日常スイッチ
いい加減「それ」とか「浮遊体」とか「クラゲ」とか脳内で変換してから認識するのにも疲れた綜馬は、ダンジョンに向かうまでの間で名前をつけることに決めた。
浮かんでくるアイデアは基本的にクラゲ由来のものばかりで、それならいっそのことクラゲと呼ぼうかと考えたが少しだけ捻って漢字表記の海月を英語読みにしたシーと、ルナから取って[シーナ]と名付けた。
脳内で変換しながら考えるのは思いのほか楽しく、変なスイッチが入ってしまっていたようだ。ちょうどいい時間潰しを終えた後、今晩泊まれそうな民家を探す。県境のダンジョンまではあと1日を切った距離まで来れた。
定期的に[カンジ]を召喚して空からダンジョンまでの距離と方角を確認して進めるのはとても大きかった。
[スコル]を取り込んだ後から、気のせいかいつもよりも足取りが軽く、いつもなら疲れていただろう距離の移動も息が上がらず進む事が出来ている。この力と、[カンジ]の空からの視野が加わる事で綜馬の移動速度と効率は劇的に上昇していた。
本来なら1週間近くかかる県境のダンジョンまでの道のりを、3日ほどで踏破できそうな勢いだ。
今晩は明日ダンジョンに着く可能性も考えて、体力を温存するため早めに休もうと寝床探しに視線を動かした。
畳の上でホッと息を吐く。井草の匂いは不思議と心を落ち着かせてくれる。今晩寝床に決めた住居はThe日本家屋といった佇まいで、入り口の門をくぐると荒れた庭園が広がり、その奥に屋敷が建っている。
数種類の庭木や、統一感のあるオブジェ、陽光に反射する一面に敷かれた真っ白の砂利。住民がいた頃は管理の行き届いた住居だったのだろうなと、ところどころに見受けられる仕事の細かさから感じとれた。
門を潜り、玄関まで進む間の道はモンスターの足跡が多く残されており、玄関から先は人の手によって荒らされた形跡が至る所に見受けられた。従来の屋敷の姿を知らない綜馬だが、あるべき場所にあるべき物が無いという何か欠けていると感じる箇所がいくつもあった。
混乱時に金目のものを屋敷の者自ら持ち去ったのか、それとも持ち去られたのか。もの寂しさを感じる屋内の中で唯一心を休める事が出来そうな場所が2階の奥の和室だった。
横になり伸びをする。うぅと溜まっていた疲労感が漏れ出すように声が抜けていく。昨晩は適当な寝床を見つけるのに時間がかかり、ゆっくりくつろぐ事が出来なかった。
シェルター804にいた期間も、心の底から安らげた日など無かった。家を出てからやっと1人で腰を下ろして精神を落ち着かせられる瞬間が訪れたようだ。
寝転んだ姿勢のままいると、自然と腹がなった。[シーナ]は綜馬の腹のあたりをふわふわと飛び回っている。意識が空腹に向き始め、空間魔法を展開した。
調理するのは随分久しぶりかも知れない。献立は以前から決めており、次作るならこれしかないと考えていた。
綜馬は[シーナ]と空間魔法の中を移動し目当ての食材を集めていく。食材を一つ選ぶたびに[シーナ]の触覚が伸びてくるため、荷物持ちは[シーナ]に頼み、今度は畑の様子も見に向かった。
分身体が畑の世話をしているため、久しぶりの畑であっても手が加えられず荒れ果てているなんて状況にはならない。ほうれん草を収穫し、丁度いい野菜か果物が出来ていないか確認する。
収穫時期になった手頃の野菜や果実は分身体が収穫し、時間の効果を受けないエリアまで運ぶように設定してある。
そのおかげで生鮮食料品の在庫はかなり多い。分身を使った裏技を駆使せずとも、綜馬1人であれば一生食っていけるほど物資は潤沢に揃っていた。空間魔法の中にある物資を1から数えるなんて重労働する気は起きないが、恐らくシェルター800の住人達を3年ほど不自由なく生活させられるほどの物資は抱えていると思う。
綜馬が生きていて魔力を定期的に回復するという条件ならば、裏技を使い半永久的に物資は生み出せる。しかし、ここ最近はあまり気が乗らない。食材を魔力によってコピーアンドペーストするのは言葉にできない気持ち悪さがある。
