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落月

俺は何時も、何処とも知れぬ深い場所をゆらゆらと揺蕩っていた。


月の光すら届かぬ暗い水底は冷え冷えとしていて、一寸先の影すらも姿が判然としない。


極稀に魚影が傍を過る際にはその鰭なんかに斬られた鋭い水流の形で姿形がぼんやりとは予測が付いたが、それでも目の無い我が身には身体の全面で感じる海流の揺らぎこそが全て。己には、世界がどのような形をしているのかは少しの見当も付かなかった。……それこそ、己自身の形さえ。


ゆらゆら、ゆらゆら、押し流されていく。


己は鈍間だ。キッキと機敏に身を熟す尾鰭の群れとは違い、ただ流れに身を任せるまま海の中にぷぅかぷか浮かんでいる。行き過ぎて、戻ろうと思って動く時でさえ、尾鰭達のようにはいかない。肌全体に水圧を受けながら、一掻き一掻き何かを押し退けて突き進むような一挙手一投足は如何にも鈍臭く、あまりに生存競争の中に身を投じる生き物としては動作が暢気に過ぎる。


己は、愚かしい。


そう思いながらも、ぷぅかぷか、ゆぅらゆら、海に浮かぶままに流されていた。時間の経過は分からなかった。そもそも、己という生き物は生きているのか、それとも死んでいるのかさえ己には分からなかった。ただ漠然と、死にたいという欲求とは相反さない「生きて居らねばならぬ」という遺伝子系列の欲求に衝き動かされていたことだけは確かだった。


ぷぅかぷか、ゆぅらゆら、そんな欲求に衝き動かされながら、己は静かに海の底で揺れていた。己には何もなかった。ただただ、揺れていただけだった。


だがしかし、そうやって揺れている中で少しだけ、心を揺り動かされたものもあった。己の同族に出逢ったのだ。


彼もまた、揺れていた。そして光の差さぬ深海の、それでも浮かび上がる僅かな光を集めてつらつらと光る彼の身は、その時己が「月」というものを知っていれば己は「深海の月のように思えた」と喩えただろう程に美しかった。


彼はゆらゆらと揺れて、何処かへ消えた。


己の同族は、美しかった。しかし己は愚鈍で、何時迄も此処で揺れているだけだ。同族が憎く、そしてあんなに美しかった彼もまた尾鰭を持たないのだと思うと少しだけ悲しかった。


彼は素早く機敏に動ける尾鰭を持たない。その為に彼は、ウミガメの口に囚われていつかその光の全てを失うだろう。そして己も想像した彼の最期と同じように喪われて、海中の泡となって岩肌で弾けるのだ。


死を畏れる気持ちはなかった。ただ、この先己にゆらゆらと揺れていること以外の出来事が起こるのだと思うと、少し信じ難い気持ちがあった。否、最期まで、己はゆらゆらと揺れているのかもしれない。ウミガメに捕らえられる、その最期の最期まで。


それが己という生き物の、使命なのかもしれない。


しかし幾つ時が経っても、己をウミガメが捕らえることはなかった。それはある種の、天命だった。


ある時ウミガメに出会した。神の仕組んだようなその契機に、ウミガメは目を細めて獲物を見定め、口をがぱりと開ける。もう終わりだ。そう思って身を硬らせた瞬間、己は未だ揺れ続けている自分に気が付いた。


ウミガメが食らい付いたのは、己の身でなく何処からか流れ込んで来たビニール袋。半透明で中に水が入ると膨らんで見えるそれは、見ようによっては同族に見えなくもない。そんな無機物と偶然に護られて、己が死ぬことはなかった。そして翌朝、ウミガメは死んでいた。


そんな風に、己に迫る危機というのは往々にして天啓的な偶然の下に切り捨てられ、その度に己は何かに代わって生き延びた。それを喜ぶべきか忌まわしく思うべくかは、到底見当も付かない。けれども己はきっとそういう星の下に生まれてきた生き物なのだと、いつからか感じるようになった。


