7.大団円
「思えば、君と夜に会うのは初めてだな」
「着飾って会うのも初めてです」
私とベネディクト様は、静かなテラスでそんなことをゆったりと話していた。
背後の大広間ではまだ夜会が続いているが、私たちに気を遣ってくれているのか、誰もこちらにはやってこない。というよりも、他の出席者たちは遠巻きにこちらの様子をうかがっているようだった。
ベネディクト様は目尻を下げて、柔らかく微笑む。今日このドレスを着てきて本当に良かったと、そう思えるような笑顔だった。できることなら、ずっとこの笑顔を見ていたい。
「そうだな。とても綺麗だ。もちろん、普段の君も可愛らしいが」
「ベネディクト様こそ、とてもご立派です。……どんな姿をされていても、素敵ですが」
お互いにそんな風に褒め合って、くすぐったさにふふと笑う。とても満たされた心地だ。今夜は、なんて素晴らしい夜なのだろう。
しかしベネディクト様は何か引っかかることがあるらしく、首をかしげて考えこみ始めた。
「……やはり君に様付けで呼ばれると、落ち着かないな」
「ですが、呼び捨てというわけにはまいりません」
何せ、彼は隣国の王族なのだ。そんな相手に、失礼があってはいけない。
「ううむ。だが、しかし……」
大きな体を丸めるようにして懸命に考え込んでいる彼を、微笑みながら眺める。彼のそんな仕草も、とても愛おしいものだった。その姿を、目に焼き付ける。
ベネディクト様はしばらくうなっていたが、やがてぱっと顔を上げた。
「ならば、二人の時は前と同じように『ベア』と呼んでくれないか。それなら呼び捨てでも、問題ないだろう」
彼はあくまでも真剣に、そんな提案をしているようだった。そんな彼に、私の微笑みが大きくなる。
「はい、分かりました。二人だけの秘密、ですね?」
そう尋ねると、彼も笑いながら大きくうなずいた。その笑顔に、また心が温かくなる。
けれど次の瞬間、とうとう私は気づいてしまった。さっきからずっと、必死に目を背け続けていた事実に。
こうして、無事に彼と再会することはできた。けれどこれから、またこんな風に彼に会うことができるとは到底思えない。彼は隣国の王族で、私は公爵家の行き遅れだ。どう考えても、立場が違い過ぎる。彼をベアと呼ぶことは、もうないのだろう。
そっと彼から顔をそらし、暗闇に隠れて唇を噛む。にじむ涙を見られないように。
突然黙り込んだりして、きっとベアは不審がっているに違いない。早く、当たり障りのない話題を探さなくては。今を逃したら、次に彼と話せる機会がいつになるか分からないのだから。この時間を、一瞬たりとも無駄にしたくない。
焦っているせいで余計に言葉が出なくなっている私の耳に、彼の静かな声がそっとすべり込んできた。
「ロビン、いやジーナ。君に、折り入って頼みがある」
はじかれたように、彼の方を見る。彼は姿勢を正し、こちらをまっすぐに見つめていた。
「その、君さえ良ければなのだが。……私のところに、来てはくれないか」
言葉の意味が分からずにぽかんとする私に、ベアは戸惑いながらさらに話しかけてきた。
「ああ、私が君のところに行ってもいい。私は王族といっても王位継承権はかなり後の方だから、その気になれば他国で暮らすことも可能だ」
「……あの、何のお話なのでしょう?」
何度彼の言葉を頭の中で繰り返しても、やっぱり訳が分からない。とうとうそう尋ねると、ベアは照れくさそうに視線を落とした。思いもかけない反応に、さらに謎が深まってしまった。
「やはり、はっきり言わねば通じないか」
ベアはゆっくりと深呼吸して、私をまっすぐに見つめた。いつになく真剣な黒い目に、思わず見とれる。
そして彼は、ひどくゆっくりと言葉を紡いだ。
「……ジーナ、私と婚約して欲しい」
