序章
序章
「何故だ…何故…ッ!」
飛び散る鮮血、むせ返るような血の匂いに自分では無い誰かの悲鳴と怒号が入り混じる。血走った目の皇太子は血まみれの剣を乱雑に投げ捨て、幼い私の首を絞めた。その手は緊張によってか震えていたが明確な殺意がこめられている、しかしながら意識が途切れる寸前でその手は離され、結果として私は生きながらえる事になった。
あれから、早くも十数年の時が過ぎた。
皇都での虐殺により命を落としたのは歴代最高の聖女であると人々から崇拝され、愛されていた〝至宝の日輪〟である私の母、ファウスティーナ・ラヴィンも含まれていた。しかし、皇族はあの虐殺を隠蔽し、惨劇自体を無かった事にして聖女の死を病死と発表し、大々的に偽りの国葬を行った。
その忘れ形見である私は、存在を公表する前だった事もあってか産まれていなかった事にされ、現在は城近くの別塔に幽閉されている。
フェリシア・ラヴィン。名前を誰かに名乗る事も無く、誰からも呼ばれる事も無い、けれどそれだけは忘れてはいけない、私の大切な名前だ。
『…シア。』
今年で十六になるというのに、私の体はいつからか時が止まったかのように成長をやめた。幼い姿のまま、濡れて冷えきった体を苔の生えた石の上に力無く横たえていた私は、雨音の中聞こえて来たその声にゆるりと目を開ける。
そうだ、先程の言葉を一つ訂正しなければ、私には、まだこの人だけが居てくれた。
「こんばんは、アベル。」
ぎゅっと、両手で薄い青色をした小さな宝石を包み込む。
物心ついた時から首にかけられていたこのペンダントは私が肌身離さず持っていたためか、取り上げられなかった。
毎日の様に暴行を加えにやって来る貴族や衛兵達、誰かしらの目に留まってもおかしくないはずだが、誰も興味を示した事が無いという事はそれほど価値があるものでは無いのだろう。
それだけは私にとって幸運だったかもしれない。
「…今日も眠れていないのか?」
アベルとしてはさっさと寝ろ、と私を注意したいのだろうけれどその口調は責めるものでは無く、気遣いや心配からものだった。顔も、名前だって本当か分からないけれど、彼はとても優しい人なのだ。
「うん、だから今日もお話を聞かせて?」
『そうだな…竜と少女が旅に出る話は?』
「とっても楽しそう。」
ひそひそ話の様に声を潜めて私が笑うと、ペンダント越しのアベルも微かに笑ってくれた気がした。
一度アベルがお話を始めると私は聞く事に徹する。目を閉じて彼の声に耳を傾けているその時だけは、明かりも無く、暗くて冷たい小さなこの牢獄ではない、どこか別の場所に行って、物語の登場人物達のように自由に歩いている気分になれた。
小さな村や湖のほとりと物語が進み、場面が移り変わるにつれてふわふわと夢心地になる。お花畑なんてどんなに綺麗な場所なんだろうと、私は見た事のない風景に微睡の中で想いを馳せた。
『おやすみ、シア…良い夢を。』
眠りに落ちる前にいつもこうして彼が願ってくれるから、私は夢の中だけは幸せでいられるのかもしれない。