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カナリア  作者: 藤倉楠之
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5 約束 ――S

 閉店時間がおした時点で、残業になるから先に夕食をとるように母には伝えていた。季節柄、仕事は常に忙しい。帰ってからはなるべく労力をかけたくないので、作り置きや炊飯器のタイマー機能で、温めて盛りつけるだけで食事の準備ができるようにしてあった。


 けれど、先日はヒーターもつけずにぼんやりしていた母である。薬の時間は遅くならないほうがいいから、食べて薬も飲んで休んでいてほしいとは思うものの、どうしただろうか。


 案じる気持ちとは裏腹に、足下は雲を踏むように現実感がなく、ふわふわしていた。一歩足を踏み出すごとに足の裏からのどの下のあたりまで、きゅんと何かが体の中で動く気がする。


 こんなことってあっていいんだろうか。


 熱が高いせいかあの時より少しぼうっとした様子だったけれど、穏やかでおちついた雰囲気は変わらなかった。また会えた。そして、連絡先を聞けて、また会える。


 吉見さん。アキサネさん。


 その名前を、心の中で転がしてみた。声に出さず口の中でつぶやいて、響きを感じる。


 あの人の、名前。


 家に帰る途中で見上げた星空がきれいだと思った自分に驚いた。何かをきれいだと思ったのは随分と久しぶりのような気がした。そんな贅沢は自分には似つかわしくないと思っていた。

 でも、想うだけなら、自由。なのかもしれない。


   ◇


 帰宅すると、リビングの電灯は一段暗くされていて、母は自室に引き取ったようだった。自分の夕食をできるだけ静かに用意しながら、母の飲み薬を確認した。昼の分も夜の分も、きちんと飲んでいる。

 ならば、おそらく薬の効果でしっかり寝付いて、多少物音がしても目は醒まさないだろう。安堵しつつ、手早く食事と洗い物をすませた。


 暖かい風呂に浸かると、ようやく気がゆるんで、色々ありすぎた一日の緊張がどっと毛穴から出ていくような気がした。ここで疲れをとっておかないと。


 明日はまだ土曜日だ。出勤日である。一番のお得意様である近くの内科医院の診察スケジュールが半日なので、今日ほど患者さんの数は多くならないはずだった。ただ、上のお子さんたちの学校が休みだから、カナエさんは休み。調剤は基本一人で回さないといけない。私の休みは、内科医院の休診と合わせて、水曜日と日曜日ということになっていた。水曜日はカナエさんが担当し、日曜日は調剤カウンターそのものが休みになる。


 吉見さんはどんなお仕事をされてるんだろう。買い物は、日曜日でいいのだろうか。明後日は無理として。


 熱は下がっただろうか。食事や薬はきちんととれたのかな。


 思いを巡らすと、止まらなくなった。


 こんなことは初めてだった。そもそも、親族や教師以外の異性とまともに話をする機会なんて、今までほとんどなかった。中学と高校は私立の女子校。薬学部ではクラスに男子は半分以下だったし、六年制で実習、実験もふんだんで厳しいカリキュラムが組まれていた上に、国家試験もある特殊事情から、サークル活動もアルバイトもほとんどできなかった。何より、一人暮らしが事実上不可能である以上、都心を越えて反対側にあるキャンパスに日々往復するだけで、生活時間はいっぱいいっぱいだった。


 それでも時間をひねり出して遊んでいる友人はたくさんいた。私自身が、そうやって期待されているまじめな学生像から逸脱するだけの気概やモチベーションを持てなかっただけだ。ただでさえ、高望みで記念に受験して、何かの間違いで入れたような大学だ。遊んだりバイトしたりして、成績が下がったら国試に落ちたらと思うと、とても遊び回るような心の余裕は持てなかった。


 とはいえ友達には恵まれて、サトちゃんは天然記念物だから、大事に保護しないと、なんて仲良くしてくれた子たちには言われたし、居場所がないような気持ちになったことはない。サトちゃんまで遊んじゃったら、ノートや代返頼める子いないじゃん、という言い方には、引っかかるものを感じないではなかったのだが。気心の知れた女友達とワイワイ過ごした生活は楽しかった。なにかが足りないなんて思ったことはなかった。


