17話 Who am I
機械人形。
それは数代前の魔王が生み出した、対人類用の尖兵である。容姿は人間にそっくりで、基本の役割は密偵だが戦闘力も相応だ。
その一機であるサンドラ。
彼女には最近、抱き始めた感情がある。
(私は、一体何者なのでしょうか)
きっかけは、毎日のように押し寄せてくる女。
サンドラとしては、主人であるゼクスと過ごす時間こそ至高であり、それを邪魔されるのは楽しくない。
まして主人がその女と楽し気にする様子を見ていると、エラーでも起こしたような気持ちになる。まあ、その主人が聞いたら眼球の調子を疑うだろうが。
彼女の主人は彼女に優しい。
だからこそサンドラはゼクスの事を慕っていたし、ずっとそばにいたいとも思っている。だが、ときおり羨ましくもなる。体裁を取り繕うことなく言い合いをする、あの女と主人のやり取りを、自分もしたいと思ってしまう。
サンドラは考えた。
自分とあの女の違いは何かと。
考えたから分かったことがある。
(私は、私のことを何も知らない)
原因は分からないが、サンドラのメモリは破損していた。親も、故郷も、生まれた意味も、彼女は思い出せなくなっていた。
唯一分かるのは自身の名前だけ。
サンドラという名前だけが、彼女の知る彼女の全てだった。
途端、底なしの闇に追われるような悪寒が押し寄せる。自分の本性が悪魔のように残虐だったらどうすればいいのか、なすべき使命を忘れたままでいいのか。得体のしれない恐怖が込み上げる。
(それなのに、王女の事は知っている)
たびたびこの家を訪問してくるあの女。
王都アストレアの第三王女リスチェリカ。
主人であるゼクスを慕っていて、彼が作った魔道具を買い取っては王都の繁栄に役立てている。
プレセアという侍女がいて、王城内にも彼女を慕う者がたくさんいる。
(私に無くて、彼女にあるもの、過剰、分析不能)
どうすれば主人と距離を詰められるのか。
彼女のように、不躾に押し寄ればいいのだろうか。
それはダメだ。
もし嫌われでもしたら、誰からも必要とされなくなってしまう。
彼女は機械人形。言霊によって生きる者。
主人なくして生きる能わず。
(ゼクスがいれば、それでいいと思っていた)
記憶も返す物も何もない。
そんな彼女に生きる意味を教えてくれた。
(そばにいられるだけで、十分だと)
彼のために生きられたらそれでいいと思っていた。
それなのに、彼の一番になれないと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような心地になる。
(私も、私が何者かを知れたなら、少しでも近づけるのだろうか)
どうしてこのメモリは破損しているのだ。
サンドラはそう考える一方で、こうも考えていた。
メモリが破損していなかったら、ゼクスと会えなかったかもしれない。
彼女に過去の記憶は無いが、周囲の反応から類推することくらいはできる。自分を生み出したのが数代前の魔王だということも、自身が人類の敵対者だということも察している。
最初から自身の存在を知っていたとして、はたして主人は現在と同じように接してくれていただろうか。分からない、分かるはずもない。
真実を知りたい。
そう願うと同時に、過去と向き合いたくないと思う自分が存在すると、サンドラは気付いていた。
*
ある小望月の夜の事だった。
煤を流したように黒い空。
銀砂を散りばめたような星の海。
サンドラは、不審な影に気付いて目を覚ました。
主人は今日も一日魔道具作りに勤しんでいたため、ぐっすりと就寝中。この家の近くでどんちゃん騒ぎをするなんてもってのほかだ。
音を立てないように扉を開けて、忍び足で彼女は暗澹たる森に向かう。風の吹かない夜だったので、どこまでも静かな幽暗が纏わりついてくる。
