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カナリア  作者: 藤倉楠之
7/30

6 病気休暇 ――A

 職場の規定では、一応、インフルエンザにかかったときは四日間休むことになっている。研究職としてそうも言っていられない場合でも、やはり、公衆衛生の観点から大っぴらに大学に出入りするのははばかられるし、学生の悪い手本になってもいけないので、同僚たちも人の少ない時間にこそこそ資料などを取りに立ち寄るだけの場合がほとんどだった。


 ボスの教授は、昔はインフルエンザなんぞで休むやつはいなかった、徹夜麻雀でゼミの発表を飛ばす奴の方が多かったくらいだ、と笑っていたが、時代の流れというやつでこればかりはいたしかたない。担当している学生とはメールや電話で連絡をとれるし、僕はこの際しっかり休むことに腹をくくって、引きこもりを決め込んでいた。


 朝一でメールをチェックする。今度のゼミで発表予定だった修論生から、要求しておいた発表レジュメが届いていた。夏前から計画的に進めていた子なので、まずひどいことにはなっていないだろうという、こちらの予想通りの進度にほっとする。あとは、学内委員会の欠席連絡の返事や議事録。卒論生のレジュメは、博士課程の院生に面倒を見てくれるよう頼んでいた。


 目を通して、問題なければその旨を返信すればいいだけの内容だと思っていたら、最後に爆弾が隠れていた。博士課程の須藤さんからだった。



『吉見さん



具合は改善されてますか?

五年生の神谷あゆみさん、調査が全然煮詰まってません。

ここまできて、やりたいことが変わったと言って、

先月の卒論ゼミと全く違う計画を持ってきてます。

フィールドワークを考えてるようなんですが、

現状、フィールドに迷惑しか掛からなさそうなので

行くなと止めています。

持ってきたレジュメと、私が返したコメントを添付しておきます。

さっさと治して、神谷さんなんとかしてやってください。

やっと内定とれたのに、このままじゃまた留年です。



須藤幹世』



 添付は、文書ファイルではなく、画像ファイルだった。いぶかりながら開けてみると、神谷さんのすかすかのレジュメに、須藤さんの几帳面な極細の赤ペンの字でぎっしり書き込みがされたものの写真だった。卒論生が恐れる、『須藤の火だるま』だ。

 現場が目に浮かぶ。火だるまを食らった神谷さんもずいぶんしょんぼりしただろうけど、これは須藤さん、レジュメを一目見た瞬間から、さぞや頭を抱えたことだろう。


 神谷さんの計画は、着眼点は面白いものの、準備期間の見通しや論点の整理がかなり甘かった。神谷さん自身が先月提出した卒業論文題目届――ずいぶんふわっとした題目で、明確化が進んでいないようなのが気になってはいたが――とも、見逃せないレベルの齟齬ができてしまうだろう。神谷さんが大学院に進んで修士をとるつもりで、一年半くらいかけてフィールドとの信頼関係を築いた上で書けば相当にいいものになる可能性もあったが、神谷さんは就職希望で内定もとっている。何より、あと一か月で調査と分析を終えて本文の初稿を書き上げなければいけないことを考えると、実現は難しい。

 と僕が思ったようなことが、丁寧かつ容赦ない筆致で、赤ペンで書き込まれていた。須藤女史、相変わらず有能。怖がられる存在ではあったが、面倒見の良さの裏返しなのである。


 神谷さんの気持ちも何となくわからなくもなかった。あちこち旅行したりバイトに精を出したりして、単位はいつもぎりぎり……というか、去年は語学が足りなくて卒業を逃している子だ。でも、どこにいっても可愛がられ憎まれないタイプの性格で、ゼミでの発言はなかなか冴えたものがあった。それに、雑談をしているときに彼女がバイト先や旅先であったことを話し始めるとめっぽう面白い。興味の焦点がちゃんと人間社会の構造に向けられている感じなのだ。新しいものを見聞きして、吸収する力は抜群だろう。

 正直、僕は彼女の卒業論文がとても楽しみだった。社会学専攻の学生生活が性に合っている子なのだ。ただ、この計画性のなさは研究者としては致命的だ。それは本人もわかっているようだった。そんな中で、学生生活を終えて社会に実際に出ていかなければならない現実に、最後のあがきをしたくなる気持ちは共感できた。



『神谷さん(CC須藤さん)