 でも、こんな風に訳もなくうきうきしたり、不安になったりするような気分を味わったことはなかった。


 免疫がないから、必要以上に気にしすぎてるだけ。


 たまたま、ご縁があった患者さんと、町で仲良くなった子猫を気にかけてるだけ。


 自分に言い訳してみたところで、その白々しさに笑ってしまう。


 あの日からずっと、忘れたことはなかったのだから。あの人のそばにいる間ずっと、鼓動は早鐘のようだったし、今だって頬は湯あたりかと思うくらい熱い。


 のぼせる前に、慌てて風呂から上がった。


 戸締まりをして自分の部屋に落ち着いたところで、充電器に差してあったスマホの通知ランプが、新着メッセージの色に光っているのに気がついた。


 半分以上は、登録した後ついつい解除し忘れている、ショップや通販サイトからの案内だ。友人から連絡が入ることもたまにはあるけれど。何の気なしにスリープ解除して、どきっとした。吉見さんだった。


『先ほどはありがとうございました。

 熱、やっと下がってきました』


 37.5度を示した体温計の写真つきだ。


 どう返そう? ああ、でも、既読をつけてしまったから、この内容で返さないのもおかしい。気軽な感じで、重くならないように。


 慌てている自分を自覚したら、なんだかおかしくなってしまった。免疫がないせいだ。憧れの先輩がちょっと振り向いてくれたティーンエイジャーみたいに、うろたえている。


 落ち着いて。先輩は普通に挨拶してくれただけ。あなたのことを特別に思ってくれてるっていうほどのことじゃないんだから。挨拶はちゃんと返したほうがいいよ。


 私はいつも、そんなことを言って友達をなだめる側だった。自分が舞い上がる側に立ってみてはじめて、あのときの友人の気持ちが少しわかった気がした。


『よかった! 少し楽になりましたか?』


 送ってみた。変じゃない……だろう。多分。


『まだ、だるいですけど』


 秒で返ってくる。スマホを片手に布団に横になっていたのかもしれない。


『普通の風邪よりはよほど辛いですよね。お大事にしてください』


『はい。良い子にして寝てます』


 あの大きい身体で言うところを想像して、くすっと笑ってしまった。


 一日に何回も声をあげて笑うなんて、学生時代以来だ。


『お休みできるなら、あと二、三日しっかり寝てた方がいいですよ』


『そうします。治ったら、買い物、本当につきあってくださいね』


 もちろんです、と打ち込みかけて、ふと、手を止めた。


 この買い物って、何なんだろう。デート?


 それとも、あまりに私に経験がないだけで、もっとどうでもいい些細なことなんだろうか。


 頬がかっと熱くなった。自分だけが一方的に舞い上がってるだけだとすると、相当恥ずかしい。


 でも、どう聞いたらいいんだろう?


 考えたけれど、うまい聞き方が思いつかなかったので、最低限の線引きをすることにした。


『もちろん、いいですよ。彼女さんや奥さんがいらっしゃらなければですけど。

 いらしたら、それこそいいお気持ちはなさらないでしょうから、私は謹んでご辞退します』


 送った瞬間、相当考えてから書いた文章のはずなのに取り消したい衝動に駆られて、きゅっと胃のねじれるような心地がした。


 きつい印象になってしまっただろうか。


 そもそも、もしかして、奥さんや彼女が本当にいたりして。


 あんなに優しくて話しやすくて落ち着いてて頼りがいのありそうな人だもの、決まった人がいても当たり前だろう。

 キッチンには、ひとり分の食器のほかは、グラスやカップがいくつかしかないようだったけれど。


『いませんよ、いたらこんな風にお願いするの、めちゃくちゃ失礼じゃないですか』


 慌てたようなメッセージが返ってきた。こちらが返信する前に次のメッセージも届いた。


『この人の部屋に入った異性なんて、ピヨと永井さんだけにゃん』


 不思議そうに見上げるピヨさんの写真が続けて届く。

 あの腹話術みたいな声で脳裏で再生されて、また笑ってしまった。


 あと、これはたぶん、デートってことになるんだろう。


 だとすると、人生初だ。

 さあ困った。


 何はともあれ、病人にはこれ以上無理をさせてはいけない。


『わかりました。とにかく、治してくださいね』


 おやすみなさい、のスタンプを送った。明日の仕事に備えて寝なければならないのに、その後はなかなか寝付けなかった。

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