息苦しくなるような圧迫を抜けると、少し開けた場所に出た。皓皓たる月明りが不安を和らげる。
その中心に、直黒の人影が佇んでいた。
サンドラに気付いた影が、感涙にむせぶ。
「うふ、うふふっ、サンドラ様、よくぞご無事で!」
影が一歩近づいて、サンドラは一歩退いた。
薄気味悪さが胸を焼く。
「勧告、ただちに撤退せよ。さもなくば敵とみなし、排除シークエンスに移行する」
それでも、サンドラは逃げなかった。
背後には親愛なる主人がいたからだ。
彼をおいて自分だけ逃げるなんて選択肢、彼女には存在しない。
どのような状況においても優先すべきは主人の安全であり、私情で判断をミスるわけにはいかなかった。
「おいおいサンドラ様よぉ、まさかこの俺、ウォーロックをお忘れになられたのですか!? 機械人形のあなたが!?」
「警告、当機のメモリに貴殿は記録されていない」
「なんだとぉ? もしやメモリに損傷が?」
「……沈黙、答える義理は無い」
メモリの損傷を素直に口にすると、主人に不利益が生じるような気がしたサンドラは沈黙を貫いた。
しかし、それは肯定したのと同義である。
墨色の影が喉をむしる。
「ああ、ああ……っ。神よ! どんな了見でサンドラ様にこのような仕打ちを!」
がばっと両手を上げ、目を引ん剝く。
月明りに照らされたぎょろりとした双眸。
三日月のように不気味な弧を描く唇。
サンドラは吐き気を覚えた。
だがその吐き気は、続く言葉に霧散する。
「サンドラ様よぉ、安心してください。メモリのバックアップがございます。すぐに全てを思い出していただけます」
「……ぇ?」
それはある意味で、ずっと望んでいた事だった。
知る機会なんて無いと思っていた。
「猜疑、本当に、思い出せるの?」
だから、つい影の言葉に耳を貸してしまった。
悪魔の囁きだと知ってなお、立ち止まることなどできなかった。
「ああ、もちろんですとも!」
影の言葉は酷く甘い。
麻薬が脳に染み渡るように。
酒に酔ったように、彼女の理性を甘く溶かす。
一歩、踏み出した足。
それをすんでのところで止める。
ウォーロックが次に告げた言葉によって。
「目覚めてからの記憶は失われますが、なんら困ることなどございませんよね?」
「……疑問、記憶が消える?」
「はいぃ。このバックアップは、サンドラ様がコールドスリープに入る前に取ったもの。眠ってから今日までの記憶は含まれておりませんゆえ」
サンドラは理解に苦しんだ。
だが、大切なことだというのだけは分かった。
リソースの全てを注ぎ、言葉の意味を理解する。
「……確認、過去の記憶と今の記憶、どちらかを選べと言っている?」
「ああ、そう取ることも可能でございます」
「了承、それなら、当機は過去を求めない」
影が揺らぐ。
「サ、サンドラ様!? 何をおっしゃるのですか!?」
「返答、過去の私がどんなだろうと、今の私には仕えるべき主人がいる。そのお方との思い出を無かったことにするなんて選択肢、当機には存在しない」
「待てよこの機械人形様! いったいどれだけの朋友が魔族領であんたの帰還を待ち望んでいるかおわかりですか!?」
「否定、知ったことじゃない。今の私が必要としているのは、ゼクスだけ」
右手を翳し、サンドラが言う。
その目の虹彩には青い光が弾けていて、臨戦態勢に入っているのが分かる。
「警告、それ以上の接近は敵対行為とみなす。即刻立ち去れ」
影が頭をぐしゃぐしゃと掻く。
最期にぎゅっと拳を握ると、髪の毛がブチブチと抜ける。両手をだらんと垂らすと、指の隙間から髪の毛が舞い散った。
「ふざけんなよサンドラ様。だったら、是が非でも連れて帰ってみせます」
「承認、敵とみなした。これより排除シークエンスに移行する」
月下、静かに。
小さな戦争が始まろうとしていた。





