第二十話 ヴェルスナーの聖女
第二十話 ヴェルスナーの聖女
「…はあ。」
長い金髪を指で遊ばせながら、エレヴィーラは窓の外の景色を見て盛大にため息を吐いた。
ここは帝国ではなく、その属国であるレッドウッド、大部分が湿地帯であるこの国は湿度が高く、とても快適な場所とは言い難い。気分転換にと外を見た所で、変わり映えしない森が続いているだけなのだ、今夜は霧が出ているためかどんよりとした空気が更に気分を陰鬱とさせる。
エレヴィーラはつまらない、と言って苛立ち立ち上がると、それまで椅子にしていた奴隷を蹴り上げた。
「何をしているの、この私が不快な思いをしているのだから、奴隷は喜んでその身を差し出すべきでしょう!」
「も、申しわ、けござ…。」
金切り声を上げるエレヴィーラに奴隷の少女は蹲りながら頭を下げ、懸命に額を床に擦り付けた、目の前の主人によって植え付けられた恐怖に少女の体がガタガタと震え出す。
あの奴隷はこの程度でダメにならなかったのに…!どうしてよ!どいつもこいつも、何故私の言う通りに出来ないの?!
苛立ったエレヴィーラは奴隷を蹴り付け、その手をヒールで踏み潰しながら懐から愛用の鞭を取り出そうとした、その時だ。
「エレヴィーラ。」
「…エドウィン様。」
エレヴィーラにあてがわれた客室へとやって来たのは婚約者であり、一緒にレッドウッドへ来ていたエドウィン皇太子だった。
床に這いつくばっている奴隷には目もくれず、彼は一直線にエレヴィーラの方へ歩み寄った、後ろに居るのはレッドウッドの者達だろうか、彼らは一様にエレヴィーラに向かって頭を下げる。
「私はこの国の大臣を務めております、オリバー・ガウィンと申します。」
「私は神官長を務めております、ゼパールにございます…この度はわざわざ聖女様にお越し頂き…レッドウッドを代表し、心より感謝申し上げます。」
エレヴィーラは丁寧に名乗った彼らに返事を返す事もせず、鞭ではなく扇子を取り出して口元を隠し、値踏みするような視線を隠さず彼らへと注いだ。
…はあ?誰よ、この辛気臭い者共は。
「晩餐会の準備が出来たようだ、私と共に参ろう。」
「ええ、分かりましたわ…お父様はもうそちらに?」
「ああ、ライングロウ公爵は先に演説を始めている。困ったものだ、此度の主役は〝聖女〟である君なのにな!」
恭しくエレヴィーラの手の甲に口付けるエドウィンを見て、エレヴィーラは満足げに彼の手を取った。
先程の機嫌の悪さはどこへやら、エレヴィーラは皇太子にエスコートされながら自信に満ち溢れた表情で、長く巻いた金髪をなびかせながら部屋を出て行く。
「ああ、あれは好きに使って構いませんわよ、もういりませんわ。」
去り際にそう言って笑みを浮かべるエレヴィーラと、その言葉に何も感じていない皇太子の姿を見て、神官長であるゼパールは薄ら寒いものを覚えてしまった。
彼女と共に部屋に居た奴隷の様な身なりの少女はエレヴィーラが出て行った後も頭を地面に擦り付け、土下座をしたまま動かない、見るからに尋常ではないほど怯えているのだ。
慈悲深い聖女様がどこぞの奴隷を解放してやり、身寄りのない奴隷を侍女として共に連れて来たのだろうと聞いていたのだが、それは大きな間違いだった様だ。
聖女不在のミッドランドとは異なり、レッドウッドにはミネルバ・ザリーという一人の聖女が居る。ミネルバは元々、その力こそ弱いものの長年レッドウッドの結界を維持してきた、しかし歳には勝てず、ついに結界に綻びが出始めてしまったのだ。
過去、魔物暴走が起きた際、ミネルバの力では結界を維持出来ずレッドウッドは一度滅亡しかけた。その時力を貸し、レッドウッドを救ってくれたのは歴代最高の聖女として名高い〝ヴェルスナーの至宝の日輪〟ファウスティーナ・ラヴィンその人であった。
彼女はその力を他国であったレッドウッドや他の国々にも分け隔てなく、そして惜しみなく使ってくれた、ファウスティーナの力によって救われた国々は多い。だからこそ、レッドウッドはヴェルスナーに属する道を選んだのだ、そしてそれは恩あるファウスティーナ亡き後も続いていた。
が、しかし…。
「…帝国は、何を考えておるのだ…。」
