第八話 庭師と料理人
2024 5/21 少し加筆しました。
第八話 庭師と料理人
初めてリッタとサーラ、そしてベンジャミン医師と出会ってから早くも一ヶ月が経ち、私はやっと歩いても良いよと許可を得る事が出来た。
少しずつ量を食べれる様になった事から、そろそろ他の物を摂っても問題ないだろうという事で、最近では食事もスープだけでなくふかふかのパンが出て来る様になった。スープももちろん美味しかったけれど、そのパンも毎回違うものが出て来てすごく美味しいのだ。
「体力をつけるために歩くのは許可するけど、まだ長時間はやめた方がいい、長くても一時間までにしてね。」
私はベンジャミン医師の言葉に頷いて、サーラの手を借りてベッドから起き上がるとサーラは少しだけ驚いた様な表情をした。
「…シア様、少し背が伸びられました?」
サーラの言葉に私は首を傾げる、自分ではよく分からなかったけど確かに服の丈が少し短くなっている様に感じる。服を気にする私にサーラはすぐに新しい物を手配するから何も心配いらないと頭を撫でてくれた。
それに分かったと頷いて私は窓の方へ向かった、今日は晴れているから庭がよく見える。私がバルコニーに出るとそれを見つけたのか鳥が集まって来た、指先で鳥達と遊んでいると、吹き抜ける風に私の髪がふわりと舞い上がる。
「…ファウスティーナ、様…?」
微かに聞こえたその声はベンジャミン医師のものだったらしい、自分でも何を言ったのか分からず困惑している様子だったが、聞き間違いでなければ今、彼はお母様の名前を呼ばなかっただろうか。
「あ…ああごめんごめん、なんでもないよ!」
しかし、私が聞き返す意味で首を傾げてみせるとベンジャミン医師はそう言ってかぶりを振った。その彼の様子に、私はそれ以上聞く事をなんとなく諦めた、聞き間違いだったのかもしれないとも思ったからだ。
鳥達を空へ帰してから、庭園に行きたいという意味でサーラに庭園を指差すと、丁度アベルが帰って来るのが見えた、気付かないだろうけどおかえりなさいと手を振る。
アベルは確か王城に用があると言って数日出かけていた、宰相としての仕事なのだろう、確かテイウズモンド公国の使者が来たと話をしていた。
確かかの国はミッドランドの友好国だったはずだ、海洋国家で貴重な海産物の輸出を行っている他、ミッドランドとテイウズモンドの王同士が良好な関係を築いているため、毎年式典にも招かれているのだとサーラが少しお話を聞かせてくれた事がある。
「シア、やっと歩く許可が出たのか?」
そんな事を考えていると突然目の前にアベルが現れた、少し上から私の髪を撫でるアベルに驚きつつも見上げてみると、彼は宙に浮いていた。
「おかえりドラグナー。」
「おかえりなさいませ、卿。シア様は庭園に行きたいと仰っております。」
「そうか、ならここから行こう。」
シア、とアベルが私の手を取ると私の体までもが彼と同じ様にふわりと浮き上がる、突然の浮遊感に困惑して思わずアベルにしがみつくと、彼は私の腰に手を添えて空中をゆっくりと歩き出した。
私が彼の動きにつられて一歩踏み出すと、先程まで確かに裸足だったはずなのに私はいつの間にかキラキラと光る透明な靴を履いていた、また一歩空の上を歩いてみても、地面の感覚が無いのに私の体が落ちる気配は無い。
「驚いたか?」
純粋にすごいと思ってアベルの方を見上げると彼は少しだけ自慢げに笑っていた、風になびく長い髪を耳にかけて微笑むアベルの姿に思わず目を奪われる。
「シア?」
アベルの声にハッと我に返った私は、なんでもないと首を振って咄嗟に庭園のバラを指差した、花を近くで見たいと思ったのも嘘ではない。
私の言いたい事が分かったのかアベルは私を連れてバラ園の側まで行くと今度はちゃんと地面に降り立った、なんとなく靴底から伝わる地面の感触にほっとする。
アベルのこのお屋敷は王都ではなくミッドランドの郊外に建てられていた、聞いた話ではこの辺り一帯全てがアベル個人が所有する土地なのだという。敷地内に使用人の住む家はあるが、それ以外この邸宅の他には何も無いらしい、そのためかこの辺りはとても静かだった。
「温室もあるが、見てみるか?」
よく手入れされた美しいバラを私がしばらく見つめているとアベルはそう私に尋ねてきた、温室があるとは知らなかった私はぜひ見に行きたいと頷く。
