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カナリア  作者: 藤倉楠之
8/30

7 片付け ――S

 吉見さんのインフルエンザは比較的軽くすんだらしく、週が明ける頃にはほぼ復調した様子だった。現代の物忌みを活用させてもらって、制度がある範囲でしっかり休んで本を読みます、なんて言っていたけど。


 私も何となくつられて、日曜日に父の本棚を並べなおして探し出し、大学生の頃読んでいたロス・マクドナルドやスタウト、エラリイ・クイーンをパラパラと拾い読んだりしていた。電車に長時間揺られて通学していた頃は、今よりよほど本を読んだり音楽を聴いたりしていたのだ。そんなことにも、すっかり気づかなくなるほど、今の生活に気力を使っていたらしかった。


 家の整理は伝染するらしい。


 火曜日の夜、仕事を終えて帰宅すると、母が居間の定位置のソファにいなかった。隣室の、祖母が使っていた和室から物音がするので覗いてみると、ベッドの上を占拠するように、祖母のタンスの中身が丁寧に広げられていた。


「ただいま、母さん」


 声をかけると、母は驚いたように振り返った。


「帰ってたの? ぜんぜん気づかなかった」


「今ついたところ。ご飯、これから支度するから」


「ありがとう。じゃあ、できるまでにはいったんキリをつけなきゃね」


 いつも通り私が調理を、祖母のものをとりあえずもう一度タンスにしまったらしい母が台所に出てきた所で配膳を担当して、クワイと鶏肉を炒めたもので夕食をとった。食べながら聞いてみた。


「おばあちゃんのタンス、片づけてたの? 何か探し物?」


 祖母が亡くなった時、連絡をどこにしたらいいのか、保険や事務的な書類のしまい場所などわからないことだらけで、一時、上を下への大騒動だったのだ。父の時は、気丈に振る舞った祖母自身がすべて取り仕切って葬儀を済ませた。母は呆然と泣き伏し、私はまだ中学生だったこともあり母の対応くらいしか任されていなかった。その祖母が、一年と少し前にたった一月患いついただけで亡くなったとき、二度目の家族の葬儀なのに、私も母も、右も左もわからず、初めは途方に暮れてしまった。


 駆けつけてくれたみっこおばちゃんと、旦那さんの健おじさんが役所や契約関係を担当してくれた。親戚や祖母自身の友人関係への連絡は、祖母自身が何か思うところがあって書いていたらしいエンディングノートが愛用の鏡台から見つかって、ようやく方向性が定まり、母と私で整理したのだった。


 祖母のノートにしたがって連絡した親戚やお友達が、その身近な人たちに声をかけてくれたりしたおかげで、祖母が別れを言いたかったであろう人にはほぼ葬儀か四十九日の法要までにお知らせすることができた。私としてはまずまず満足できる見送りはできたものの、几帳面ではあったがとにかくものを溜め込むタイプの祖母の遺品は量が多く、複数の人間が慌ててものを探すときに置き場所が変わってしまったりして、今でも片づいていないものが多かった。


「今すぐっていうものを思い出した訳じゃないんだけど、ちょっとずつでもやらないとね」


「疲れてない? ゆっくりやればいいんだから、無理しないでよ」


「里ちゃんの口癖。無理しないでよって、あなたもよ」


「明日は私も休みだから、手伝ってもいいし」


「そうねえ。一緒に少しやってもらおうかな」


 母はうなずいた。


「私も疲れてるから、今日はもうやらないよ。明日ね」


 それで何となく会話が途絶え、私は黙々と箸を動かした。


 私が念を押したのには、訳がある。


 この人に必要以上の負担をかけてはいけない、というのが、父が亡くなってからの私の最優先課題だった。


 父が亡くなったのは、私がまだ中学一年の梅雨時だった。ある日突然、仕事場で心臓発作を起こした父はそのまま帰らぬ人となった。


 母は一月ほど、魂が抜けたようになっていた。だが、納骨を二週間ほど後に控えたある日、何かにとりつかれたように外出し、結婚前に勤めていた銀行の知り合いを介して保険の外交員の職を得てきた。


 私は当時、父の希望で受験した中高一貫の女子校に通い始めたところだった。一家の大黒柱をなくした意味くらい、十二歳の子どもにもわかる。九月からは地元の公立中学に転校することになるだろうと思っていた。受験に強い憧れを持っていたのは父だったし、私自身には何か目標があったわけでもない。公立に行った子たちとも関係は悪くなかったので、さほど嫌だと思ってもいなかったように記憶している。だが、母の考えは違った。


『今の学校が、大学受験には結局有利よ。お父さんは、あなたの制服姿を誰よりも喜んだし、誰よりもあなたの将来に期待していたのよ。お父さんの遺したものは全部あなたの教育費に使うべきだわ。私が働けば、家もあるから、おばあちゃんの年金と併せて何とか生活していける。里ちゃんは、しっかり勉強してきっと良い薬剤師さんになるって、あなたの入学式の日の夜にお父さんそう言ってたのよ』


