逃避
堂島から頼まれた偵察を終えた綜馬は屋上で笛を吹く。しばらく待つが、クロウは現れない。琴がクロウを使役し始めた当初はこのような事が何回かあったが、現れないのは随分久しぶりの出来事だった。
その後何度か続けて笛を鳴らしたが一向に現れる気配ないため、念のためマンションから出て少し離れた地点まで移動する。
元々急ぎの予定だった事もあり、クロウを一晩待つか今からシェルター800へ向けて出発するか頭を悩ませる。
思わぬ戦闘によって、魔力の消費は大きかったがその後節約を心がけていた事もあり、シェルター800までの距離は隠密を発動させても問題ないだろう。
ただ、単純な問題として、行きは空を使ってきたから良かったものの、帰り道に関して紙の地図で大丈夫なのかと心配になっていた。
方向音痴ではないが、地図は世界が変わる前のもの。家の倒壊や道路の破損程度であれば問題ないが、道ごと変化を起こしている可能性は大いにある。
それに、モンスターとの戦闘を避けながら帰るため、地図通りの行き方では柔軟に対応するのは難しい。
心の中ではため息つくが、考えていたって仕方ない。クロウが来ると思って待つより、来ないと思って行動して、偶々クロウが来れれば御の字くらいの気持ちでいよう。
気持ちを切り替えて、綜馬は発動している隠密の効果を少し高める。なんとなく覚えている来た方向と、地図を頼りに長い帰路についた。
―――――――――――――――――――――――――――
等間隔に発現したシェルターは、魔法やスキルと同じように【神】からの贈り物であるというのが、現在多くに信じられている仮説だった。
当初のシェルターはモンスターへ認識阻害の効果しか発揮しておらず、シェルター内にモンスターが現れるというのは日常茶飯事だった。
日に日にシェルターの研究が進められ、シェルター側からも掲示板という形で情報提示される事で、現在のような人類を守る盾として大きな役割を持つようになっている。
しかし、中にはこのシェルターの安全性に関する問題を指摘する者もいる。こんな世界になった事で常識や、固定概念というのは瓦解し、信じることが出来るのは自分だけという認識が広まるのも無理はなかった。
【神】への対抗意識や、疑念を持つ者も少なくない。そんな彼らの中で、突出した戦闘力と優秀な統率者が率いる集団がいる。
マークと呼ばれる彼らは傭兵であり、世界各地に支部を持っている。基本理念としてはモンスターやダンジョン、ひいては【神】へ対抗する力を持つことであり、シェルターを利用せず流浪し続け仲間を集めたり、研鑽を重ねている。
中にはシェルターを拠点としている者や、仮拠点としてシェルターに滞在し、近隣のダンジョン攻略をする者達もいるが、前提としてシェルターの恩恵は得ないことになっている。
彼らは自らの戦闘経験のみを信じており、魔法やスキルはあくまで補助的な要因して認識している。これは【神】と対峙した際、魔法やスキルに頼ることが出来ないと考えているためだ。
とはいえ、この世界において魔法やスキルなしでは生活する事が難しく、シェルターに頼らないとなるとその難しさはより大きくなるのは火を見るより明らかだと言える
常に戦いを求める彼らに取って、規格外と呼ばれるモンスターやダンジョンは垂涎ものだった。つまり――
琴は必死になってスライムを止めようとしているが、全ての行動が虚しく一瞬にして呑み込まれてしまう。討伐隊と、警備隊から援軍が来たものの、決定打に欠ける攻撃を続けるだけで、スライムは気に留める様子もなく中心部へ向かっていく。
誰がどう見てもジリ貧だった。スライムは進んでいくうちに体を大きくしていき、琴が対峙した当初3メートルだったスライムが10メートル近くまで膨れ上がっていた。
討伐隊副隊長の聖がやってきた時には手がつけられなくなっていた。
「避難はもう済んでいるんだよな?」
「はい。小学校に。」
「それじゃあダメだ。このスライムは小学校のある中心に向かってる。東西に分かれるか、最悪別のシェルターへ避難するしかない、」
聖はスライムの脅威を知っていたため、これ以上手がつけられなくなる前に動くべきだと判断した。
「しかし、それだと、」
「責任は僕が取る。討伐隊と警備隊で簡易的なチームを作って、非戦闘員をシェルター800から逃す。」
「しかし、」
討伐隊副隊長とはいえ、この決断にはなかなか賛同を得られない。
「それには自分も同意しよう。」