ミネルバ、そしてファウスティーナの姿を見た事があるゼパールは確信していた、今目の前を通り過ぎたあの、聖女を名乗る令嬢は〝聖女〟ではなく、それどころか恐ろしく歪んだ存在だという事に。
「王よ…!あの者達は明らかにおかしい…!」
「あんな傲慢な令嬢が〝聖女〟様であるわけがありません!」
「絶対に何かの間違いだ!」
今代のレッドウッドの王であるミケラ・ラカンは殺到する苦情に頭を悩ませていた。
レッドウッドの要請に応えたヴェルスナーが寄越して来た聖女はとても〝聖女〟とは思えない人格をしていたのだ。
ヴェルスナーからやって来たあの聖女は、この僅か一ヶ月の間にレッドウッド側が用意した侍女達へ何度も傷害事件を起こし、毎夜皇太子と遊び歩いていた、その上一度たりとも〝聖女〟の力を使ってはくれなかったのだ、みなが何をしに来たのだと憤慨するのも無理はない。
「…みな、よく聞いて欲しい。やはり、あの噂が真実だったのやも知れぬ…。」
ミケラはそう言って静かに息を吐いた。
今からおよそ十二年前、ヴェルスナーから発表された聖女ファウスティーナ・ラヴィンの死はこの大陸全土に甚大な衝撃と悲しみをもたらした。
病に倒れ長い間療養していたのだが快方へ向かわず亡くなったのだという内容だったが、混乱を極めた各国では当然の如く様々な憶測が飛び交った。
その中でも有力とされたのは誰かに毒を盛られたのではないか、という噂だ。
ファウスティーナの力は歴代最高、それに加えて彼女は類い稀なる美貌を持ち合わせていた、いきすぎた嫉妬や羨望が恨みへ転じたのだろう、それ以外に考えられなかった。
「…やはり、ファウスティーナ様は毒殺されたのだろうな…他国の誰かに自国の聖女が暗殺されたとなれば、慎重にもなろう。」
「つまり…やはりあの〝聖女〟は偽者だと?」
臣下の問いにミケラはゆっくりと頷いた。
目を伏せながら過去の記憶を思い出す、まだヴェルスナーの皇太子であった現皇帝はファウスティーナを愛していた、それは誰が見ても明らかだったのだ。
彼女の死から皇帝陛下は一度たりとも自国を離れていない、しかもヴェルスナーは次代の聖女を公表した後、今までの様に〝聖女〟を国外に派遣する事を拒んでいたのだ。
「十中八九、ファウスティーナ様の様な犠牲を生まないための、影武者であろうよ…あの令嬢は本当に自分を〝聖女〟と思い込んでいる様だがな。」
それ自体は哀れだと思った、しかしながらその真実をレッドウッドが教える事も、ましてやヴェルスナーに訴える事も出来ない。
「そんな……では結界の修復は叶わぬのですか?!我々レッドウッドの民は…。」
「いや、ヴェルスナーには今もなお対魔結界が張られている…聖女様は確かに居られるのだ。外交はあの影武者に任せ、結界の修復は密かに行うつもりなのであろう。」
よって、口出しは出来ぬ、とミケラが言うと先程まで声を上げていた全員が一様に押し黙った。
あれほど各国に手を差し伸べ、世界中から畏敬の念を抱かれていたあのファウスティーナが殺されるなど誰が予想出来ただろうか、皇帝の嘆きは相当なものだったのだろう。
だからこそ、ヴェルスナーは本物の聖女を表舞台に立たせない事で、自国の聖女を守ると決めたのだ、そうミケラは結論付けた。
「今は亡きファウスティーナ様も、次代の聖女が殺害されるなど望むはずもない…我々に出来る事はただ結界の修復が終わるまで、あの令嬢を〝聖女〟としてもてなす事だけよ。」
例えそれが傲慢で、残虐な令嬢だとしても、それが本物の〝聖女〟を守るためならば。
「…我々は、信じるしかあるまいよ。」
ファウスティーナ様が愛したあの国を、そして、ファウスティーナ様を愛した皇帝陛下の決断を、属国となった我々レッドウッドの民は信じる他無いのだ。
ミケラは知っていた、過去、皇太子であったテオドールはファウスティーナを愛していた事を。
ミケラは知らなかった、その愛が一方的なものであり、その結果、テオドールはとうの昔に壊れてしまっていた事を。
ミケラは知らない、ファウスティーナの命を奪ったのは毒でもなければ他国の間者でもなく、テオドール・ヴェルスナー、その人であった事を。
過去のテオドールの姿のみを知るミケラには、知る由も無かったのである。