調査のレジュメ、須藤さん経由で把握しました。

須藤さんの言うとおり、このテーマは後一か月で追うのは難しいと思います。

着眼点はとてもおもしろいと思うけれど、この内容をフィールドで追って

インタビューするには、年単位の時間をかけて信頼関係を作る必要があります。

先月の質問紙の内容もとてもおもしろかったし、あれで十分に完成しています。

自由記述の内容を質的に検討したらかなり興味深い結果をひきだせるのではないでしょうか。

研究の規模、卒論の字数制限を考えても、今、大きく路線変更して不完全燃焼になるよりは、

まず、着地点の見通しの立っている内容できちっと書くのがいいと思います。

二年生の必修授業と、教授がD大で担当している一般教養の講義で

質問紙をとらせてもらえるように、教授に頼んであります。

来週中に自分でアポを取って、段取りを確認してください。

ここで踏ん張って書き上げれば、きっと面白いものになると思うから、頑張って。



吉見』



 担当の学生で知らない相手ではないとはいえ、こういうメールは気を遣う。

 一本書き上げたらどっと疲れてしまった。残りのメールは機械的に返信すればいいものだったが、作業を終わらせたのはもう昼近かった。


 対症療法の薬は一日三回で処方されている。食事をとって、薬を飲まないと。ピヨの餌もやらないと。僕が重い腰を上げると、ピヨはすっ飛んできて僕の足の間で8の字を描いて体をこすりつけた。現金な奴。ピヨの水がまだきれいなことを確認し、皿にフードを入れてから、自分用の冷凍食品を温め始めた。


 電子レンジの待ち時間に何気なく携帯を見ると、ちょうどメッセージの着信があった。

 思わず頬がゆるんだ。サトカさんだ。


『お食事とお薬、ちゃんととれてますか?』


『飲まなきゃいけないので、いつもよりまじめな時間に食事してます』


 返事はすぐに返ってきた。


『具合、少しはよくなりました?』


『せき、鼻水はかえって昨日よりありますけど、熱は下がったままですし、関節の痛みや寒気は落ち着いたかな』


 病気以外の話もしたくなった。


『土曜日ですけど、永井さんはお休みなんですか?』


『いえ、勤務日です。今は昼休みで。吉見さんはお仕事のお休みとれましたか?』


『週明けの月曜、火曜くらいまでは休めと言われました』


 温まったエビピラフの皿を持って、居室に戻る。台所は北向きで寒いのだ。


『良かった! ゆっくりした方がいいですよ』


『仕事のメールも片づけたし、おとなしくしてます』


『お仕事してたんですか? お忙しいんですね』


『どうしても急ぎのものだけです。後はのんびり積ん読の消化でもして過ごします』


『本お好きなんですね。今日のお供は何ですか?』


 そこ、つっこんでくるんだ。同好の士の気配を感じる。昨日部屋に入ったとき、嫌でもそこらじゅうに積んである本は目に入っただろうけど。


 そこまで考えて、一瞬ぎょっとして辺りを見回した。昨日は熱で朦朧としていて気にもしていなかった。不適切な物品は目に付くところに置いていなかっただろうか。


 とりあえず、深刻なものはなさそうだったので、僕は肩の力を抜いた。二、三日溜めてしまった洗濯物が部屋の隅のかごに入っているくらいは、許容範囲内だろう。


『軽いものでないと、頭に入ってこなさそうだから、ミステリーかな。

まだ、ロス・マクドナルドの『さむけ』を読んでなかったのが昨日ずっと気になってて』


『寒気がしたから思い出したんですか』


『変な話ですけど。後は、ネロ・ウルフものが何冊か』


『スタウトですね。アーチャーとアーチー、ごっちゃになりそう。私も好きです』


 恐れ入った。聞かれたから言っただけで、彼女がオールドな翻訳ミステリの話題にこんなに乗ってくると思っていなかった。『さむけ』はシリーズものの一冊で、主人公はリュウ・アーチャー。レックス・スタウトのネロ・ウルフシリーズで語り手役の登場人物が、アーチー・グッドウィンなのだ。さてはサトカさん、かなり読む人とみた。滅多にない偶然に嬉しくなってしまった。


『そろそろ、昼休み終わりなので行ってきます』


 僕はシンプルに『お疲れ様です』のスタンプを送った。


 私も好きです。か。


 もう一度聞きたい。もうちょっと違う状況で。


 冷めかかったエビピラフをスプーンですくいながら、そんなアホなことを考えてしまった。


 ピヨは一足先に食べ終わって、僕の膝に上がり込むと喉を鳴らして丸くなった。


 ピヨを抱えたまま、食べ終わったピラフの皿を押しやって、薬を飲み、積ん読ゾーンの山から文庫本を取り上げた。なんでも手の届く範囲内に収まる、自堕落な独り暮らしの典型みたいな部屋である。アーチャーとアーチー。私も好きです。耳では聞いていないはずのサトカさんの声が思い浮かんで、ロス・マクドナルドの重厚な文章に集中できるまでに、しばらくかかった。


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