるように、この街はゆるやかに、ひっそりと閉じていった。
代わりに増えていったのは、大仰なタンクと煙突。
分厚い城壁のように街を囲むその工業プラント群は、空を蝕む毒の瘴気を吐き出し続ける。
いつしか街は灰の雨に曝され、その天と地の境も曖昧になった。
リョウは眼下に広がる灰の街を俯瞰し、幼いころの情景に思いを馳せる。
──あの頃は、こんな空じゃなかった。
父に連れられ遊んだ公園は、確かに青く晴れ渡っていた。
いつから、こんな空になったのだろう。
もう戻らないのだろうか。空も──
「父さん…」
遠くを見つめるリョウの横顔、その寂しげな顔を見て、ミナは言葉を選ぶように口を開く。
「…いつか落ち着いたら、ゆっくり話そう。私が知ってることは少ないけれど、助けになれると思う」
「…ああ。今はまず、あいつらをなんとかしないとな」
リョウは灰色の天を仰ぐ。
ミナと共に進めば、この空も、自分の心も、いつか晴れる時が来る。
リョウに備わるリンクの力が、それを確信していた。
「さて、じゃあ、始めようかしら?」
心なしか、楽し気に準備運動を始めるミナ。
おもちゃを前にした子どもの様に目を輝かせている。
「うぅ… やっぱり格闘訓練からですか…」
「当り前よ。あなたの力の制御は、私が思ってたよりも上手だったわ」
この間、リョウがやってみせた両手での同時発動のことである。
「あれほど正確に力を制御できるのなら、今はまずその貧弱なフィジカルをなんとかしなきゃね」
自分よりもあきらかに年下であろう女の子に、はっきり貧弱と言われたリョウは若干くじけそうになった。
「あんたが強すぎるんだよ…」
そう言って、渋々ながらミナが用意したボクシング・グローブを手に取り、おぼつかない手つきで装着するリョウ。
顔を上げ、ミナの方を見たリョウの動きが止まる。
ミナが不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの? 怖気づいたんじゃ、ないでしょうね?」
「いや… ミナ、ここには誰もいないって、言ってたよな?」
ミナは自信ありげに言う。
「そうよ。しっかり調べたんだから。こないだみたいに奇襲されたらたまったもんじゃないしね」
「それに、あなたのリンクがあれば、敵が来たらわかるはずよ。そのために、広い場所を選んだの」
リョウは、ミナの方を向いたまま動かない。
だが、その視線はわずかにミナの後方だ。
「なるほど…」
「ということは、俺のリンクはあまりアテにできない、ってことだな」
リョウは、半端に装着していたボクシング・グローブを脱ぎ、自身の後ろへ投げ捨てる。
「…へ?」
呆気にとられるミナ。
ゆっくりと振り返ると、右後方、そのわずか半歩先ほどに黒いコートの大男が立っていた。
「そういうことだ」
重く、威圧感のある低い声。その大男── イーグルは腕を組み、ふたりを見据える。
「な… あんた、いつからそこに!」
ミナは素早く飛び退き、リョウに並ぶ。
「我々の事… ドールズの事を、多少は知っているようだな。そこのサードが教えたのか」
イーグルは無感情に喋る。サングラスのせいか、まるでロボットのような印象だ。
「どうして、気づかなかったの… どうやってリンクを搔い潜ったのよ!」
ミナが憔悴している。真後ろを取られたことに動揺しているようだった。
「掻い潜ってなどいない。お前にはわかるだろう、『リョウ』とやら」
リョウが答える。
「うーん… まあ、そうだな。たぶんだけど」
平然とした態度で答えるリョウに、ミナは事態がつかめない。
「…どういうこと?」
ミナは警戒しながら、視線を両者交互に送る。
「どうやらこのリンクってのは、敵意みたいなものにしか反応しないみたいだな」
イーグルが返す。
「…そうだ。この力は、防衛本能に起因する。己を害するもの以外には反応しない。基本的にはな」
ミナは目を丸くするが、警戒は解いていない。
「そうだったの? …じゃ、あんたは…」
「敵じゃない… よな?」
イーグルは、かすかに間を置き、答える。
「今はな。まずは、先日の非礼を詫びたい」
「非礼?」
「そうだ。…連れてきている」
イーグルがそう言うと、どこからか足音が聞こえてきた。
ヒールの高い、靴の音。その音は、イーグルの後方から聞こえているようだったが、誰もいない。
ほどなく蜃気楼のようなゆらめきが現れ、何も無かったはずの空間に、徐々に人のかたちをした陽炎が形成されていく。それは少しづつ色を帯び、やがて白いワンピースの少女の姿を映す。
「お前は…!」
リョウたちは驚き、身構えるが、少女は気にもしていない様子だ。
