5.転機
それからも私たちは、毎日のように会い続けていた。初めて会った日、まだ冬の名残の冷たさを残していた春の風は、今ではもう濃い緑の香りを含んだ夏の風に変わっていた。
彼との日々は、とても幸せだった。いつしか私は二十歳になっていたけれど、そのことも気にならなかった。
私はなおも、時折名を告げたいという衝動を感じていた。けれどそのたびに、自分に言い聞かせた。うかつなことをして、この幸せが壊れてしまったらどうするの、と。
そうやって引き延ばしたところで、いつまでもこの幸せが続く訳ではない。いつかきっと、終わりはやってくる。そのことに目を背けながら、私は毎日野原へと通い続けた。
「私がここに来るのは、今日が最後になるだろう」
ある日、顔を合わせるなりベアがそう言った。目の前が真っ暗になり、胸がずきりと痛む。震える唇で、必死に言葉を紡ぐ。
「どうして、なのですか」
もしかすると、私と会うのが嫌になったのだろうか。そんな恐怖に、体が震える。ベアはそんな私に優しく笑いかけ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「できることなら私も、もっと君と話していたかった。だが、そうもいかなくなったのだ。今暮らしている屋敷を、離れることになった」
その言葉は私の恐怖を和らげてはくれたが、胸を突き刺す痛みはひどくなるばかりだった。
「……済まない、これ以上は説明できない。君も気づいているように、私は自分の正体について、隠したいと思っている。そしてそれは、今でも変わらない」
申し訳なさそうな、それでいてどこか私を拒絶しているような声音にひるんでしまう。けれど、どうしても聞かずにはいられなかった。
「これで最後だというのなら……せめて、名前だけでも教えていただけませんか。私は」
「それ以上はいけない」
私が名乗ろうとした気配を察したのか、ベアがすぐさま言葉を重ねた。
「私はベアで、君はロビン。私たちはこの野原で語り合った、熊と小鳥。そうだろう?」
「でも、私は……」
彼の言う通りなのだと思いながらも、納得できていない自分がいた。毎日、私は彼に会うことだけを楽しみに生きてきた。彼がいなくなったら、明日からは何にすがっていけばいいのだろうか。
そんな思いが顔に出てしまっていたらしく、ベアが困ったように笑った。
「……ならば、一つだけ約束をしようか。私としても、君とこのまま離れ離れになってしまうのは寂しいと、そう思うから」
大きな体をかがめて、ベアが顔を寄せてくる。そうして彼は、そっと私の手を取った。こんな風に彼の手に触れるのは初めてで、驚きと恥ずかしさに顔が熱くなる。
「もしも次に私たちが出会えたなら、その時は本当の名を明かそう」
彼は私の小指と自分の小指をからめ、ゆっくりとささやく。彼の手はとても大きくて、私の手と並ぶとまるで親子のように見えてしまう。
「……はい。きっとまた会えると、そう信じています。きっと、素敵な名前なのでしょうね」
精一杯強がってみたけれど、やはり駄目だった。どうしてもこらえきれなかった涙が一粒、ころりと頬を転げ落ちていった。
「……泣かないでくれ、ロビン。君に泣かれると、どうしていいか分からない」
人一倍大きな体をかがめたまま途方に暮れている彼が可愛らしく思えてしまって、小さく微笑んだ。つられたように、ベアも眉を下げたまま笑う。
大木の枝が、まばゆい夏の日差しを遮っている。その影の中、私たちはじっと見つめ合っていた。どこかで小鳥がさえずっているのが、やけにはっきりと聞こえていた。
そうして、私は野原に通わなくなった。一度だけ足を運んでみたけれど、やはりベアはもうそこにはいなかった。
その代わりとばかりに、私はひたすらに考えた。これまでのことと、これからのことを。
二度の婚約破棄の間、私は黙って耐えているだけだった。婚約者に詰め寄ることも、妹たちを問いただすこともしなかった。ただ私は部屋に引きこもって、うずくまるだけだった。
屋敷を出て森に足を運んだのだって、モニカの残り香から逃げようとしただけだ。そうしてそこでベアに出会い、今度は彼に癒されていただけだった。
ずっと彼の力になりたいと思いながら、怖がって一歩も踏み出さずじまいだった。きっともっと、私にできることがあった筈なのに。
思えば、私は一度たりとも自分から動いたことはなかった。ただ逃げ隠れして、泣きべそをかいて甘えているだけだった。
改めて、自分の弱さにあきれかえる。よくもまあ、ベアはこんな私に飽きもせず付き合ってくれたものだ。
そうして決意する。もう一度、彼に会う。その時をただ待っているのではなく、彼に会うために行動を起こす。ただ待っているだけの自分とは、ここでお別れだ。
両手で頬を軽くはたき、気合を入れる。ベアについて知っていることをまとめてみよう。それが、何かの手がかりになるかもしれない。
彼は間違いなく、貴族階級に属する者だ。あの身なりと物腰からすると、それもかなり上位の。
ならば、私にも探し出せるかもしれない。私はこれでも公爵令嬢、貴族の中ではほぼ最上位の家のものなのだから。
