踠く
綜馬は突然の出来事に息ができなくなる。呼吸の仕方だけが頭から抜けたように、浅くはぁはぁと息を吐くだけで吸うという動作がどうにもうまくできない。
見知らぬ長身の男がこちらを向いて立っている。紺のレインコートを羽織り、無精髭を蓄えたその男の全身には鮮血が飛び散っていた。その男は力なく立っているが、血の所在は彼からではない。
男が握るサバイバルナイフには、男が全身で浴びている血と全く同じものがついている。男は自らをサイバと名乗った。
思い返すと、傍らに倒れる羽間も倒れる前に同じ名前を呟いていた気がする。
サイバは、ナイフを握ったまま足元に伏している彼、岸に声をかけた。
「魔法ばっかり使ってると色々疎かになるから気をつけなよ。」
サイバの口ぶりは、まるで岸に戦闘を教えているような穏やかなものだった。岸がうずくまり身を流しているのは、突然サイバが死角から現れ、岸を蹴り上げると、馬乗りになって腹部と肩を一箇所ずつナイフで刺したからだった。
日常を過ごしているような足取りで、サバイバルナイフをいじりながら、辺りを見回した後、座り込む綜馬の顔を覗き込んできた。
「君は抵抗しなくていいのかな?」
サイバの表情は穏やかで、口調もハキハキとしている。綜馬は言葉が音として発声できなくなっていた。サイバの問いかけに首を振るだけで抵抗も降参も言葉にならず表情に滲むだけ。
「ぅあ、そうま、逃げ、逃げぉ!!」
中腰で綜馬の顔を覗き込んでいたサイバに岸が飛びかかる。あの傷だ、相当無理をして急襲したのだろう。飛びかかった瞬間に苦痛の声をあげて、再び地面に倒れ込んだ。
倒れ込んだ方向を意識していたようで、サイバに覆い被さるように倒れた。
「今のうち、ぃ、綜馬!!早く!」
岸は血に吐きながら綜馬を逃がそうと必死の抵抗に繰り出た。綜馬は二度目の呼びかけでやっと立ち上がる。この部屋から出る扉はサイバの背中、羽間が守っているあたりにある。
どうにかして逃げ延びればこの現状を外に伝えることができる。仮に誰もが信じなくても、堂島達にさえこの話を伝えられればと考え、綜馬のもてる全ての力で抜け出そうと滑り込むように扉に向かって走っていく。
「あぁ、もう。鬱陶しいな、」
ドン。鈍い音が部屋に響く。大きくはないが不思議と耳に残る。綜馬は倒れる羽間を飛び越えて扉まで一直線に駆ける。ドアノブに手をかけながら、チラリと背後を確認した。サイバの足元には真っ赤な血溜まりが広がっており、中心には青白い顔をした岸がいた。
再び血の気が引き、呼吸の仕方を忘れそうになる。
「逃げなくていいのか?彼が時間を作ってくれたんだろ?」
サイバは踏みつける岸の方を見て、哀れむような、同情するような視線を送り、それと同じ視線を綜馬にも向けていた。何よりも恐怖心が勝り、ここに居たくないと、逃げるようにして綜馬はその場を立ち去った。
シェルター812が完全崩壊したのは、綜馬がシェルター812を後にした数時間後の出来事だった。
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外出する際はモンスターの動向に細心の注意を払って生活する。綜馬がこの部屋に来てから欠かせず行ってきたルーティーンだ。そのために監視カメラの設定や、近隣住居に梯子や木の板を渡して万が一を見越して様々な用意をしている。
それほどまでに徹底して行ってきたモンスター対策を、この日綜馬はなにも行わずに部屋に帰ってきた。マンションの出入り口と、一階には多くのモンスターの骸が重なっている。
心は荒んでいたが、いつもの癖で静かに扉を開けて部屋に帰ってきた。文字通り脱兎の如く家まで戻ってきた綜馬は、鍵を締め、ドアチェーンをかけた後ベッドの上でうずくまった。
岸と立てた作戦。期待を込めた二案と、最悪に備えた予備の二案。結果的に行えたのは後者。最悪の二案の方になってしまった。交渉が簡単にいくと根拠のない自信が後押しした結果、しびれを切らした岸が羽間を力で頷かせようと魔法を発動。それに対抗するため羽間はサイバを呼び、後には戻れなくなったしまった。
もしかすると羽間は元からこうなることを予想していたのかもしれない。羽間とは数回面識があった程度で、能力はもちろん人柄なんかもわかっていなかった。元町長でシェルターの息苦しさを作った張本人ではあるが、世界が破滅してから数週間でシェルター内に秩序と社会性を根付かせた能力は称賛に値するだろう。
そんな羽間からすれば未成年の綜馬と、一度対峙していいように抑え込めた岸などカモにしか見えなかったのだろう。幸い、綜馬の能力を完全開示する事は無かったが、綜馬がなにかしらの力で数千人以上をしばらくの間不自由なく生活させられる資源がある事を知られてしまった。
全ては羽間の手のひらの上だった。時間を置き、少し冷静になった頭で振り返ると簡単に気がつく。人質の交換が先か、綜馬の物資提供が先か、その問答は簡単に決まるはずもなく焦れた岸が隠し持っていたクロスボウを出した事で、最悪の結果へと未来は流れていった。
羽間がなにかしらの合図でサイバを呼び込み、再び捕えられる事を恐れた岸が羽間に発射。続けて『切断魔法』の溜めに入るが、背後から現れたサイバに蹴りを入れられその後は、サイバに抑え込められた岸と、恐怖と混乱で何の役にも立たなくなった綜馬。結果は、普段なら絶対に使わない『空間魔法』の瞬間移動を使用し逃げ帰り、布団にうずくまる綜馬が残されただけ。
自分の浅知恵と、その浅知恵のを疑いなく行動に移す短慮さ。いざという時に立ち上がれない惨めさ、情けなさ。どこかで自分を肯定したいと考えてしまう醜い心などが幾重にものしかかり、自己嫌悪でどうにかなってしまいそうだった。
こうやって、自分を責めることで少しでも免罪符を得ようとしているような、資格もないくせに真正面で罪悪感を受け入れようとする罪への意識へと簡単に気持ちをシフトチェンジしている自分にも吐き気がする。
どこかに逃げたい。消えてなくなりたい。自己嫌悪の果てに行き着いた答えは逃避だった。
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「彼から連絡が入った。予定通り3つ目破壊完了だって。」
「それじゃあ、俺たちももうちょっとしたら動かないとだな。」
「町長さんはきっと私たちに協力を仰ぐはずだから、いつも通り手伝ってあげればいい。もちろん途中までね。」
「堂島、あいつはなかなか良い奴だからな。手伝えるところまではやってやりたいな。」
「ここら一帯の戦闘できる人がダンジョンに集まるわけでしょ?あんまり手伝いすぎても、」
「大丈夫大丈夫。800の規模で、討伐隊副隊長がスライムに惨敗だろ?たかが知れてるわ。本気を出せば1分で戦闘不能だ。」
「またそんな事言って、」
マオはジンのいつもの大見得に呆れた表情を返す。当初の計画通り、シェルター800の住民を分断させ、ジンとマオは堂島の懐へ入ることが出来た。近隣の小規模シェルターは仲間たちに任せ、自分たちはシェルター800を中心とした規模の大きいシェルターを破壊するために合同ダンジョンアタックの妨害に専念できるだろう。
規模の大きいシェルターは簡単に核を破壊できず、抵抗反応も大きい。人口を減らし、ミッションやクエストを成功させないことで力を削るしかない。
マオは悲願に向けて再び拳を強く握りしめた。