第十五話 陶酔の赤眼
2024 5/25 脱字修正しました。
第十五話 陶酔の赤眼
その女性を見た瞬間、自分の中の価値観全てが書き換えられた気がした。
魔道具で髪を黒色に変え、商人に扮してミッドランドまでやって来た俺は早速国境付近で情報を集めた。しかし、まあ何も出てこない。
こちらが持っている情報といえば川に流された子供、性別は女、くらいのものだ、人を探すにしてもこれではあまりに曖昧過ぎる。誰に探らせてもみすぼらしい姿の痩せた子供だったという情報しか得られず、当然俺はその子供の顔も名前も知らないのだ。
正直ザルなミッドランドの検問を抜け、川伝いに行けば何かしらの痕跡はあるかと思ったが、それも無い。
そもそも何故皇帝はその子供が生きていると確信しているのだろうか。死んでいるだろうと普通は思うものだが、それを進言した兵は首を刎ね飛ばされたのだと聞いた。
一応の父親ではあるが、今の皇帝陛下の振る舞いは正気とは到底思えない。
もしかしたら皇帝がただ執着しているだけの娘で、実は何の価値も無いのだろうか。
密かにミッドランドへ入国し、捜索を開始して三日目になると俺はそんな事を思い始めていた。
「ダリウス殿下、そろそろ調査をやめ、一度戻られては…ミッドランドではなくレッドウッドの方だった可能性もあります故…。」
「ああ、そうだな…ではこの周囲の捜索を終えたら一度帰還しよう。」
「御意。」
側近であるコーネリウスは一礼すると馬車の方へ向かった、今回俺の私兵はコーネリウスのみ、他は適当に雇った傭兵だ。他の者は帝国に残らせ、兄や騎士団の動向を逐一報告させている。
現状まだあちらも逃亡した子供を見つけてはいない様だが、逃げた先が本当にミッドランドでないのなら時間の問題だろう。
それにしてもこの辺りは森が深い、程なくして馬車が通れる程の広さもなくなり俺達一行は歩く事を余儀なくされた。
まあ何人か馬車に残しておけば問題ないだろう、元より重要な積荷も無いのだ。
青々とした木々を見上げながら適当に歩いていると開けた場所が見えた、どうやら湖の様だ。大きさはそれ程でも無いが透き通った水と青い花が美しい。
そしてその湖の畔には数人、人が居るのが遠目に見えた、どうやら三人共女性の様だ。二人はメイド服を纏っている事から侍女だろう、もう一人は白いワンピースの女性だったが後ろ姿で顔はよく見えない。
それ程興味も無かったがこんな人気の無い場所に居るのだ、二人も侍女を連れているのであれば貴族だろうが、試しに話を聞いてみても良いだろうと林の中からゆっくりと湖の周りを歩いて行った。
良く見ればどうやら白いワンピースの女性は水遊びをしているらしかった、こちらにも小さく水の音が聞こえて来る。
鳥達がその女性の周りを優雅に飛んでいる、彼女がくるりと回ると水面の水が波打ちキラキラと光を反射する、銀色の美しい髪が太陽の光を浴びながらふわりと舞った。
なんて美しいんだ。
そこに居た一人の女性は同じ人間とは思えぬ程に美しかった。鳥と戯れながら微笑む姿はまるで妖精か精霊、女神と言っても差し支え無い。
どれくらい見惚れていただろうか、この世のものでは無い様な非現実的な美しさを目の当たりにし、しかしこれは現実なのだと思い出した瞬間、俺の中に湧き上がったのは激しい衝動だった。
あの女性を手に入れたい、自分のものにしたい、と沸騰した様に頭の中が彼女で埋め尽くされる。
「そこの者、何者です。」
氷の様な冷たい言葉が耳に入った、その瞬間ついて来ていた何人かが正気を取り戻しハッと我に返っていた、同じ様に彼女に見惚れていたのだろう。それさえも腹立たしく思えた、彼女は俺だけのものにするのだから。
侍女の一人が何かを言っていたが俺の耳には全く入っていなかった、怯えた様な表情も興奮材料にしかならず、俺の庇護欲と加虐心の両方を強烈に煽った。
ああ…これが欲か。
腹違いとはいえ兄の色欲が全く理解できなかった俺だが今なら分かる、あの女性の全てが欲しいのだ。
泣き顔も笑顔も恐怖に歪む顔も、全て俺だけのものにしたい。
「あの女性は俺のものにする…捕えろ。」
そう言葉を発した瞬間、俺の声が届いたのか美しい宝石の様な紫のその瞳が俺を捉えた。
目が合ったのだ、それだけなのにこの高揚感はなんだ、あの目に俺が映されたという事実だけで、こんなにも歓喜している自分が信じられなかった。
体調が悪いのか青い顔をしてその場に崩れ落ちてしまった彼女のその表情さえ目が離せない、全てが愛しいのだ。
コーネリウス以外の全員が彼女を捕えようと必死に向かって行く、少し手荒な真似をしている自覚はあるがあんな男共に彼女をくれてやる気は毛頭無い、捕らえた後は優しく丁重に帝国に連れ帰り、後は婚姻さえしてしまえば王宮にでもなんでも、何処にでも閉じ込めてしまえる。
誰にも渡すものか、そう思った丁度その時、俺の視界が青く染まった。
見れば侍女の周りに青い魔法陣が展開されている、それは文献で見た事があった。
〝聖女〟の防護結界だ。
俺は歓喜に震えた、運命だとすら思った。
この女性を連れて帰れば俺は、ただ美しいだけではなく本物の〝聖女〟を妻として迎えられるのだ。その価値はあんな誰もが知る紛い物の、残忍な性格をした女と婚約している兄とは比べものにならない。