指示を終えた天谷が前線に来ていた。
「今、警備隊と避難指示の責任と指揮権は僕に任されている。そこに連名で討伐隊副隊長がつくなら、堂島町長でも反対するのは難しいはずだ。手遅れになる前に早く頼む。」
「承知しました!!」
天谷と聖の判断により非戦闘員に該当する住民達は、近隣シェルターへ避難することになった。
「各シェルターへの連絡や、堂島さんへの説明は自分が行きますので、聖さんはどうにか時間を稼いでください。」
「ありがとう。助かったよ。」
天谷は来たばかりの前線からとんぼ返りという形で、堂島の元へ走って行った。
「長月さんも、もし良かったら避難民警護の方に回ってくれないですか?」
魔力を消費し、疲れた様子の琴を気にかけて前線から退くようにやんわりと提案をする。この気遣いが琴の気持ちを締め付けるのだが、仕方のない話だと琴も理解している。
「そうさせてもらいます。新藤さんも無理をなさらずに。」
「ありがとう」と、聖は琴を送り出す。聖に背中を見守られながら、前線から離れていく琴は悔しくて涙が止まらなかった。
周りでスライムに攻撃を仕掛け続けていた討伐隊と警備隊も避難誘導の方へ送り出す。
スライムと対峙するのは聖だけになった。
「時間を稼ぐって言っちゃったしな。」
聖は『風魔法』を展開する。徐々に威力を増し始めた風によって、辺りに散らばる瓦礫や砂利が巻き上がる。スライムに有効な攻撃は核を一撃で破壊するような一点集中型の火力か、外骨格を削り最終的には核をむき出しにさせる技のどちらか。
聖は風を刃のように研ぎ澄ませ、スライムを徐々に小さくしていく算段を立てていた。
結果的に言うとこの作戦は成功する。持てるだけの魔力と、繊細な魔法操作によって、10メートル近くまであったスライムの大きさはあっという間に3メートルくらいまでに削り切った。
しかし、ここで魔力の残量が2割を切った。ただ『風魔法』で切断を意識するだけでなく、切り取った外骨格、つまり液体をスライムが再び摂取できないようにシェルター外に飛ばしていた。
液体を漏らさずに空気の膜で包み込み、運ぶという操作は半端ではない程の技量と神経を必要とする。
幸運だったのはスライムからの攻撃がとっしんのようなものと、粘液的なものを飛ばすだけにとどまっていたため、回避や防御は比較的簡単に行えた。
いつもの聖であれば、何かあった時用の保険として魔力残量が2割を切ると、後衛に下がるが、そんな事も言っていられない。冬弥の帰還か、避難完了の報告が来るまで耐えるしかない。
そんな事を考えながら、飛んできた粘液を後ろに飛んで避ける。
「ガギャッ」
ザクッと何かが刺さる音がした。異音の正体を確かめようと辺りを警戒すると、後ろに血だらけのゴブリンが立っている。
人なら立っているなんて有り得ない程の致命傷の数々。顔の半分が抉れているはずなのに、そのゴブリンは嬉しそうに声を上げている。
「あっつ、」
腰のあたりが異様に熱く感じ始める。けれど、意識は腰にでは無く、目の前のゴブリン。反射的にゴブリンの首を刈り取る。確実に絶命した事を確かめたところで、途端に眠気が襲う。
腰が熱い。眠い。熱い。眠い。耐え難い欲求と痛みにいた感覚が全身を支配し始める。
ここで異音の正体を理解した。腰を触って確かめようとするがそのまま力なく倒れ込んでしまう。ズズズとスライムが聖との間隔を確実に詰めて進んできている。
ダンジョンでは二度、この世界になったあの瞬間にも感じた事のある感覚。
「あぁ、死ぬんだね僕。」
もはや魔法など使う余裕もない。当然、手足の自由もままならない。唯一動くのは口だけ。今の思いを口に出すのが聖とって抵抗だった。
スライムが手を伸ばす。初めての行動だった。これまでは近づくくらいしか生命体らしき行動は見られなかったのに、ここで触角のような手を作り出す事を覚えたようだ。
触角を得たスライムは強くなると聞いた事がある。冬弥なら対応できるだろうが、彼が来るまでここが持つかどうか、掠れゆく視界の中で聖が最後まで考えていたのはシェルター800の住民が無事である事だった。
「誰か、こいつを、」
「こりゃ俺の登場は劇的ってやつかね。」
知らない男の声が降ってくる。幻聴か。ついに死はすぐそこまで、
「マオ、そいつの面倒頼むわ。俺はこれから刺激的な冒険を楽しんで来るからよ。」
「ジンさん、気をつけてね。そいつ角ありだから。」
「不足なし。」
聖の意識はここで途絶えた。