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カナリア  作者: 藤倉楠之
9/30

8 卒論ゼミ ――A

 サトカさんの休みと、僕の休みが合うのは日曜日だということがわかった。


 それで、インフルエンザの『物忌み』も明けた次の週末に、ピヨのねぐら探しへの同行をお願いした。行き先は、最寄りの私鉄路線を三駅ほど下ったところにある大型ショッピングモール。ペットグッズの品ぞろえが良さそうな店はこの近隣でそこくらいだったので、あまり迷う余地もなかった。


 僕は、ピヨの面白い行動や、街やネットで変なものを見かけると、サトカさんにメッセージを送ることにしていた。大概、短くてシャープな突っ込みが、かわいめのスタンプといっしょに返ってくる。一日に一回くらい、時間はまちまちだったが、そんなやりとりをしていた。僕がのぼせ上がって判断力を失っているのでなければ、サトカさんも面白がってくれているようだった。


 恐る恐る、そういうネタメッセージの合間に紛れ込ませるように、僕はサトカさんに個人的な質問を重ねていた。なにせここのところずっと、そういう駆け引きとはほぼ無縁、もてない惚れないでやってきた人生だ。サトカさんとのこの細いつながりを切らせたくない一心で、慎重に慎重に質問を選んだ結果、予習できる前情報は実に少なかった。


 それでも、いくつか掴めたことはある。


 サトカさんは一人っ子だ。地元出身で、お父さんは亡くなっている。お母さんと二人暮らし。ということは、生き物を飼いたくないのはお母さんなのだろう。出身大学は都心をはさんで向こうにある、古くからの医薬系の名門校だった。好きな本は国内外のミステリーと幻想文学。


 僕の質問には、サトカさんからかなり正確なラリーショットが返ってきて、おなじくらいの濃度の情報を僕もお伝えすることになった。両親は岡山で、兄夫婦と近居してリタイア生活を満喫している。犬は飼ったことがあるけれど猫は初めて。一駅先の出身大学にかろうじて職を得て、今は教える方の末席に回っている。好きな本はミステリーとルポルタージュ。


 もどかしい。メッセージは文字だけなので、いまいち、どんな調子でされている質問なのかわからない。礼儀として聞き返してくれているだけで、本当は僕にそんなに興味はなくて、行きがかり上この買い物だけ付き合ってくれるつもりなのかもしれないし。


 考えれば考えるほど隘路にはまりそうで、僕はスマホのスリープボタンを押すと、ポケットに入れて立ち上がった。壁際の書棚から、金曜ゼミと自分でラベルを付けたファイルを取り上げる。


 講座に所属する教員、大学院生、卒業論文を書く予定の学部生で行われる、学部生の卒論ゼミだ。卒業論文を書く学生が、年度初めに持ち回りで二回ほど発表分担を決め、そこまでの進度を報告し、その他の出席者からの質問に答えたり、意見や助言を受けたりする。教授、准教授、助教二人の所属教員四人全員が揃うのは、このゼミと修士論文を書く学生が発表する水曜日の修論ゼミだけだ。教員はそれ以外の講義や演習は分担で行い、必要があれば論文指導を割り振られた担当学生の個別の相談や質問に応じたり、ペース配分に目を配ったりすることになる。


 学生が書きたいと言ってきたテーマに合わせて、卒論生と修論生を何人かずつ指導することになるのだが、僕の今年の指導卒論生の中で良くも悪くもひときわ手がかかるのが、神谷さんだった。神谷さん自身の二回目の発表はもう先月に終わっていて、今日は准教授が指導している四年生が前後半で一人ずつ発表する予定だった。しかし、論文ゼミはそれ自体が卒業に欠かせない授業の単位になる。欠席が重なれば、論文が書けても留年になってしまうので、四年生は必ず出席することになっている。神谷さんにも会えるだろう。


 ファイルにボールペンを挿し、タブレットと一緒に抱えて部屋を出ると、向かいの院生室からちょうど、須藤さんが出てきたところだった。いつも通り、完璧に整ったメイクにシャツと黒パンツのスタイル。ショートヘアは一本の後れ毛もなく整えられている。以前、大学に来るときの服装はユニホームと考えて、どう組み合わせても変にならない少数精鋭のクロゼットを構築し、メイクと髪形も手順をテンプレート化したと言っていた。徹底的な合理主義なのである。


「もう完全に復調ですか? 水曜ゼミではまだちょっとぼんやりしてたみたいですけど」


「ああ、まあ」


 エレベーターがなかなかこないのはいつものことなので、僕も須藤さんも何も言わずに階段室に入った。


 行き先は同じ、三フロア下の演習室である。


「神谷さん、教授に質問紙の相談に行ったみたいですよ。昨日院生室にきて、質問紙の最終稿をみせてくれました。一つ二つ誤字や表現の誤用を指摘した以外、私は良いと思ったので、吉見さんに最終確認いただいて、ゴーサインが出てから印刷するように言ってます」


