3.波乱
私が帰路についたのは、もう日が傾き始めた後だった。暗くなる前には屋敷に戻らなくてはならない。それは分かっていたけれど、それでももう少しだけ、あと少しだけ、ベアと話していたかったのだ。
それくらい、彼との時間は楽しかった。今朝方まで打ちひしがれて引きこもっていたことすら、きれいに忘れてしまいそうになるくらい。
帰らないと、でも帰りたくない。私がそんな思いの間で揺れているのを察したのか、ベアは苦笑してこう言った。
「君さえ良ければ、明日の午後またここで会わないか」
思ってもみなかった申し出に、すぐさま首を大きく縦に振った。彼とまた会えると思ったら、不思議と心が軽くなった。
きっとそれは、彼が私の正体を知らないからだろう。私の過去と現状を知ることなく、ただここにいる私だけをまっすぐに見てくれる人。その存在は、私にとってとてもありがたいものだったのだ。
「そうか。それではまた会おう、ロビン。送ってやれなくて済まないが、気をつけて帰るのだぞ」
「はい。ベアこそ、気をつけて」
そんな言葉を交わして、小さな野原を後にする。森に入る前に一度だけ振り返ると、ベアが小さく手を振ってくれた。彼の栗色の髪は、夕日を受けて優しい橙色に染まっていた。
それから私は、毎日のようにあの野原に向かうようになっていた。ベアと話す時間は、私にとって何よりの楽しみになっていたのだ。
彼に会うのが待ち遠しくて、毎日早起きするようになった。森の奥までせっせと往復し続けたおかげか、きちんとお腹がすくようになった。
見た目にも気を遣うようになった。髪をきちんととかし、お気に入りの服をきっちりと身に着ける。出かける前に鏡の前でくるりと回り、おかしなところがないか確認する。
思えば、ベアに初めて会った時の私の姿はひどいものだった。髪も肌もぼろぼろで、服も適当なものだった。あれでは、どこかが悪いのではないかと、彼がそう心配するのも当然だろう。
ならばせめてこれからは、元気でちゃんとした姿を彼に見てもらいたい。そう思うようになったのだ。
見る見るうちに変わっていく私を、両親はやはり扱いかねているようだった。私が本当に立ち直ったのか、それとも立ち直ったふりをしているのか。立ち直ったとしたら、きっかけは何だったのか。きっと両親の頭の中には、様々な疑問が渦巻いているのだろう。
けれど私は、それについて説明する気にはなれなかった。ベアは細心の注意を払って、自分の正体を隠そうとしているように思えた。だからたとえ両親相手であっても、彼のことを話してはいけない。そんな気がしたのだ。
今日も今日とて素知らぬ顔で昼食を終え、ベアが待つ野原に向かおうと屋敷を出る。そのとたん、一番近づきたくない相手がひょっこりと顔を出してきた。いつぞやと同じ、きつい香水の匂いと共に。
「はあい、ジーナ。お元気そうね?」
私を見る彼女の目には驚きと、そして何やら探るような色が浮かんでいる。どうやら彼女も、私が急に元気になったことをいぶかしんでいるらしい。
「モニカ! ……どうしたの、急に」
「最近あなたがやたらと森に出かけているって聞いたから、様子を見に来たのよ。あんなところに、何か面白いものでもあるの?」
「いいえ。ただ、毎日散歩しているだけよ」
ベアのことを隠そうと、とっさにそんな嘘をつく。けれどモニカは、さらに食い下がってきた。
「そうなの? せっかくだから、私も連れて行ってちょうだい。いつもこれくらいの時間に出かけているんでしょう? 伯父様たちから聞いたわ」
どうやら彼女は、何がなんでも私についてくるつもりらしい。まさか彼女を連れて彼のもとに向かう訳にもいかないし、今日は適当なところを案内して、お茶を濁すしかない。
モニカはいつも、私の大切なものを奪っていく。今日彼女に持っていかれたのは、ベアとの楽しいお喋りの時間だ。
落ち込む気持ちをさとられないように気をつけながら、しぶしぶモニカと森に向かう。しばらくはずっと一本道で、最初の分かれ道を右に行くと、あの野原へ出る。
分かれ道をまっすぐに進みながら、一瞬だけちらりと右の道に目を向ける。モニカさえいなければ、ためらいなくこっちの道を選べたのに。
目ざといことに、モニカは私のそんな一瞬の動きを見逃さなかったらしい。赤い唇をにんまりと笑いの形につり上げて、分かれ道で立ち止まった。
「あら、こんなところにも道があるのね。この先に、何かあるのかしら。ちょっと行ってみましょう」
どうやらモニカは、私が隠し事をしていることに気づいていたらしい。彼女はわざとらしくそんなことを言いながら、ためらうことなく右の道を進んでいった。
このままではモニカがベアに出会ってしまう。そう思ったとたん、背筋がすっと冷えた。
モニカはぶしつけで高慢だが、男性の受けは素晴らしく良い。華やかな美貌とたくみな話術のとりこになった男性の数は、片手では数えきれないくらいだ。
そしてモニカも、もうすぐ十九。彼女はこのところ本腰を入れて結婚相手を探し始めているらしい。めぼしい男性には、もう一通り声をかけ終わっているとかなんとか、恐ろしい話を聞いた覚えがある。もしかしたらモニカは、ベアにもちょっかいをかけようとするかもしれない。
ベアは自分をしっかりと持った男性だ。モニカの色香にひっかかるような人物だとは思わない。彼を信じなくては。そう自分に言い聞かせて、ふと気づく。
最初の婚約の時も、二回目の婚約の時も、私は婚約者のことを信じ切っていた。そうして二回とも、見事に裏切られた。だったらもう一度、同じことがあってもおかしくはない。ベアをあの婚約者たちと同列に並べて考えたくはないが、万が一ということもあるかもしれないのだ。
そう考えた時、胸がずきりと痛んだ。絶対に、モニカをベアに会わせたくない。ベアまで取られたくない。
何か、口実を探さなくては。モニカを引き留め、引き返させるための言い訳を。そう思うのに、焦りからか頭が空回りしてちっとも言葉が出てこない。
軽やかな足取りで進むモニカの向こう、森の木々が途切れた先に、明るい野原とあの大木がちらちらと見え始めていた。もう時間がない。
「待って、モニカ」
必死に呼びかけると、モニカはゆっくりと振り返った。その顔には、どことなく後ろ暗い喜びのようなものが浮かんでいた。
「どうしたの、ジーナ。ずいぶんと急に。切羽詰まった様子だけど、何かあったの?」
「その、私……急にお腹が痛くなってしまったの。屋敷に戻りたいから、手を引いてもらえないかしら」
我ながら苦しい言い訳だ。私が彼女を引き留めようとしているのに気づいたのか、モニカがやけに残忍に笑う。
「そうなの? だったら、この先で休みましょう。あちらは開けているようだし、日なたで座って休めば調子も良くなるわ」
白々しい声でそう言うと、彼女はまた先に進み出す。震える膝を叱りつけ、彼女の後を追いかけた。
「あら、素敵な草原ね。ここで行き止まりみたいだけど……何もないわね」
どこか拍子抜けしたように、モニカがつぶやく。彼女の背中越しに、森に囲まれた小さな野原と、その中央に立つ大木だけが見えていた。
ベアの姿は、どこにもなかった。