4.安らぎ
「たった一日会わなかっただけなのに、まるで何日も顔を合わせていなかったような心地だな」
モニカが森に立ち入った次の日の昼、大急ぎで野原に駆けていくと、そこではベアがいつも通りに微笑んでいた。そのことに、ほっと胸をなでおろす。
「はい、私もお会いしたかったです」
「……昨日は災難だったな、お互いに」
思わぬ言葉に目を見張る私に、彼はいたずらっぽく片目をつぶってみせる。
「実は、昨日も私はここに来ていたのだ。この木の裏で君を待っていたところ、君ともう一人、知らない女性の声がした」
彼はそう言いながら、野原の真ん中に生えている大木に手を触れた。彼はとても大柄だけれど、この木はもっと大きい。確かにこの木であれば、彼であっても簡単に隠れられるだろう。
「私はあまり他人とは会いたくなかったし、君も連れの女性と私を会わせたくないようだったから、静かにこの場を立ち去ったのだ。彼女は見つけられなかったようだが、この野原から出る道は他にもあるからな」
「そうだったのですか。……良かった」
思わずそんなことを口走ってしまって、あわてて手で口を押さえる。ベアはそんな私を見て、おかしそうに笑っていた。一日ぶりに聞く彼の軽やかな笑い声に、胸が温かくなる。そっと胸を押さえて、彼に笑い返す。
その時、ふとあることが引っ掛かった。少しだけためらってから、また口を開いた。
「あの、他人と会いたくないというのなら、どうしてあなたはこうして私と会ってくれるのでしょうか。そもそも、どうして私の前に姿を?」
「ああ、そのことか。君が初めてここに来た時、私はこっそりと立ち去るつもりだったのだ。ところが君が転びそうになったので、つい飛び出してしまった」
実は、少しだけ期待してしまった。彼は私に、声をかけたいと思ってくれたのではないかと。しかし実際のところ、私たちの出会いは単なる偶然の産物だったようだった。そのことに、つい肩を落とす。
「しかしじきに、君に興味が湧いた。熊と間違えられたことがおかしかったのもあるが、妙に打ちひしがれていたように見えたのが気になったのだ」
「それは、その」
「言わなくていい、ロビン。互いの事情についてはせんさくしない。それが私たちの暗黙の了解だ。そうだろう?」
そう語る彼の目には、かすかな陰が宿っていた。彼もまた、何か知られたくない事情があるのだということを、その目はありありと物語っていた。
「はい、そうですね」
だから私も、にっこりと笑って答えた。彼のおかげで、私はようやく前向きになれた。婚約者に、末妹に裏切られた悲しみにどっぷりと浸っているだけの日々から、抜け出すことができた。全部、ベアのおかげだ。
彼がいったいどんな事情を抱えているかは分からない。けれど彼は、私との時間を楽しんでくれているようだった。ならばこうして語り合うことで、私も彼の気持ちを軽くすることができるかもしれない。
そんな思いを込めて、もう一度微笑みかける。返ってきたのは、ひときわ優しい笑顔だった。その黒い瞳に吸い込まれそうな感覚に、心臓がとくんと大きく跳ねた。
それからいつものようにたくさん話をして、二人で満足げに息を吐く。その後にやってきた沈黙ですら、とても心地の良いものだった。
ベアもきっと同じように感じてくれているのだろう、彼の凛々しい顔には大きな笑みが浮かんでいた。
と、彼がふと何かに気づいたように黒い目を見張り、上を見る。つられてそちらを見やると、大木の枝と、豊かに茂る若葉が目に入った。その隙間から、青い空の色がちらちらとのぞいている。
彼はまっすぐ上を見つめたまま、楽しげに笑った。思わず見とれそうな、見事な笑みだった。
「いいことを思いついた。こちらに来てくれ」
そう言うとベアは立ち上がり、少し離れた明るい草地に歩いていった。そして草地に腰を下ろすと、傍らの地面を手でぽんぽんと叩いている。どうやら、こちらに座れということらしい。
彼が何を考えているのか分からなかったが、ひとまずそちらに向かう。私が腰を下ろしたのを見届けると、ベアはいきなりその場に寝ころんだ。彼の大きな体を、若緑の草が柔らかく受け止める。
「ああ、やっぱり思った通りだった。ロビン、君も寝転がってみるといい」
子供のように無邪気に笑いながら、彼はそんなことを言っている。当然ながらためらう私に、彼はさらに呼びかけてきた。
「ここでは誰も見ていない。少々はしたない振る舞いをしても、とがめる者はいない」
その言葉に後押しされるように、おっかなびっくり身を横たえる。そうして彼と同じように、仰向けに転がった。
次の瞬間、一面の青空が目に飛び込んでくる。
「今日はよく晴れているからな。きっと、見事な空が見られると思ったのだ」
「……本当に、素敵ですね」
こうやって眺めると、空は驚くほど青くて高かった。隣からはベアの笑い声が聞こえてくる。
わき上がる幸福感に、ついくすくすと笑ってしまった。それを聞いたベアが、大きく息を吐いた。
「……君はすっかり元気になったな。いいことだ」
「あなたが教えてくれたことを、ひとつずつ実践してみただけです。私が元気になれたのは、全部ベアのおかげです」
それに、と心の中で付け加える。彼と話しているこの時間は、私の心の傷を癒してくれる。彼そのものが、私にとってはなによりの薬なのだ。
「そうか、君の力になれたようで良かった」
しみじみと、ベアがつぶやく。その穏やかな声を聞いていると、胸がぎゅっと苦しくなった。
あとどれだけ、私たちはこうしていられるのだろう。こうやって彼と会っているのはとても楽しい。けれど近頃の私は、これだけでは足りないと感じるようになってしまっていた。
私の本当の名を、彼に告げたい。彼の名を、知りたい。そう思うようになってしまっていたのだ。
自分の事情を知られるのは、もう恐ろしくなかった。だって彼は、そんなことを気にするような狭量な人間ではない。断言してもいい。
けれど今でもなお、彼は何かを隠したままのようだった。わざわざ偽名を名乗ってまで、隠したいと思うような何かが。
その何かをあばいてしまえば、私たちはきっと今までのままではいられない。この幸せが、壊れてしまうかもしれない。そう思うと、何も言い出せなかった。
ため息を押し殺しながら、隣に寝転ぶ彼の横顔をこっそりと見つめる。初めて会った時から何も変わらない、穏やかで頼れる優しい笑顔。
「……私も、いつかあなたの力になりたいです」
口の中だけでつぶやいた言葉が聞こえた筈もないのに、ベアの笑みが深くなったような気がした。
私たちはそのまま、黙って空を見上げ続けていた。