俺は今まで目にした中で最も美しいあの女性を手にすれば、次期皇帝の座まで確約されるのだ。
「〝聖女〟を手に入れろ、何をしても構わん。」
俺は思わず笑ってしまった、もはや塔から逃げ出した子供の事などどうでもいい、そんなもの兄にでも騎士団にでもくれてやる。
ああ、何度見ても美しい、その美しい髪に、肌に、唇に触れたい、全てを俺だけのものにしたい、そんな欲求が止めどなく湧き上がって来る。
しかし、その高揚していた俺の気分を一瞬にして台無しにしたのは、一人の男の登場だった。
突如として鳴り響いた鈴の音に合わせて彼女の前に立ったその男は間違いない、ミッドランドの宰相であり魔法使い、ドラグナー・ヴァルスタッドその人だ。
何故一国の宰相がここに、という疑問と同時に自分がこの国に居てはならない身分であった事を思い出す、他の傭兵はどうでも良かったが、俺がかの魔法使いに見つかれば厄介だ、外交問題になりかねない。そうすれば彼女を探す機会も失われてしまう、到底今の戦力ではかの魔法使いに太刀打ち出来ない、瞬殺されるのが目に見えている。
俺は小さく舌打ちをして撤退を命じた、従ったのは数人だったがそれもやむなしだろう。
立ち去る間際、最後に彼女の方を振り返るとあの男が彼女を腕に抱き、その瞼にキスをしていたのを目撃し、俺は目を見開いた。
何をしていると叫び出したかった、彼女は俺の物だと奪い返したかった、どろどろと黒い感情が俺の中で暴れ回る。
唇を噛み締め、血が滲む程に拳を握りながら、絶対に殺してやるという明確な殺意を俺が誰かに抱いたのはこれが初めてだった。
「ダリウス殿下、やはり一度戻られた方が…。」
「くどい!俺はなんとしてでも彼女を手に入れる、これは決定事項だ。」
俺達一行はすぐに馬車を走らせあの湖の辺りから離れ、今は適当な宿屋へ身を寄せていた。外の景色は日が落ち、すっかり夜になっている。
俺は今すぐにでも彼女を迎えに行きたかった、何故一国の宰相があの場に現れたのか、それは彼女が〝聖女〟であるからに他ならない。ミッドランドは長年聖女不在の国だと聞いていたが、恐らくは今代になって見つけ出されたのだろう、皇族の俺ですら知らなかったのだから彼女の存在はまだ公にはされていないはずだ。
これは俺にとって僥倖だった、今ならばまだミッドランドではなくヴェルスナーの聖女として彼女の存在を発表出来るのだ。
「今ならまだ間に合う、俺の私兵をミッドランドへ集めろ、全員だ。」
そう、今ならまだ間に合う、しかしこの機を逃せばミッドランドが先手を打ち、聖女である彼女を公表するかも知れない、そうなれば俺の理想の実現は困難になる。
あの美しい儚げな彼女の姿が目に焼き付いて頭から離れなかった、あの女が欲しい、あの美しい女性が俺は欲しくて欲しくてたまらない、この身を焦がす様な激しく感情を抱いたのは初めてだった。
だからなのだろうか、気が急いて仕方ないのだ、去り際に見たミッドランドの宰相の姿が憎くて恨めしくて、あの男が今もなお彼女と一緒に居るのかと思うと気が狂いそうになる。
「コーネリウス、俺はあの〝聖女〟を娶り次期皇帝の座を手に入れる…お前も、エレヴィーラ嬢が紛い物だという事は知っているだろう。」
「…私共は何も知りません、陛下より『そう回答せよ』と仰せつかっております故。」
それだけ聞けば十分だがコーネリウスは申し訳無さそうに頭を下げた、俺は顔を上げろとジェスチャーをして鼻を鳴らす。
「俺には陛下のお考えは分からん、さっぱりな。だが、流石に〝聖女〟の存在を無視する事は出来ないのではないか?」
俺の自信を持った問いに、コーネリウスは渋い顔をして押し黙ってしまった、そんなに難しい質問をした訳ではない、俺はただ肯定して欲しかっただけなのだ。
「何かあるのか?」
「…いいえ。ただ…陛下の中で〝聖女〟とは唯一、あの方だけなのでしょうな。」
目を伏せ、遠い目をするコーネリウスに俺は不思議と、ある金髪の女性の存在を思い出した。
俺自身としては顔はあまり覚えていないほど曖昧な記憶だが、王宮には肖像画が飾られていたはずだ、しかも皇帝陛下の私室にのみ。
まだ俺が幼い頃、子供ながらにその肖像画を見て綺麗だと何気なく褒めたその瞬間、俺は一度殺されかけた事があるのだ。
父であるはずの皇帝陛下の手によって。
「〝至宝の日輪〟…ファウスティーナ・ラヴィンか。」
その名は皇帝であるあの男が、唯一愛したと言われる女性だ。
しかしファウスティーナ・ラヴィンは皇帝からの寵愛を受け取る事は無かった、それどころか徹底的に拒み続けたのだという。なんでも手に入れられるはずのヴェルスナーの皇帝が唯一手に入れられなかった女性は〝聖女〟だったのだ。
いや違う、正確には彼女が〝聖女〟であったために手に入れられなかったのだ。
「…俺は皇帝の二の舞にはならない。もう一度言う、俺の兵をミッドランドへ集めろ…これは命令だ。」
「…かしこまりました。」
諦めたのか、俺の決意が固いことを汲んでくれたのか、コーネリウスが一礼し背中を向け部屋から出て行く。
焦る思いを無理やり誤魔化す様に、俺は赤いワインを一気に飲み干した。