その少女── レイニーは、組んだ腕に傘を挟み、あからさまに不機嫌な顔をしているが、以前のような敵意は感じられない。
「…詫びだなんて、とんでもないわ。わたしはなぁーんにも、悪い事なんてしてないわよ?」
半目でイーグルを見やり、つま先をトントンと打ち鳴らす。
「作戦行動、なんて言うから、てっきり回収するものだと思っていたら、まさか会いに行くだけなんて…アナタ、どういうつもりなの?」
状況がうまく飲み込めないリョウとミナだったが、どうやら本当に敵意は無いようだ。
リョウとミナの動揺、レイニーの発言すらも無視して、イーグルは口を開く。
「紹介しておこう。こいつはレイニー。見ての通り、ドールズの№7だ」
レイニーが慌てて止めに入る。
「ちょ、ちょっと、イーグル。 何を考えてるの?」
「すまなかったな。接触するなと言っておいたのだが、こういう性分なのだ。…よく、わかったと思うが」
そう言ってイーグルはミナの方へ顔を向ける。
ミナはどう反応していいかわからず、困っている様子だ。
ミナだけではない、イーグル以外の全員がこの状況に困惑していた。
イーグルは意に介さず、話を続ける。
「そして、俺はイーグル。ドールズの№5だ。訳あって、お前たちを監視していた」
「…リョウといったな。お前がどこまで理解しているかは知らんが、お前は我々が探している存在かもしれないのだ」
「アルファ…だろ?」
リョウが答えた。
黙って聞いていたレイニーが口を挟む。
「あら、よく知ってるじゃない。やっぱり大当たりよ、イーグル?」
風になびく銀の髪を指で整えながら、レイニーはイーグルの顔を覗き込む。
「早計だ、レイニー。…リョウとやら、お前の言うアルファとは何か、言ってみろ」
イーグルは無感情に言い放った。
「何…?」
リョウは何を問われているのかわからず答えあぐねていると、ミナが割って入る。
「アルファは私たちの始祖。…あんたたちを止めるために、今ここに居るのよ」
「止める? わたしたちを? ふふ、アナタやっぱりただの野良ネコなのね。なんにもわかってないじゃない」
レイニーがくすくすと嗤う。
「なんですって…!」
「やめろ、レイニー。…だが、お前たちは確かに、勘違いをしているようだな」
イーグルが二人を制する。
リョウはイーグルの前に一歩踏み出した。
「…イーグル、だっけ? どういう事か、説明してくれないか」
「俺も、正直わからないんだ。ミナから聞いて、俺たちの── ドールズのことは、だいたいはわかった。けど、自分の事は…」
ミナが何かを言いたげに顔を上げるが、言葉は出てこない。
「……」
「可愛いわねぇ、リョウ君。イーグル、教えてあげたら?」
「レイニー、お前は黙っていろ」
「…なによゥ、いじわる」
親に叱られた子どものように、後ろ手を組み俯きながらむくれるレイニー。
「まず、我々はお前たちの敵ではない。…少なくとも、レイニーと俺はな」
「…何いってんのよ、いきなり襲ってきたのはそっちでしょ?」
ミナは困惑しながらもイーグルに食ってかかる。
確かに、あの公園で遭遇したレイニーには、あきらかな敵意があった。
「我々には、本能的に外敵を排除するための処置が施されている。敵と認識したものと対峙した時に作用するものだ。闘争のスイッチのようなものだな」
「…!」
ミナが目を見開き、イーグルを睨む。
ミナは何かを思い出したように、自身の胸のあたりの服を握りしめている。
「我々は、そういうふうに出来ているのだ。もっとも、レイニーの場合はそれだけではないようだが」
「…ふん。好き勝手言ってくれるわね。失礼しちゃうわ」
レイニーは唇を尖らせ、自身の爪を撫でている。
イーグルは話を続ける。
「簡潔にまとめよう。我々が探しているのは、アルファだ。そしてお前は、自分がそのアルファだと思っている。いや、そう聞かされた」
そう言って、ミナの方へ向き直る。
「そうだな? №37」
「…そうよ。彼は── リョウは、私たちを『あるべき姿』に導いてくれる存在なの。…その、はずよ」
迷いがある。ミナの言葉はどこか、自信無さげに聞こえた。
少しの間を置き、イーグルは再び口を開く。
「…お前の言う”あるべき姿”とは、『ドール計画』のことだな?」
「世界の平準化構想。人類の安寧のための計画。…”カラサワ博士”の提唱した理論」
「な… 何、だって…?」
リョウが目を見開く。その名前は── まさか。
カラサワ博士──
人類の行き着く先を憂い、明るい未来を家族と共に願った、人間工学の科学者。
苦く重い記憶の片隅、崩れ落ちる人影に、リョウが叫ぶ。
カラサワ・コウイチ。 リョウが父と呼んだ、その人だった。