それは何時迄も揺れ続け、そして人の形と目を得て尚変わらなかった。海流に任せるままに揺れ続ける己の知らぬ間に、ウミガメはビニール袋を勝手に食べて勝手に死んでいく。己が手を下す必要など少しもなく、己は気味が悪い程幸運で、悪いことなど一向に起こらなかった。ただ揺れ続けるだけで、総てが上手く行った。


つまらなかった。


己は海月だった。


己はあの日見た同族の、尾鰭を持たぬ愚鈍を消し飛ばす程強く光り輝く姿と全く同じように、己は照り輝いて深海の光を余さず奪い取る、海の月であったことに今更気付いた。


だがしかし、そこに現実感はなかった。己は己の持つ光芒を理解できない。永い間考えて、己の周囲に知らずと魚影が寄るのは、人が惹き付けられるのは、毒を持ちながらもあくまでも美しいその様相から成る働きなのだとそう結論には行き着いたが、だがしかし己が美しい、優れているという意識は芽吹きようもない。


【己は、美しいのかもしれない。】


それが、自覚の限度だった。己にとっての己は、ビニール袋だった。あの日見た美しい海の月とは比べようもない。濁った半透明の、鈍い動きの、幸運に流され貪るままの尾鰭を持たぬ愚かな海魚。


そのような生き物を美しいなどと言われても、慕われても、己はその相手との間に果てしない美的感覚の乖離を見出して眉を顰めるだけだった。ただひたすらに、そこには理解できぬ相反した感覚を持つ相手に対する、拒絶だけがあった。


勿論、「美しいのかもしれない」己を最大限に利用する努力はしよう。生まれ持った財産だ。それも傍から見れば誰からでもそう見えるというのだから、これを古い倉庫に葬って埃を被らせたまま死んでしまうというのは、あまりに勿体ないことだ。


けれどもやはり、美的感覚の乖離の意識は残った。己はあまりに歪だ。己の「美しいのかもしれない」容姿を利用して観賞魚のように人目を惹く度、己には強い嫌悪感があった。


こんな己の姿形を美しいと言う存在に、どうして共感し好意を抱くことができようか。


それは宛ら、珍味好きと珍味嫌いの果てしない理解の乖離であった。珍味嫌いは、珍味に施された調理工程の一つを取ってもそれを理解せず「そんなことはしない方が良い」と眉を顰める。それと同じように、己には「どうしてそのようなことを思えるのか」と相手の美的感覚に対する徹底的な軽蔑の念があった。


己は、己でない何かに成らなければならない。


そうでなければ徹底的な美的感覚の乖離からは逃れられない。そう思っても、己が己以外の何かへと姿を変えることは一度もなかった。


ゆらゆらと、漂っている。


己は或る組織の首領と成った。計画を組み、己の手で先代を殺し、その為に首領の座を手に入れた。己自身のの手で成したことだ。


だがしかし、己が己を心強く思うことはなかった。


己は未だに、ぷかぷかと浮かんで押し流されているだけのように思えた。


大概のことは、やろうと思えば上手く行く。生まれ持った星と己の容姿、己の器量。全てが己に味方をして、全ての物事を己の都合の良いように押し流した。恐らくそれは、世間一般に幸福なことだった。だがしかし、己には幸福であるという意識は持てなかった。


己自身ではない、何か強く、大きな力に連れられて己はただただゆらゆらと揺れ続けているだけだ。


己は成功者であったが、満ち足りていなかった。背負うものが増えたが、背中に重みはなかった。全てのことが他人事に流れた。


だからこそ、強い色彩に惹き付けられたのだ。


硬い岩肌に齧り付き、海流という大きく冷たい流れに逆らって生きようとする人間。何もかもが上手くいかず苦しみながらも、自分の足で進んで行こうと踠く愚かで矮小な存在。


その存在を認めて、胸がときめいた。


きっと彼が自分を好くことになれば、彼はきっと揺れ続ける己を止めようとするだろう。その時己はきっと、杭を打たれたようにその場から動かないことができる。己は直感的にそう思った。だから己は、そんな彼に愛されたいと強く願った。


どうか、退屈な日々から連れ出して欲しいのだ。


ゆらゆらと揺れる、揺れ続ける己を、海岸で乾涸びさせて欲しいのだ。


そう願って、己はその人間を海へと引き摺り込んだ。

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