こっちだ、とアベルに手を取られゆっくりバラ園を通り過ぎて行くと、その温室はこの屋敷のほぼ隣の端の位置にあった、ちょうどこの辺りだと私の部屋からは死角になっているから見えなかったのだ。
「マージハル、入っても?」
「これは、ドラグナー様…。」
温室の扉の前で作業していたのはもふもふの、毛並みの良さそうな紺色の体毛に全身を覆われた、恰幅の良い獣人だった、渋みのある声からして初老の男性といったところだろうか。
「そちらの女性がかの方ですかな?初めましてお嬢様、私はマージハル・ギュンター。ここの庭師をしております。」
こちらを振り返った男性はアベルの隣に居た私の存在感に気付くとそう言って深々と頭を下げた、私も咄嗟によろしくお願いしますという意味を込めて同じ様に頭を下げる。
「…シアはまだ声が出ない、私からもよろしく頼む。」
「承知致しました。」
マージハルはそう言ってお辞儀をすると、どうぞこちらへ、と温室の扉を開けて私達を中へ通してくれた。
中は思ったよりも広く、食用の実をつけている物や大輪の花など、中には珍しい物や私が知らない植物まで、様々なものが植えられていた。陽の光を浴びてきらきらしている温室の中は、私にとってはとっても素敵な宝石箱の様に見えた。
「こちらはベインドラドで見られる代表的な花ですな、温暖な気候でしか育ちません…この木の実はレッドウッドのもので、味はほんのり甘く、香りが良いため焼き菓子などによく使われております。」
そうして一つ一つの植物をマージハルは私に丁寧に解説してくれた、他の国のものまで栽培しているとは思わなかった私は驚いた、この大陸の気候は国によってかなり差があるからだ。
ここミッドランドとその隣のヴェルスナー帝国、そしてレッドウッドの森は比較的温暖な気候で過ごしやすい地域だが、ベインドラドは乾燥地帯で国土のほとんどが砂漠になっているし、モスリーは山岳にある氷雪地帯であり、国全体が雪で覆われている場所なのだ。
「こちらは遠い異国の、サーラの国の花だそうで…彼女が持っていた種を植えここまで育てたのです、この大陸ではここでしか見られない花でしょう。」
また別の区画に案内されて目にした薄い紫色の花は圧巻だった、数え切れないほどの花が葡萄の房の様にいくつも密集して下へ伸びている。どうなっているのかと良く見てみると、天井の支柱に木がツタのように巻きついている様だった、私は思わず感嘆の息を吐いた。
「綺麗だな…シアの瞳と同じ色だ。」
何を言っているのかと思わず驚いてアベルを見上げると、彼は真っ直ぐに私を、正確には私の瞳を見ていた。
綺麗なアベルの髪が私の頬をくすぐる、はらはらと落ちる薄紫色の花弁が舞って幻想的だった。
「シア様〜!!そろそろご飯にするにゃ!ご飯の時間だにゃ〜!!」
ばーん!!と大きな音を立てて開け放たれた扉の方を見ると、大声の主であるリッタと、そのリッタを片目で見るサーラ、それを見て笑っているベンジャミン医師と、また丁寧にお辞儀をしているマージハル、それとその他にもう一人、その後ろには翡翠の様な緑髪の知らない男性が居た。大雑把に着こなしてはいるがエプロンを付けた格好からして料理人だろうか。
「シア様が温室を気に入られると思いましたので、勝手ながら本日はこちらでお食事のご用意をさせて頂きました。それと、ご挨拶を。」
「あー…俺はレイドット・テテ、ここの料理人。まあ、よろしく頼むぜお嬢ちゃ…いやあの間違えた間違えましたよろしくお願い致しますお嬢様。」
射殺しそうなサーラの視線を感じてか、レイドットは早口で訂正しながら姿勢を正した、あまり堅苦しい言葉に慣れていないのだろう。私は気にしないのになと思ってぼんやり見ているとアベルがやんわりと私の肩に手を置く。
「シア、この屋敷の使用人はこれで全部だ。万が一、シアが一人の時に他の者を見かけた場合は…これを。」
アベルが差し出した手には小さな硝子細工のハンドベルがあった、綺麗だなと思って手に取って見ると僅かに光を帯びている。
「これは魔道具だ、鳴らせば何処にいても私が駆け付ける。」
そう言ってアベルは私のペンダントにベルを通して、いつでも身につけていられる様にしてくれた。私がそれにありがとうと唇を動かすと彼は私の髪を撫でてから、待ち切れない様子で早く早くと騒いでいるリッタと準備をして待っているサーラ達の元へ、行こうかと手を差し出した。