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「」の考察(ver.3)

 先日、ヤブカラシという雑草の芽を食べたのですが、アク抜きを忘れていたので、その後何日か、のどが大変なことになってしまいました。スーパーに行けば、100円もせずに「おいしい野菜」が入手できるのに、何故、わざわざ、サバイバルのまねごとなんてしたのか、とても後悔し…ていません。

※01 レモンは酸っぱくないことがある


 皆さんは、すごいキツイ山登りをしたことがありますか?

 あるいは運動部系の部活動などで、ヘトヘトになるまで練習した、とかでもいいかもですが。

 とにかく、極限近くまで体が疲れたときに、レモンを食べても全く酸っぱくなく、「とても甘い」味しか、しないことがあります。

 どことなく、「ヘリウムガスで声が変わってしまった」に近い様な、おかしな身体現象なので、思わず笑ってしまうことでしょう。

 この話は、ギリシアの昔の哲学者か、誰だったかも残している、割と有名な話だと思います。

 おいおい、「誰だったか」じゃあ、全然引用になってないじゃないか、というツッコミは放置で。



※02 洗濯洗剤には、衣類の汚れを落とす効果がある 


 他の文献などを引用する必要ないと思いますので、これで終わりということで。

 おいおい(略



※03 私は、サザエさんではない。


 その可能性は0ではないと思うのですが! いいえ、0です。だって、架空の人物だし。

 お(略



※04 自我に関する小まとめ


 デカルトが「われ思う故に我あり」と記したのですが(方法序説)、西田が「そうじゃない、我と思っている我あり、だ」と、的確なツッコミを入れています(善の研究)。

 しかしまあ、それはちょっと置いておいて(おい)、懐疑論、という考え方があるようです。


 懐疑論にもいろいろな体系や考え方があるようで、分かりやすいのは、映画「マトリックス」のような世界の見方でしょうか。「この世界は現実だ」と思っていたら、実は仮想世界だった(あるいは夢だった)、という形式です。これの極限に位置するのが、インド神話でいう「世界はヴィシュヌ神の夢」だと思います。


 懐疑論のエッセンスは「この世界はニセモノではないのか?」でしょう。

 もっと言うと、「この世界はニセモノかも知れない(が、何らかの、別の、真実、のようなもの(神、真の自我、上位の/高次の世界構造、宇宙の究極の方程式)があるのでは? それを知りたいのですよ)」ということでしょう。

 これは、誰にも論証も反論もできない性質のものです。


 ですが私は、常々、懐疑論の真の命題は「我々は正気か?」なのではないかと思っています。

 正気でない者は、何が真実で、何が虚偽かを、というより、何事をも見分けることができません。ですので、自分の正気を疑う者は、「この世界はニセモノかも知れない。それどころか、ニセモノかホンモノかは別にして何か(少なくとも自我や世界)があるように感じられるし、そう思える。だが、それすらも怪しい。完全に虚無(何もない)、という可能性すらある。だが、どのような仮説を考えてみても、私が正気でなければ、真か偽かを判定できない。」と言う訳です。


 とはいえ、こざかしい智慧と直感が次の様に告げます、「自分の正気を疑うことが可能なのは、正気な者だけではないでしょうか?」


 発狂者が「自分は発狂しているかもしれないな」と思うことは、能力的には、おそらく可能でしょう。ただ、疑っているその瞬間、発狂者は正気に戻っている、と言えるかも知れません。であれば、前段の命題は真ということになります。しかし私は、発狂したことがないので、これを検証できません。いや、正確には、いままでに発狂したことがないのか、現時点で発狂していないのかどうかすら分かりません。なぜなら、「自分が正気であるか」分からないからです。

 いや待たれよ、「発狂者であっても、真実を知ることができるのではないですか?できない、ということも証明できませんよね?」


 さてさてこれは、精神衛生上、よろしくないですね(笑)。いまいましいですが、智慧とやらを使ってまとめましょう。

 要するに、「我々は何も分からない」のです。しかし、そんなことはとっくの昔に、ソクラテスが「無知の知」と、まとめ済みなのです。


 だったらこんな長文、いらねーじゃねえかあぁぁぁ!(静止画)


 まあ、懐疑論を捻り回しても、何も出てこないので、レオナルド・ダ・ヴィンチの名言「経験の徒」がすこぶる実用的です、とだけ言っておきましょう。自分が正気だと思うなら、自分や他人経験を、慎重に使って生きていくべきです。

 え?これは何の引用になるのか?ですと? いや、何の引用でもないですね(え?)



※05 輪廻転生


 時間節約のため結論のみ書きますと、あるかないか、誰にも分かりません。

 実用に使うのでしたら、一案としては、「来世があると思って今を行儀よく生き、来世がないと思って今を大切に生きる」です。

 一方、過去世は、実用上は「ない」とすべきでしょう。前世で英語を話していたとしても、今生で英語の勉強をすべきです。(他人事のように書いてみました)

 先にお断りしますが、引用になってません!(開き直り)



(本文)

「魂」の考察


 前置きで疲れてしまったので、本文は割愛させていただきます。お疲れさまでした~(え?)


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