 薬剤師。小学校の卒業文集には将来の夢という欄があった。でも、書きたい夢なんて一つも思い浮かばないうちに、原稿の締め切り前夜になってしまった。途方に暮れた私は、受験のため通っていた学習塾でもらった、占いに毛が生えた程度の職業適正診断シートを広げてチャートをたどり、行き着いた欄に書いてあった職業をそのまま書いたのだ。クラスメートには、プロ野球選手とか、アイドルとか、子どもらしい憧れを書く子だってたくさんいた。私もそこまで本気で追わなければいけない夢だなんて思って書いたわけではない。


 だが、刷り上がってきた文集を見て父はとても喜んだ。ちょうど、父の第一希望だった中学の合格通知が来たところだったから、感慨が深かったのだろう。


 そして、その微妙な認識のすれ違いを正せないまま、父は逝ってしまい、父の夢はそのまま母の夢になってしまった。私に、大好きな父にうそをついてしまったような罪悪感をのこしたままで。


 母はがむしゃらに働いた。祖母が、「トオコさん(母の名だ)には霊感がある」と信じていたくらい、母には直感的で理屈抜きに人の性格や気分を感じ取れる突出した能力があった。保険の外交という、対人関係が鍵になる職種ではかなり有利だったのだろう。営業成績も常によかったし、同僚からも頼られているようだった。


 とはいえ、私の通っていた中高一貫校は授業料以外にも何かと出費がかさんだし、医薬系の大学は実験、実習が多いためどこもかなりの学費がかかる。母がいくら働いても、私は国公立か、私学なら授業料減免の特待生か給付型の奨学金がとれる成績をとって合格しなければいけない状況だった。鬼気迫る様子で外で働く母に、家ではせめて少しでも休んでほしくて、家事は私と祖母がほとんど回すようになった。私が何とか経済的に通える形で大学に受かったあとも、その分担は変わらなかった。ほとんどすれ違いのような生活だったが、私の心にはずっとある重奏低音が鳴り響いていた。何か一つでも掛け違えば、母が壊れてしまうのではないかという漠然とした不安。


 無理しないで、と、母の顔を見る度に言うようになっていた。


 滑っても踏み抜いても一巻の終わりの凍った池の上を走って渡るような心地で六年間を過ごしたが、私はとにもかくにも無事に大学を卒業し、何とか資格も取って就職した。その頃から、母は肩の荷を降ろしたといって仕事を減らし始めた。


 親子で、やっとこれで人並みのペースで生活ができると思っていた矢先に、母は様々な体調不良に見舞われるようになった。原因不明の頭痛、ふさぎ込み、食欲不振。時々訪れる、いてもたってもいられないような焦燥感。動悸やのぼせ。寝ても早朝に目が覚めてしまい、疲れがとれないとこぼすようにもなった。忘れっぽくなって、訳もないことで泣いたり怒ったりもした。祖母は昔風に『血の道の病だ、霊感のある女衆がよくかかるやつだ』と言っていたけれど、母は自分が認知症になったのではないかとおびえ、病院を探し始めた。近所のかかりつけで埒があかず、母が脳外科のある都心の大きな病院を予約しようとし始めたので、私は隣町の心療内科に行くよう強く勧めた。


 母は結局そのクリニックで『中ぐらいのうつ』と診断され、通院するようになった。


 診断され、症状と治療方針についてきちんと説明を受けてみれば、母としても腑におちるところはあったらしい。以来、予約は必ず受診し、薬も(私もかなり気を付けていたけれど)欠かさず飲んで、あの多彩な症状はずいぶん落ち着いた。


 だが、どうにも我が家は平穏な状態からは見放されているらしい。母の通院が軌道に乗り始めた頃、祖母が倒れた。とはいえ、本人も私も母も、すぐに退院して、リハビリは必要だろうが、元通りの生活になるだろうと楽観していたのだ。


 まさか、祖母が家に帰らないまま、在宅治療が可能な段階までリハビリを進めるための入居施設で、食べ物が喉に引っかかったのがきっかけでかかった肺炎をこじらせて亡くなるなんて誰も思っていなかった。


 神様はどうしてこんなことをするんだろう。


 祖母が教えてくれた味付けの、クワイの塩炒めを口に運びながら、もう何度目かわからない問いが胸の中ではじけて消えた。


 何かにつけて気を回したり、先のことをあれこれ心配したりしないで、小さなことで笑ったり嘆いたり、のんびり静かで穏やかな生活ができたら、と思う。それは、身に余る願いなのだろうか。


 でも、母の病気が治るには地道に時間を積み重ねていくしかない。調子を崩せば、今までの努力が水の泡どころか、もっとひどい状態まで母が落ち込みかねないことは、六年間の大学での教育が私に無情に告げている事実だった。ずっと薄々感じていたあの不安は、今では病いという名前が付いて私と母の間に重い雲のように垂れ込めていた。


 神様、仏様、お父さん、おばあちゃん。お母さんを助けてください。


 私はいつも、仏壇や神棚に手を合わせて声に出さず願うことしかできない。


 母には、治ってという言葉がプレッシャーにならないように、祖母のやっていた祀りごとを迷信深い孫娘が引き継いだ、ただのルーティンだと思わせて。


 私がいい子にしていたら、願いは聞きとどけられるのだろうか。

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