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暗い部屋の中で少女は膝を抱えていた。
食事も取らず、誰とも話さず、ずっとずっとそうしていた。
王子の暗殺を企てたのは彼の弟だった。
正しくは、彼の弟を後援する貴族達。
傷付けるつもりはなかった、そう語った王子の弟は、護衛達の血を踏んでどこかへ去っていった。
本当に王子を殺すつもりまでは無かったのだろう、すぐに治療を受けられたことでかろうじて彼は生きている。
少女は最初、ただただ怖ろしかった。
だって王子の弟とは良い関係を築けていたと思っていたのだ。
二人が朗らかに会話する所も見ている。
裏にどのような事情があろうと、仲の良い兄弟だと思っていた。
次に、王子の傷が自分を庇った為だと気付くと、ゆっくりゆっくりと自分の手首を握り締めて、その痛みを、涙を浮かべながら味わった。侍女が必死になって止めてくれなければ、きっとへし折っていたことだろう。
ぐるぐると今日までの日々を思い返し、考え、甘かった己を責め続けた。
やがて、
「王子が、目を覚まされました」
顔をあげた。
※ ※ ※
まだ自分が生きていると知った時、王子は王や弟、その背後に居る貴族達を思って嘆息した。
「全く甘過ぎる。どうして僕を殺しておかなかったんだ」
王族同士の殺し合いなど、外部に喧伝出来る筈もない。
だが、王子が傷付けられたのは事実だ。
本丸である弟を断罪することは出来ずとも、実行犯、教唆した者、そういった弟の派閥を一掃する口実をこちらは得たことになる。
暗殺などという手段に及んだ以上、その日の内に王子派閥の者を焼き討ちし、問答無用で殲滅する。
そうでなければ、その程度の決断も出来なければ、この国の今後は暗いだろう。
さてどうやろうか、などと考えかけた所で、不意に馬鹿らしくなって止めた。
「はぁぁぁ…………」
背中の傷が痛くてすぐには動けそうに無い。
そんな、どうでも良い言い訳を浮かべたまま束の間の休息を味わう。
政治の事が頭から吹き飛んでいるなんてどれほどぶりだろうか。
感情に思考を左右されることがないよう、意識的に心を平たくする必要も無い。
心が向かうままに思い浮かべたのは、やはり少女のことだった。
彼女は無事だ。
矢は全て自分が受けた。
立場的にも山岳の民を怒らせないよう、丁重に扱われる筈だ。
咄嗟に庇うことが出来て良かったと思う。
彼女を助けられたこともそうだが、王子は、いざあのような場面に遭遇した時、いずれ王になる者の冷静な判断として、自分の身を守ることを優先する可能性をずっと考えてきた。
彼女を見捨て、自分は生き残り、そして……。
「ふふ」
助けられたのだ。
冷徹で、理解の出来ない化け物のように扱われ、自身でもそうだと思ってきた自分が、あんなにも感情的に彼女を守ることが出来た。
それが嬉しかった。
「王子」
部屋がノックされ、扉越しに少女の声が聞こえてきた。
見張りがついている筈だが、と思った所で、開かない扉に首を傾げた。
こちらはすぐにでも会いたいというのに、などと浮付いたことを平然と考える。
なにか柔らかくて重たいものが扉へ押し付けられ、爪で引っ掻いたような音が続く。
早く顔を見せてくれないかな。庇われたことを気に病んでいるのだろうか。ならば慰めの言葉を。あるいは迂闊さを叱ってみてもいい。とにかく、少女とじっくり時間を掛けて話がしたかった。
なのに、
「王子、私達の婚約を破棄しましょう」
どうして、と問い掛ける言葉すら出てこなかった。
無防備になっていた王子はただただ絶句し、次に慌て、傷も忘れて起き上がろうとし、寝台から転げ落ちてしまう。
同時に、これで少女が心配して入ってくるだろう、だなんて冷たい分析をしていたが、その扉が開くことは無かった。
向こう側に立つ少女は王子の思考を見透かしたように儚く笑い、淡々と告げてくる。
「私は西側に身売りするわ。そうすれば、山岳の民の多くは貴方に協力しなくなる。東側にはこれまでの支援分、借りがある。そして私が西側へ付けば、東への妨害になるから、少しは見方が変わる筈」
激痛に抗いながら身を起こすが、たった一歩の距離がどこまでも遠い。
「弱みを見せれば貸し借りなんて関係無く呑み込んで来るッ。東西それぞれを支配した巨大国家の傲慢さを君は理解していない……!!」
