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2.出会い

 モニカの残り香が部屋に満ちていて、気分が悪かった。空気を入れ替えようと窓に近づき、そろそろとカーテンを開ける。


 久しぶりに目にした太陽の光は、涙が出そうなくらいに優しく訴えかけてくる。窓を開けると、さわやかな初春の風が吹き込んでくる。いつの間にか、外はずいぶんと暖かくなっていた。


「……外、出てみましょうか」


 そんな言葉が、ひとりでに唇からこぼれ落ちる。適当な服に着替えて、ふらふらと部屋からさまよい出た。


 両親や使用人たちに見つからないように気をつけながら、足のおもむくままに歩き続ける。屋敷の裏口から外へ、そのまま近くの森へ。


 この辺りには貴族の屋敷がいくつもあり、この森はその貴族たちが散策できるように手が入れられているのだ。だから、こうして一人で歩いていても危険はない。


 できるだけ屋敷から離れたい、人のいるところから離れたい。そんな気持ちに突き動かされるように、森の奥へ進んでいった。


 しばらく進んでいるうちに、森に囲まれた小さな野原に出た。真ん中に一本だけ、大きな木が生えている。


 森の中の隠れ家みたいだと、そんなことを思った。まっすぐに木に近づいていき、盛り上がった木の根に腰を下ろした。


 まばらな木の葉の間から、温かな日の光が降り注いでくる。それを全身で受けているのは、とても心地良い感覚だった。


 目を閉じて、ゆっくりと深呼吸する。土と若葉の香りを胸いっぱいに吸い込んでいると、重たくて苦しいものに満たされていた胸が、少しずつ軽くなっていくように思えた。




 そうしているうちに、どうやらうとうとしてしまっていたらしい。茂みが揺れるがさがさという音で、ふと我に返った。


 誰か来てしまったのだろうか。見つかる前にここを立ち去ってしまおう。そう思って立ち上がったその時、あわてていたせいで木の根に足を取られてよろめいた。


「きゃっ……あら、痛くない?」


 木の幹にぶつかるか、あるいは地面に倒れこむか。思わずぎゅっと目をつぶったが、予想していた痛みや衝撃はやってこなかった。


 きょとんとしたその時、お腹の辺りに何かが触れていることに気がついた。固くて温かい。それにすぐ後ろから、何かの気配がする。気をつけながら地面を踏みしめて体勢を整え、そっと振り返る。


 黒くて大きな影が、私のすぐ後ろに立っていた。


「えっ、熊!?」


「さすがに、熊と言われたのは初めてだな」


 熊が喋った。ではなく、それはとても大柄な男性だった。逆光になっていたせいで、見間違えてしまったのだ。


 そうしてもう一つ気がついた。さっき私が転ばずに済んだのは、この男性のおかげだったのだ。彼はとっさに、私の腰を抱えるようにして支えてくれたのだ。


 恩人を熊呼ばわりしてしまうなんて。思わず赤面しながら、あわてて頭を下げる。


「申し訳ありません、見間違えてしまいました」


 そう言ってから、これでは余計に失礼だったかもしれないとさらに焦る。


「熊と見まごうほど立派な体格だったということか。褒め言葉と受け取っておこう」


 私の無礼など気にも留めていないといった様子で、男性は明るく笑った。初夏の日差しを思わせる、さわやかで軽やかな、それでいて深い響きを備えた声だった。


 その頃には目も慣れてきて、彼の姿がはっきりと見えるようになっていた。とても背が高く、たいそうがっしりした若い男性だ。少し癖のある栗毛を、丁寧に整えている。私より、少しだけ年上だろう。


 高いところにある顔はとても柔和で、目尻の下がった黒い目が優しくこちらを見つめている。子供の頃に読んだ絵本に出てくる、心優しい熊を思わせる姿だった。


 身にまとっているものは、比較的簡素だが上質な略装だ。おそらく、この周辺の屋敷のどれかに住んでいる貴族か、その親戚、あるいは友人といったところだろうか。


 ぼんやりとそんなことを考えていると、彼は私の腰を支えていた腕をそっと外し、一礼した。


「ここは私のお気に入りなのだ。めったに人が来ないからな。先客がいるとは思わなかった」


「あっ、いえ、森を歩いていたらたまたまここに来てしまっただけです。すぐに立ち去ります」


 そう言って引き返そうとした私を、彼が引き留める。とても気軽な、押しつけがましいところのない口調だった。


「これも何かの縁だ、君さえ良ければ、少し話していかないか?」


 私の方は他人と話したい気分ではなかったが、彼の期待に満ちた目つきに負けて、仕方なくここに留まることにする。ここでそのまま帰ったら、この熊のような人はきっとがっかりする。そう思ったのだ。