ほんの少しだけ、気分が上向きになる。けれどそんな高揚した気持ちは、すぐにしぼんでしまった。
具体的にどうすればいいのかが、まったく思いつかない。まさか、よその家を一軒一軒訪ねて回る訳にもいかないだろうし。困り果てていたその時、戸惑い顔の両親が姿を現した。
「ジーナ、ちょっと話があるのだが……」
「その、そろそろ縁談はどうかしらと思って……」
私と同じくらいに気の弱い両親は、妙に腰が引けた様子でそんなことを言っている。
即座に断ろうと思った。今の私には、ベアを探し出すこと以外何も考えられなかった。けれど私が口を開くより先に、お父様が言葉を続けてくる。
「その、お相手はとても良い人でね、とても体格が良くて」
「それは男らしい方なのよ。以前に一度、あなたのことをお茶会で見かけていたみたいで」
二人の言葉に、思わず立ちすくんだ。体格の良い男性、その言葉にベアのことを思い出してしまったから。
恐る恐る、相手について尋ねてみる。両親はまだ戸惑いながらも、詳しく説明してくれた。
縁談の相手は、ベアではなかった。髪も目の色も全く違う。けれど、この話を聞いてひらめいたことがあった。
ベアは私とそう年が変わらない。ならば、若い貴族の男女が集まる場に顔を出すかもしれない。引っ込み思案の私が今までほとんど出ていなかった、交流のためのお茶会や舞踏会、そういった場に。
もしかしたら、彼には既に妻がいるのかもしれない。そう考えたとたん胸がちくりと痛んだが、それでも彼にもう一度会いたいという気持ちに変わりはなかった。
この時ようやく、なすべきことが見つかったように思えた。あちこちのお茶会や舞踏会に片っ端から顔を出して、ベアを探す。それしかない。
両親が持ってきた縁談の話は、もうすっかり頭にはなかった。
それから私は、以前とは打って変わって精力的に動き回り始めた。綺麗にめかしこんで、あちこちのお茶会や舞踏会に出席して回るようになったのだ。
二十歳過ぎても結婚できなかった女が、焦って相手を探している。そんな風に口さがなく噂する者もいたが、一向に構わなかった。
それよりも面倒だったのは、気まぐれに私を口説いてくる男性たちの方だった。行き遅れの君をもらってやってもいいんだよ、と言わんばかりの偉そうな態度でちょっかいをかけてくるのだ。
彼らはベアの半分も魅力的ではなかったし、なにより大いに失礼だ。そんな彼らをはねつけているうちに、私にも多少なりとも度胸がついてきた。嫌なものを嫌だと言うことに慣れてきた、というのが正しいかもしれない。
夏が終わり、秋になってもまだ、私はベアを探し続けていた。けれど彼に出会うことはおろか、彼らしき人物の噂すらつかむことはできなかった。
両親は私の様子に何かを察したのか、もう縁談を持ってくることはなかった。というより、もうまともな縁談は残っていないようだった。
そんなある日、優越感にまみれた笑みを浮かべてモニカがやってきた。
「ジーナ、最近あなたすっかり社交的になったみたいね。……いい年して独り身だから、さすがに焦ってるの?」
「そうかもしれないわね」
一切の感情をこめずにそう答える。そんな私のつれない態度を、モニカはこれっぽっちも気にしていないようだった。優雅に笑ったまま、けろりと言い放つ。
「私も十九だし、そろそろ身を固めなさいって親がうるさいのよ。毎日のように縁談が舞い込んできて、断るのも大変」
どうやら彼女は自慢話をしにきたらしい。適当にあいづちを打ちながら聞き流していた私の耳に、ある言葉が引っ掛かった。
「今度王宮で開かれる夜会に、どうやらさる高貴なお方が顔を出されるらしいの。しかも、若くて独身の男性なんですって」
モニカの目はきらきらと輝いている。彼女は私の従妹ではあるが、彼女の家は分家ということもあってそこまで立場が強くない。上昇志向の強い彼女にとって、独身の高貴なお方というのは絶好の獲物なのだろう。
「それでね、あなたのところにその夜会の招待状が来てないかって、そう思ったのだけれど」
なるほど、彼女の考えが読めた。確かに、その招待状は私のところに届いている。そして、彼女のところには届かなかったのだろう。だから彼女は私の付き添いとして、その夜会にもぐり込もうとしているのだ。
「ええ、来ているわ。良ければあなたも一緒に来る?」
先回りしてそう答えると、モニカは一瞬驚いた顔をした。
モニカは怒らせると後々面倒だ。ここで彼女の願いをあっさりはねつけるのは得策ではない。それに、ちょっと断ったくらいで引き下がる彼女ではない。どうせ私が承諾するまで粘るのだろうから、さっさと片を付けて帰ってもらうに越したことはない。
そして私の胸には、以前はなかった不思議な自信が生まれていた。もしモニカがベアと出会ってしまっても、大丈夫だと。どうしてこんな風に思えるようになったのかは分からない。ただ、これはまぎれもない本心だった。
「あら、そう? だったらお言葉に甘えてしまおうかしら」
大はしゃぎでそう答えると、モニカはあっという間に部屋を出て行った。相変わらず強烈な彼女の残り香が、開けっ放しの窓から吹きこむ風に散らされていく。
今度こそ、ベアが見つかりますように。もう何度目になるのか覚えていない祈りを、そっと捧げた。