「そうね」
あっさりと認め、けれど次に出てきた言葉を、即座に王子は否定できなかった。
「私はもっと単純に、貴方の側に居たくないのよ」
僅かに喉を震わせて。
「優しかった人達が殺し合うのなんてみたくないのよ。西も東も、顔も知らない人々だって、家族や友人がいる筈でしょう? どうすれば効率良く彼らを殺し合わせられるか、なんて、本当は考えたくも無い。私は、本当は――――」
どうすれば皆を仲良くさせることが出来るか、共に考えて欲しかった。
王子を苦しませると察して呑み込んだ言葉を、彼は正しく理解した。
それでも、いい。
絨毯の上を這いながら、彼女の居る扉の向こうを目指して王子は行く。
ほんの僅かに身を捩るだけで激痛が奔った。
命を取り止めたとはいえ、背中の筋だけでなく内部にも負傷がある。
無様な王子を室内の見張りは冷たく見下ろしていた。
彼を諦めさせる、恰好の機会だと思っているのかもしれない。
痛みに耐え、呻きを堪え、ようやく扉へ辿り着く。
「王子、私達の――――」
「君は!!」
繋ぎ止める最後の想いをぶつけ、ノブを掴む。
回らない。
彼女が抑えているのだ。
悔しいけれど、ほんの僅かでも少女に触れられた気がして、嬉しかった。
扉に頭をぶつけ、懇願するように言う。
「君は、僕のことが嫌いになったのか」
ノブが揺れる。
吐息が聞こえた。
きっと今、同じ高さにある少女の瞳は、揺れている。
「言えないわ……」
ならばと王子は立ち上がった。
扉を開き、抱き締めて、本当の気持ちを問い質す。
けれどそんな彼の隣へ歩み寄った見張りが、冷たい槍を王子と扉の間に差し入れる。
「きゃっ、なにするのよ!?」
反対側でも同じことが起きたのか、少女の声を聞いて王子の頭が一瞬で沸騰した。
「貴様らッ! その子に触るなァ!!」
叫びと共に振り払おうとするが、また別の男が背後から膝裏へ蹴りを入れ、崩れた所を組み伏せる。
暴れるも二人掛かりの力を振り払うことが出来ず、背中から血が滲み出すのも構わず彼は叫んだ。
「僕はっ、必ず君に――――」
布を噛まされ、手足を抑え付けられ、身動き一つ取れないまま暴れ続けた王子がやがて意識を失うまで、見張り達は冷たく彼を見下ろしていた。
次に目を覚ました時、王子は少女が拘束されていた部屋から抜け出し、西側へ出奔したことを知る。
※ ※ ※
この後、数百年に渡って語り継がれる伝説があった。
大陸中央部で対峙を続けていた東西の膠着は、ある日一人の王の出現によって崩れ去ったのだという。
東側ではこれを東洋文明の偉大なる躍進として心躍る物語とし、西側ではおぞましき恐怖の化身が東からやってきたとし、子々孫々に語り継いた。
西洋文明の尽くを呑み込み、破壊し、血の川と共に歴史を編んだ数多くの書物すら焼き付くし、大王は暴れまわったと言われている。
何故大王はそこまでして西方大陸を荒らしまわったのか、多くの歴史家が憶測を重ねた。
曰く、東西の狭間で苦しめられ続けた恨みを晴らすべく。
曰く、苛烈極まる粛清によって内部に生じた軋轢を誤魔化すには、外へ外へと意識を向けさせるしかなかったのだと。
曰く、大王は象徴として利用されただけであり、東側各国がそれぞれの目的で以って進軍した結果、統一性の無い進軍に見えたのだと。
曰く、生涯を孤独に終えた大王には、たった一人だけ愛した女がいた。
大王は記録を残したがらなかった為に、行動の目的も、没した場所さえも正確な所は分からない。
草原の民の王、その象徴たる風に吹かれて飛ぶ三本の草、それが刻まれた墓が見付かるたびに歴史学者は沸き立ち、けれど落胆を続けてきた。
彼の墓とされるものの多くは破壊され、無残にも打ち捨てられていたのだ。
英雄として扱いながらも、東の国々でさえ彼を悼む者は少なかった。
怖ろしき大王。
誰も寄せ付けず、誰も寄り付かなかった彼は何を求めていたのか。
近頃、新たに発見された大王の墓で議論が巻き起こっている。
西の山奥、小さな村にひっそりと築かれたソレを、村民は寝物語に聞く大王のものとは知らずに扱ってきた。
墓には大王の紋章があり、彼の名が刻まれていた。
他の墓に比べれば質素なもので、共通点は紋章と名前くらいなもの。
ただ大王の名の下に、誰も今まで聞いた事の無かった女の名が刻まれていたのだ。
また、かつて村の近くには、小さな修道院があったのだという。