唐突に告げられたとんでもない言葉に、驚きのあまり叫びそうになる。ぎりぎりのところで踏みとどまって、恐る恐る口を開く。
「あの……でも私、年増の行き遅れで」
「……君が過去にどんな目にあったか、そのことについては知っている。だが、それは私にとってささいなことでしかないのだ」
ベアが、私の過去を知っていた。次々と投げかけられる衝撃的な言葉に、混乱して何も言えない。
「以前、君が他の女性と森に来たことがあっただろう。実はあの時、私は君の名前を知ってしまったんだ」
確かにあの時、私とモニカは互いの名前を呼び合っていた。まさか、聞かれていただなんて。
「そうして私は、その名をたどって、君のことを調べてしまった。……互いのことをせんさくしないという約束になっていたのに、申し訳ない」
律儀に謝ってくるベアに、ふるふるとかぶりを振った。彼のしたことに驚きはあったが、嫌悪感はなかった。
「年齢など関係なく、君はとても魅力的な女性だ。君と離れてみて、そのことを嫌というほど実感した」
ベアが一歩、こちらに踏み出す。首をそらして、彼の目をまっすぐに見つめ続けた。
「二度も裏切られた君の心の傷は、想像するに余りある。もしかすると君は、男性のことを信じられなくなってしまっているのかもしれない。だがそれでも、私は君と共にありたいと、そう思ってしまった」
そう言うと、彼はすっとかがみこみ、そのままひざまずいた。彼はこちらを見上げながら、言葉を続けた。
「……私がこの国に滞在しているのは、政治的な理由があってのことだった。この国と私の国との結びつきを強くするために、この国の者を妻とせよ。私はそう命じられて、この国にやってきた」
まるで懺悔でもしているかのような面持ちで、彼は静かに語り出す。
「私はこちらで、たくさんの令嬢と会った。だがみな、私の地位しか見ていないように思われて仕方がなかった。王族という立場にこびを売られることに、うんざりしていたんだ」
何も言えずに立ち尽くす私の前で、ベアはゆっくりと顔を伏せた。
「疲れ果てた私はこちらの王家に頼み、一時的に別荘に滞在させてもらった。妻探しを、一時休むことにしたんだ」
ゆっくりうつむいて、彼は大きく息を吸った。こわばっていた彼の肩から、すっと力が抜けた。
「そうしてそこで、君に出会った」
彼の長い腕がひるがえり、私の右手をつかまえる。とても、優しく。
「君と話しているのは、この上なく楽しかった。けれど同時に、怖かった」
私の手を握る彼の手に、力がこもった。ほんのかすかな震えが伝わってくる。
「もし君が私の正体を知ってしまったら、君もまた態度を変えてしまうのではないか、そう思えてならなかった」
彼は私の手をおしいただくように、両手で包み込んだ。いつになくか細い声で、静かにつぶやいている。
「だから私は、最後まで君に真の名を教えることができなかった。……臆病者と、笑ってくれていい」
「笑いません。私だって、似たようなものでしたから。あなたが偽の名を名乗ろうと言った時、どれほどほっとしたことか」
「……そうか」
私たちは手を取り合ったまま、どちらからともなく微笑み合う。あの野原で幾度も感じた、心地の良い沈黙が流れた。
その沈黙に重ねるように、そっと言葉を吐く。
「……ベア。私、で……いいのですか?」
「君しかいない」
ベアは即答した。彼の黒い目には、いつにない決意の光がともっていた。
「あなたの申し出を、お受けいたします。ベア、いえベネディクト様」
これからは、ずっとベアと一緒にいられる。そんな喜びが、彼の手の温もりと共にじわじわと私の胸を満たしていった。
そうして今、私はベアの妻として、彼の居城で共に暮らしている。公にはベネディクトとジーナである私たちは、二人きりの時は今でもベアとロビンだった。