「ありがとう。テーマは前の質問紙から変わってないよね?」


「ええ、戻してきました。新しいアイデアも、全く脈絡のない物ではなかったですけどね」


「興味の核はぶれてないってことだろう。いいんじゃないか」


「ジェンダーをテーマに持ってくるあたりは手堅いですけど、そこに身体認識と表現を絡めてもう一度社会学に落とし込むのはなかなかの離れ業ですね。油断すると心理学や身体論に行っちゃうところをちゃんと帰ってきてる。でも神谷さん、自分がすごくトリッキーな題材を狙ってるって気づいていないからなあ」


「教授の講義、いつので調査に行かせてもらう予定か聞いた?」


「来週だそうです」


「ギリギリだね。まあ、しょうがないか」


「書けますよ。先行研究の流れはよく押さえてましたし、考察すべきポイントもちゃんと理解しています。レポート締め切りの前に徹夜するタイプですから、最後に瞬発力を出してくれるでしょう」


 須藤さんが言うと本当に何とかなる気がしてくるから不思議である。そう言うと、彼女はクロムの眼鏡の中央をくっと押し上げて唇の片端を上げた。


「私なりに人のことは見てるつもりです」


 演習室の前について、須藤さんとの会話は途切れた。


 定位置の席に手に持った荷物を下ろすと、マナーモードに切り替わっているか確認する体で、僕はスマホの画面をちらっとみた。今日はまだ、サトカさんからは何も来ていない。ってまだ午前中だけど。


 意識して深呼吸すると、僕は仕事モードに自分を切りかえた。


  ◇


 九十分の演習が終わると、学食に急ぐゼミ生たちの群れに逆行して、見覚えのある巻き毛頭が近づいてきた。神谷さんだ。身長が低いので埋もれた格好になっているが、身長以外の体格がいいので、周囲が遠慮して少しよけて通る。結果、百人一首の『瀬をはやみ』みたいな状況になっていた。


「吉見先生、もうインフルエンザ治ったんですかぁ」


「治らなきゃまだ休んでるよ。本音はもうちょっと休みたかったな」


 軽口を叩くと、彼女は大げさにぞっとした表情を浮かべた。


「やめてくださいよ、先生の論文指導がないと私また留年になっちゃう」


「そいつは僕も困る。質問紙どうなった?」


「須藤さんに指摘していただいたところを直して、今持ってきました」


「この後時間ある? 見て話そう」


 院生室にはミーティングテーブルがある。昼食は生協の購買部で買ってあるという神谷さんと、そこで待ち合わせることにした。僕自身に与えられた研究スペースもあるのだが、この頃コンプライアンス委員会が厳しくて、学生指導はなるべく一対一にならないように注意されていた。


 最寄りの門の前にやってくるフードトラックで、ネパール風たけのこカレーを買って院生室に戻ると、何人かの院生と神谷さんが、各々買ってきた昼食を食べながら話に花を咲かせていた。集団の端っこに席を見つけ昼食に加わる。


「えー、じゃあ神谷、今、その店でバイトしてるの?」


「いえ、さすがに卒論が追い込みだし、中国語は、後期試験、絶対に通さないといけないんで先月で辞めました。営業が始発ちょい後までで、そこから閉店業務なんです。シフト入ると完全に昼夜逆転」


 また変わったバイトをしていたらしい。


「何の店?」


 話の切れ目をようやく見つけて聞いてみた。


「やばいっすよ。朝までやってる、カウンターの居酒屋」


 修士課程の高橋くんが言う。神谷さんが慌てた様子で話の続きを引き取った。


「前働いてたピアノバーの店長のどうしてもっていう紹介で断れなくて。深夜に入ってた子が急に辞めちゃったらしいです。次の子を探す間、ひと月だけの約束で」


 でもぉ、とちょっと語尾をのばす特徴的な話し方で彼女は続けた。


「すっごい面白かったんですよ。居酒屋だから、バーとかより全然しっかりしたフード出すんですよ。だから、結構あの辺の夜のお店に勤めてる人たちが仕事帰りに来るんです。飲みにっていうより、夜食食べに」


「へえ。集団で?」


 合いの手を入れたのは渡辺くん。高橋くんとコンビ芸人みたいな二人だ。


「カウンターだから、どっちかっていうと一人のお客さんが多かったかな。だから、料理作りながら何となく世間話したりして。仲良くなったお客さんからはいろいろ、夜の世界の裏側とか、聞いちゃったりして」