 けれど、どうしよう。私は元々世間話は苦手だし、モニカによれば私の噂は既に広まってしまっているらしい。


 優しい目をした彼も、私の名を知ったら表情を変えるのだろうか。好奇、哀れみ、同情。どれも、欲しくはなかった。


 口をつぐんだ私の前で、彼は何やら考え込んでいるようだった。少しためらった様子を見せた後、重々しく彼は言った。


「誘っておいて、こんなことを言うのもどうかと思うのだが……できれば、私は名と素性を隠しておきたいのだ」


 思わぬ言葉に、目を丸くする。名前や正体を隠しておきたいのは、私だって同じだ。彼にも、何か事情があるらしい。


 身を乗り出した私の前で、彼は気まずそうに笑った。


「だから、ここだけの名を何か……そうだな、『ベア』とでも名乗っておこうか」


「ベア?」


「古い言葉で『熊』のことだ」


 いたずらっぽくそう答えると、彼は私をまじまじと見つめた。遠慮のない、しかし不快感のない視線に、落ち着かなくなって身じろぎする。


「どうせなら君も偽名というのはどうだ? 『ロビン』、小鳥の名だ。君にはぴったりだと思うのだが」


 その言葉に、一気に目の前が明るくなったような気がした。私の名を、知られなくて済む。私の過去を知られることなく、彼と話せる。それはとても、素敵なことのように思えた。


「はい、分かりました。よろしくお願いします、ベア様」


「様はいらない。熊様になってしまうだろう、なあロビン?」


 おかしそうに笑う彼につられて、私もつい微笑んでしまった。二回目の婚約が流れてしまってから、初めて心から笑えた気がした。




 それから私たちは並んで腰を下ろし、色々なことを話し合った。お互い正体を伏せたままだとは思えないほど、話ははずんでいった。天気の話から始まって、日常のちょっとしたこと、好きなものの話など。こんな風に誰かと楽しく話すのは、本当に久しぶりだった。


「ところでロビン、ずっと気になっていたのだが……君は、どこか調子が悪かったりするのだろうか」


 会話が途切れた一瞬の隙をつくように、ベアはそんなことを尋ねてきた。その目には、私のことを気遣っているような色が浮かんでいた。


 どう答えればいいのだろうか。今の自分がすっかりやつれてしまっていることは承知している。けれど、婚約者に裏切られた痛手が癒えなくて引きこもっています、などとはとても言えない。


 仕方なく、そっと彼から目をそらした。あいまいに言葉を濁す。


「いえ、特にそういったことは……」


「そうなのか。ならばいいのだが……君があまりにか弱くて、儚げだからそう思ってしまった。出過ぎたことを言って済まない」


「私が弱いというよりも、あなたがたくまし過ぎるのだと思います……」


 つい本音を漏らすと、ベアはそれは嬉しそうに笑った。


「まあ、毎日せっせと鍛えているからな。健全な精神は、健全な肉体に宿る。私の座右の銘だ」


「どういう意味なのでしょう?」


「そうだな、一言でいうと……健康は大切だ、ということだろうか」


 あごに手を当てて考え込みながら、ベアがそう答える。ふと彼は、かがみこんで私の目をまっすぐに見つめてきた。驚くほど近くに迫った彼の顔に、思わず見とれて息を飲む。


「調子は悪くないと、君はそう言った。だが、やはりどことなく顔色が優れないように思えるな。大丈夫か?」


 彼は私の正体を知らない。私が心に大きな傷を抱えていることも知らない。そして彼は、ただ純粋に私のことを心配してくれている。


 そう思ったとたん、胸に温かいものがこみあげてきた。涙が一粒、ころりとこぼれ落ちていく。あわてて目元を押さえる私を、ベアは優しく見守っている。


「……その、実は少し体調が優れなくて。心配してくださって、ありがとうございます」


 初対面の人間の前でいきなり涙してしまったせいで、とても照れ臭い。そんな思いを隠すようにそう答えると、ベアは黒い目を細めて微笑んだ。


「朝、日光を浴びて外の空気を吸う。少しでもいいから、毎日歩く。そんなささいなことを積み重ねていくだけでも、驚くほど体調は整うものだ」


 よどみなくすらすらと答えてから、彼もまた照れ臭そうに頭をかいた。


「済まない。少し、説教臭くなってしまったな。健康に気を遣うのが習慣になっているせいで、つい」


「いえ、ためになりました。少しずつ、試していきたいと思います」


 なぜか、彼の言葉はすとんと胸の中に落ちてきた。だからなのか、驚くほど素直にそんな言葉が口をついて出た。


「ああ、それがいい。私の言葉が役に立てばいいのだが」


 私の答えを聞いて、彼はまた嬉しそうに笑った。少年のような、邪気のかけらもない笑みだった。心にぱっくりと開いたままの傷の痛みが、少しだけ和らいだような気がした。

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