38 最上家
「ただいまぁ……」
「おかえり、どこに行ってたの?」
綺更が帰宅すると、リビングには母の静香がいた。ショートヘアで年齢は今年で50を迎えたわりにまだ若い顔立ち。
それでいて厳しそうな目つきと雰囲気を醸し出していた。
「ちょっと買い物に行ってた……」
わずかに震える体。
綺更は怯えた様子でそう伝えた。
そんな綺更に視線を向けず、キッチンで包丁を扱う静香はテレビもつかず静寂なリビングに響く大きな溜め息を吐いた。
それが更に綺更の体を震えさせた。
「今日学校休んだのよね? それなのに外出なんて随分と不良みたいな事をするのね」
「っ……ご、ごめんなさい」
「別に怒ってないわ。どうせあなたの人生で、あなたの学校生活だもの」
それはまるで他人事のように静香は言い放った。
もちろん娘も他人だ……しかし、他人は他人でも見知らぬ赤の他人のような対応だった。
気まずさと恐怖で綺更は黙り込む。
静かなリビングにはザクザクと野菜のカット音だけが響いていた。
そんな中、まるで空気と化していた中年の男が口を開く。
「テストは近いんだろ? 大丈夫なんだろうな?」
低くい声で紡がれた言葉にピクッと肩を震わせ、ソファに座る男へと綺更は顔を向けた。
「お父さんも帰ってたんだね……」
父の和昌だ。
時代錯誤と言われても否定出来ない、今時珍しい新聞で時事問題を把握するタイプ。
テレビがあろうと関係なく新聞を広げ、老眼なのか目を細めて新聞を読んでいる。
「テストは大丈夫なのかと聞いている」
「……大丈夫だよ。前回もクラス4位だったし。それに校内模試も学年で25位だったよ」
「そうか……。ならその調子でこれからも励め」
「うん」
会話が止まる。
綺更はこれ以上話すこともないだろうと察してリビングを出た。暗い廊下を歩いて階段を上り、自分の部屋である角部屋に入り明かりを灯す。
女の子らしい可愛い部屋。
ベッドの上にはぬいぐるみが置いてあり、机の上にはアクセサリーや香水の類い。
そして勉強熱心なのか、本棚には参考者や問題集がずらりと並んでいる。
中学時代の使い込まれた参考書も捨てずにしまわれていた。
「帰って来るなら事前に言ってよ……」
ボソッと一人の部屋でそう呟く。
その声を拾って言葉を返してくれる人は当然いない。
心が沈んでいく感覚がある。
綺更は無心に部屋を飛び出し、隣の部屋の前まで駆け足で向かった。そしてノックなんてせずに扉を開けると、部屋の明かりはついており、机にはパソコンを広げて作業をしていた兄の陸矢がいた。
「何だよ綺更? ノックしてくれないとびっくりするだろ?」
唐突に開かれた扉へと体を向けた陸矢は眼鏡をかけていて、説得力なんて皆無なほど驚いた様子はない冷静さだった。
しかし、綺更が部屋に飛び込んできた事で何かを察したらしい。
「今課題中だから、テキトーでも良いなら話くらい聞くぞ」
頼れる背中を綺更に向け、再びパソコンと向き合い作業を再開する。
そんな陸矢へとゆっくり歩み寄る綺更。
「難しそうだね」
チラッと背後からパソコンを覗くと、そこにはズラーっと細かい文字が横並びしていた。
「参考文献を探しててな」
「論文ってやつだよね? 凄いね本当に」
「スポーツ学の論文を読んでると、自分の理論とのズレや類似点があるからなかなか面白い」
そう言って陸矢はパソコンを巧みに操作し、引き続き論文を漁っている。
そんな兄の左肩にそっと手を置く綺更。
「今日は早かったんだね……」
「休養日だ。レポートもあったしな」
「帰ってくるなら言ってよ……」
「ごめん……」
陸矢はマウスから手を離して作業を止めた。
「何か言われたのか?」
「言われたというより……無関心だった」
「そうか」
その言葉だけで大体察した。
綺更がノックもせずに部屋に入ってくる時はいつだって両親に不満がある時だ。
たった4人の家族。
不満を曝け出して愚痴を言えるのは兄の陸矢に対してだけだった。
「悪いな、迷惑かけて……」
「お兄ちゃんは悪くない。あの二人が自己中で冷淡過ぎるだけだし」
「それでも、俺があの二人をああさせたからな」
「っ……違う! お兄ちゃんは何も悪くない。そもそもお兄ちゃんに期待っていうプレッシャーを押し付けて、息子を商品同様に見てる醜い親じゃん!」
「落ち着け。あまり大声を出すと聞かれるぞ」
「いいよ別に。今更尽かされる愛もないし」
「そんな事を言うなよ……」
寂しげな表情を浮かべる。
「それより、バイトはどうだ?」
陸矢は無理やり話を変えた。
変えるしかなかった。
これ以上、妹の不遇に目を当てられないのだ。助けてやりたい気持ちはあるが、助けられる立場にいない。
綺更が両親のことで苦労しているのは痛いほど知っている。しかしそれが半分は自分のせいだと自負している罪悪感を覚えつつも、親に反抗できない理由が陸矢にはあった。
だから、妹の心を落ち着かせる事に徹するしかない。バイトを紹介したのも、それが理由だったりする。
「上手くやっていけると思う。実はクラスメイトがいて、頼りになるから」
「クラスメイト? もしかして夜星くんのことか? たしか綺更と同い年だったはずだけど」
「うん、夜星くん」
「そうだったのか……。あの子は礼儀正しいし要領も良い。さぞかし頼りになるだろうな」
「うん」
兄から仕事を教わろうと、現場で活かせるかどうかは未知であり、いざ接客をすれば抜け落ちることもある。
気兼ねなく頼れる同級生は新人にとって何よりも心強い。
「サッカー部の方はどうだ?」
「そっちも上手くやれてるよ。マネージャーの先輩たちも優しいから」
「冥海と言えば神奈川の強豪。上手いやつばかりだろ?」
「先輩たちはみんな凄いよ。だけど、お兄ちゃんの方がすごい」
「お、おぉ……。一年生はどうだ?」
「一人凄い子がいるの。広末朔楽っていう一年生で唯一ベンチ入りした子がね」
「一年生でベンチ入り……。それも一人って事は頭抜けてるんだろうな」
「スタイルはお兄ちゃんと似てるかも……。キックの精度が抜群でパスが上手いの」
「へー」
「まあ、お兄ちゃんの方が凄いんだけどね。同じ一年生の頃にはプロの練習に参加してたくらいだし」
「プロのユースにいたからな」
「誰だって参加できるわけじゃないでしょ? お兄ちゃんを除くとプロの練習に参加したのは三年生に上がってから数人だけだし」
「まあ、それはな……」
陸矢は高校時代、プロのユースチームにいた。下部組織だ。
「まあでも、学校生活やバイトの方では悩みがなさそうで良かったよ。家でのことは我慢せず俺に言えよ?」
「……うん」
綺更はぎこちなく頷いた。
しかし、妹の中に溜まった不安に陸矢は気付くことが出来ず、作業を再開してしまったのだった。