「おはよう、ロビン。今日もいい朝だな」
ざっと身づくろいをしただけの気楽な姿で、ベアが居間に顔を出す。一足先に起きていた私は、ソファに腰かけて手紙を読んでいた。
「おはようございます、ベア」
そんな他愛ないあいさつができる喜びを噛みしめながら、にっこりと笑いかけた。彼も同じように笑い返した後、私が手にしているものに目をやった。
「おや、それは手紙か?」
「ええ、ついさっき届いたんです。実家の両親から」
私は生まれ育った国を離れ、ベアの祖国で暮らしている。けれど両親とは時折、こうやって手紙をやり取りしていた。
王宮の夜会に出かけていった私が、とんでもない相手と婚約の約束をしてきたことに、両親は口がきけないほど驚いていた。けれどじきに衝撃から立ち直ると、二人は大喜びで祝福してくれた。
そんなことを思い出しながら、手紙の続きに目をやる。両親も弟も、元気にしているようだった。しかし和やかだった手紙の文面は、次第に雲行きが怪しくなっていった。
私の最初の婚約者を奪い取った妹は、今夫婦関係で悩んでいるらしい。
相変わらず見事な美男子である彼女の夫には、今もなおよその女たちがわらわらと寄ってきているらしい。彼が既婚者であることなど、お構いなしに。しかも夫の方も彼女たちのことを憎からず思っているようで、妹は心休まる暇もないのだとか。この分だと遠からず、隠し子の一人や二人できてもおかしくないような状況らしい。
末の妹は、両親によって修道院に入れられていた。
どうも彼女は、私の婚約者にちょっかいをかけたことを、まるで反省していなかったらしい。そしてそのお相手である私の元婚約者も、実家を叩き出されていた。現在彼は親戚のところに居候して、肩身を小さくして過ごしているのだそうだ。二人とも、実家に戻れる見込みは今のところないと両親は断言していた。
そして手紙の最後に、もう一枚紙が挟まっていた。他の紙と異なる筆跡のそれを読み進め、ついうっかりぷっと吹き出す。
「どうしたんだ、ロビン。そんなにおかしかったのか、その手紙は」
「……ええ。ある意味この一枚は、あなた宛てかもしれません。どうぞ」
笑いをこらえながら、最後の一枚をベアに差し出す。彼は首をかしげながらそれを受け取り、目を通した。そうしてすぐに、肩を震わせ始めた。
彼が読んだ手紙には、こんなことが書かれていた。
『ねえ、ベネディクト様には未婚の親戚とか、いたりするんじゃないの? 私とあなたの仲でしょう、誰か紹介してよ』
その一枚は、モニカからのものだった。あの夜会で私たちが婚約したことで、彼女はすっかり態度が変わってしまった。婚約の話が山のように来て困るのだと余裕の表情で語っていた彼女は、血相を変えて婚約者をより好みするようになったのだ。
行き遅れのジーナがあんな相手をつかまえたんだから、私だって。両親が以前こっそりと教えてくれたところによると、彼女はそんなことをしきりに口にしていたらしい。
だがそうやってもたもたしているうちに、彼女も二十歳になってしまった。とたんに縁談がぱたりと止んで、今彼女は大いに焦っているようだった。
「あいにくと、紹介できるような親戚はいないな。彼女には、そう返事をしてくれ。なんなら、私が直接返事をしてもいいが」
必死に笑いを噛み殺しながら、ベアがモニカの手紙を返してくる。それを受け取り、他の紙と一緒に封筒に戻す。
「いえ、私の方から返事をしておきます。できる限り、あなたを彼女に近づけたくないんです」
「おや、私はそんなに信用がないのかな?」
冗談めかして尋ねるベアに、にっこりと笑って小首をかしげてみせた。
「いえ、単に癖になっているんです。大切なものを、他の人に触られないように隠しておくのが」
「つまり私も、大切なものだということか。嬉しい話だな」