「あー、そりゃ神谷だからだよ。俺じゃ警戒されて終わりだもん」


 高橋くんがこれ見よがしに溜め息をつくと、渡辺くんが即反応してその肩をこづいた。


「高橋じゃ、そもそも居酒屋で料理作れないだろ。ゆで卵しかできないじゃん」


 場がどっと笑う。


「じゃあ、この前言ってたフィールドワークは、そのバイト先を通じてコンタクトをとるつもりだったの?」


 須藤さんが冷静に尋ねた。神谷さんが言い出していたのは、夜の街で肌を見せてショーを行う女性へのライフインタビューという、なかなか壮大な野望だったのである。


「仲良くなったお客さんに、踊り子さんがいまして。年が近かったせいもあって、話が合って、SNSでもつながったんです」


「神谷さんにあと二年時間があれば、面白かったかもしれないけど。デリケートな話題だから、十分に気も使わなきゃいけないし、知り合って一ヶ月ちょっとの相手では難しいよね」


 神谷さんの表情が曇った。 


「はい。わかってます。せっかくご縁があって関係ができたのに、私の好奇心で相手の気持ちを傷つけちゃいけないですよね」


「すげえテーマ思いついてたんだな神谷」


「それこそ、神谷でなきゃ無理だろうけど」


「あんたらは自分のテーマちゃんと磨きなさいよ。博士課程まで行くんだから、八月の学会に修論をもとにポスター発表申し込むくらいの気概でいないと。修論提出をゴールにしてちゃだめでしょ」


 須藤さんにぴしゃりと言われ、修士論文を鋭意執筆中の二人はそろって首をすくめた。


「とはいえ、まずは完成させないことには。なあ高橋」


「留年はヤバいっす」


「情けないなあ」


 容赦のない須藤節に耐えかねたのか、高橋くんがこっちにお鉢を回してきた。


「吉見さんは? 八月に何か出しますか」


 内心、刺さるものを感じながら、僕はとぼけた。


「どうかなあ。フィールドノートは大分たまってるんだけど。なかなか、まとめる切り口がね」


 ちらっとこちらを見る須藤さんの視線が痛い。


 神谷さんが、目を大きくして僕を見た。


「そういえば、私、吉見先生の学部生時代の、卒論のテーマって聞いたことなかったです。この講座で卒論も書かれたんですよね。何で書いたんですか?」


「インタビューと質的分析だよ」


「方法じゃなくて、題材のほうです」


 僕がなんとなく言い渋っていると、渡辺くんがあっさりばらしてくれた。


「今と一緒ですよね。地域社会に狩猟採集集団が果たす役割の考察。オレ、学部図書館で資料請求して読んだんですよ。よくあんなにずばっと集団の懐に飛び込みましたね。危険な気がするけどなあ。教授は止めなかったんですか?」


「許可を得なかったから。っていうか、渡辺くんちゃんと読んだ? 別に、山奥に人知れずひっそり暮らす縄文人の末裔の村を探して冒険したんじゃないよ。普通に、農協にも属しているような農家さんとか、会社員の人が副業や趣味としてやっている狩猟採集の話だからね」


 でも、学部生の手に負えるテーマではなかったのも事実だし、フィールドワークに時間をかけすぎて、論文の体裁に整えるのに地獄を見たのも事実だ。結局四年生では書き上げられず、一年、論文ゼミと論文だけの五年生をやる羽目になったし、それとて、当時の指導教員で今はボスである教授が見捨てないでいてくれなければ、書き上げることは難しかっただろう。そうなれば、卒業もできず路頭に迷っていたのは必定だった。


「完成度が低かったから、あまり読まれたくないなあ」


 僕がぼやくと、須藤さんに突っ込まれた。


「卒論、修論からテーマ変わってないんですから、最新の論文をもっとどんどん発表すればいいんですよ。そうしたら、わざわざ年代を遡って、図書館で手続きの面倒な卒論の資料請求をするもの好きもいなくなるはずなんですから」


 ごもっともである。それに、今まで何本か発表して、やっと就職にこぎつけたけれど、この職とてずっとおいてもらえる身分ではない。数年の猶予をいただいているうちに学会発表や論文で実績を積んで、ほかの大学や研究機関の研究職の公募にアプライしていく必要があった。


 だがこの数か月、僕は書き溜めたフィールドノートを論文に書き起こそうとしては構想を組みなおす作業をずっと繰り返していた。これまでは、書き始めるときに必ずあった、この題材は面白くなる、という確信が持てないのだ。研究を始めてから初めてといっていいほど深いスランプの沼にはまり込んでいた。


 でも、そのことは須藤さんにも話していない。


 僕は食べ終わったカレーの容器を片付けると、廊下のごみ箱に捨てに行った。帰り際、スマホの画面をちらっと確認すると、新着メッセージがあるようだった。サトカさんだ。交代で昼休憩をとっている時間にくれたのだろう。でも、今は見られない。


 ちょっと残念な気持ちで、スマホをポケットに戻すと、僕は神谷さんの向かいに腰を降ろした。


「さあ、卒論の時間。質問紙を見せてください」


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