岸の一件があったあと、綜馬は自室に篭り恐ろしい妄想を浮かべていた。それは自分以外の人間をコピーし生き返らせるという内容だった。失ったものは作り直せばいいという思考が染み付いてしまっていたようで、正気を取り戻したあと妄想をすぐにしまい込んだ。
目ぼしい食材は全て取り終え、[シーナ]と共に空間魔法から出る。卵の在庫が思っていたより減っていたため、何かしらの方法で調達するしかないなとメモを取っておく。
ガスコンロのつまみを右に回し切り、火が安定するまで続ける。跳ねるように火が点き、つまみで火力を調整して中火くらいの勢いになるのを確認して手を離す。
すでに丁度いいサイズに切り揃えてある豚バラを水が張ってある鍋に投入する。沸いてきたら、弱火にして余計な脂と臭みがを取るため下茹で作業をする。蒸らした後、調味料を合わせておいた鍋に豚バラと生姜を入れる。
再度点火し、煮汁が少なくなってきたところにゆで卵を投入し3.4分弱火で煮込んだら鍋をあげて、ほうれん草を茹で始める。
出来上がった角煮を鍋によそってカラシを皿の端につける。茹で終えたほうれん草を切り揃えて、こちらも角煮の横に添えた。炊き立ての白米を取り出し茶碗によそうと我慢の糸が切れて角煮に箸が伸びる。
一口齧るとそこからはもう止められない。角煮、白米、角煮、白米、ほうれん草、白米、角煮、卵、白米、卵、角煮、と、白米を中心に角煮の乗る皿の上を箸が反復横跳びし始めた。
食欲への執心が落ち着いたのは白米を三杯平らげてからだった。呼吸で取り込む酸素の空きすら埋めるように頬張った角煮のループから抜け出し、残ったのは満ち足りた高揚感と、口の中に残る幸せ、そして身動きとれないほどの満腹感だった。
腹を満たすと次は意識を奪いに眠気がやってくる。綜馬は眠気に抗いながら、[朔]と[カンジ]を召喚し夜の番を頼んだ。「おねが、、」と召喚した事で安心した綜馬はそのまま意識を手放し、再び意識を取り戻したのはワイバーンの咆哮が空から降り注いだ時だった。
――――――――――――――――――――――――――――――
バコンッ!と音を立て打ちっぱなしのコンクリートの壁に大きな凹みが生まれる。破片となったコンクリートが自重に逆らう事なく、床にこぼれ落ち余韻のような音を残した。
「悪い、」
冬弥は消え入るような声で2人に謝罪をおくるが、形式的なものであることは当人も含めて理解している。
「私たちも同じ気持ちですよ、冬弥くん。」
気持ちに寄り添うかのように同じくらいの声量で冬弥の後に続く羽間。サイバは静かに冬弥を見つめるだけで何かする素振りすら見せない。
感情をどうにかコントロールしようと、いつもの食事みたいに冬弥はハンバーグに手を伸ばした。
支援物資で手に入れた冷凍食品のハンバーグ。世界に異変が起こる前は好んで食べることのなかったこの食事が今では、涎を堪えきれないほどの食事に変わっていた。
羽間から話を聞かされる前までは、こんなご馳走自分には勿体無いですとどれだけ遠慮しようか考えていたが、現在では食べるという行為に没頭するという自己暗示をかけなければ、気が狂いそうなほど怒りと憎しみの熱が温度を上げていた。
「僕たちは、彼らを叩く。そうしなければシェルター800のみんなが浮かばれない。冬弥君、君の力が僕たちには必要なんだ。」
やっと口を開いたサイバからどうにか堪えている冬弥に言葉が投げられる。食事の手を止め、冬弥は俯く。
「2日後の朝、僕たちは上空のワイバーンに攻撃を仕掛ける。その隙に選ばれた精鋭でシェルター813に潜り込む作戦だ。冬弥君にはその精鋭に選ばれてほしい。」
『マーク』による北関東主要シェルター破壊作戦は、また一歩進み始めようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
いいね、☆☆☆☆☆の評価頂けると励みになります。