「あなたは一番大切です。あなたのことだけは絶対に誰にも譲りませんし、あきらめません」
そんな言葉を口にできる喜びを噛みしめながら、机の上に置いた手紙に目をやる。
「……私が今の幸せを手にできたのは、奇跡だったのかもしれません。二回の裏切りの果てに、あなたに出会えたのですから」
ベアがすぐ隣に腰を下ろし、私の肩を抱き寄せた。
「奇遇だな。私も、同じことを考えていた。私が妻選びに疲れ果てていなかったら、きっと君に出会うこともなかっただろうと」
「そうだったんですか?」
「ああ。私は毎日、この奇跡を噛みしめ続けているんだ」
ふかふかのソファの上で、肩を寄せ合いながら語り合う。あの小さな野原で、いつもそうしていたように。
「たまたまあの日、あの森の奥で君と出会った。女性にはうんざりしていた筈の私が、なぜか君に興味を持った。君と話したいと思った」
穏やかな日の光のような彼の声に、あの時の記憶がよみがえっていく。ふらふらと屋敷を出て、足のおもむくままあの野原にたどり着いて。転びそうになって、熊に助けられて。
「君と親しくなれたのに、私は君に真実を打ち明けることができなかった。あの約束をするのが精一杯だった」
「いいんです。あの約束のおかげで、私は頑張ってこられたんです。人一倍引っ込み思案な私が、あんな大きな夜会にためらうことなく顔を出せたのは、あの約束があったから」
「……そうか」
「私、生まれて初めて自分から動くことができたんです。もう一度あなたと会いたい、私の頭には、そのことしかありませんでした。……もしかしたら、私はあの時既に、あなたに惹かれていたのかもしれません」
「きっと、そうだろう。……そうであればいいと、心から思う。私も、そうだったのだから」
照れくさそうな声で、ベアがつぶやく。彼は大きくてがっしりした頼もしい体格とは裏腹に、かなりの照れ屋だ。
「そんな私たちが、あの夜会で再会することができた。私を呼ぶ君の声を聞いた時、夢ではないかと思った」
「あの時、私はもうあきらめかけていたんです。今日もまた駄目だった、と。そんなところにいきなりあなたが現れて……気がついたら、あなたのことを呼んでいました」
「そうだったのか。けれど、私の心を決めさせたのは、君のあの声だった」
ベアが恥ずかしそうに顔をそらし、小声でつぶやく。
「もう君と離れたくない、どんな手を使ってでも引き留めよう、と。思えば、あの時の私は完全に余裕をなくしていたな」
「いきなり求婚された時は、私、驚きすぎて気絶するかと思いました」
「済まない。だが、それだけ必死だったんだ」
大きな体を小さく丸めて、ベアが謝罪する。そうしていると、本当に大きな熊みたいだ。絵本に出てきた、優しい熊さん。
部屋の中に、沈黙が満ちる。くすぐったくて心地良い沈黙にひたっているうちに、自然と言葉が口をついて出た。
「こんな幸せを手にできるなんて、思いもしませんでした」
目を閉じて、ベアの肩に寄りかかる。力を抜いて、体重を彼に預けた。
「その幸せは、君が自分の手でつかみ取ったものだ。君が頑張ったから、私たちはまた出会うことができた」
「そして、あなたが私を引き留めてくれた。だから、二人でつかんだ幸せです」
すかさずそう答えると、ベアが笑った。触れ合った肩から、腕から、心地良い振動が伝わってくる。
「そうだな。……ああ、今日も見事な空だ」
しみじみと、そしてとても幸福そうな声で、彼がつぶやく。ゆっくりと目を開けると、窓の外には、一面の青空が広がっていた。
いつか彼と見たのと同じ、吸い込まれそうなほど青い、美しい空だった。
ここで完結です。お付き合いいただき、ありがとうございました。
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