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カナリア  作者: 藤倉楠之
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4 再会 ――A

「かなり、あ、さん?」


 高熱に浮かされて、とうとうこんなリアルな幻覚まで見るようになってしまったんだろうか。僕は、ぼうっとする頭を軽く振って、目を一旦ぎゅっと閉じてまた開いた。幻覚は、消えなかった。


 彼女は怪訝そうな顔をした。僕と同じくらい当惑しているようだった。


「カナヤ? いえ、人違いです。……あの、二週間前の金曜日に、猫を拾いませんでしたか?」


「拾いましたよ。猫、取りに来たんですか? もうすっかりここに馴れちゃったから、無理ですよきっと」


「いえ、猫じゃないです。薬を届けに来たんですけど」


「薬?」


 その時、足元をするりと通るものがあった。


 はっとした。ピヨだ。外に出してはいけない、迷子になるからと獣医に口酸っぱく注意されていた。


「ピヨまて!」


 にゃあ、と生意気な声がした。ピヨはカナリアさんのふくらはぎに首の後ろをすりつけて甘えていた。うらやましい。

 じゃなかった。 幻覚にしてはおかしい。


 妙な展開にめまいを覚えながら、僕は言った。


「とりあえず、猫が出ちゃうんで、玄関に入ってドア一旦閉めてもらえますか? 寒いし、話がよくわからない」


 カナリアさんはピヨを抱き上げると、おずおずと玄関のたたきに足を踏み入れ、後ろ手にドアを閉めた。ピヨは軽くもがいて彼女の腕から飛び降りると、さっと室内の定位置にもどっていった。


「大変失礼しました。駅前商店街の、ヒラサワドラッグの薬剤師をしています、永井と申します」


 彼女は、スイッチが切り替わったように姿勢を正して、バッグのなかから取り出した首かけ式の社員証を僕に示した。永井里佳、と書いてあった。フリガナは、ナガイサトカ。


 いよいよもって、夢でも妄想でも説明がつかない事態になってきた。


「それで、永井さんはどうしてここに?」


 僕はどんどん強くなってくる目眩をこらえながら、できるだけ普通の調子で尋ねた。


「十二時頃、うちの店でお薬をお出ししてますよね。そのとき、こちらのお薬をお渡ししなければいけなかったのに、薬局のほうに残っていまして」


 気づくのが遅くなって、大変申し訳ありませんでした、と彼女は頭を下げた。ドアを開けた瞬間の狼狽した様子が嘘のような、端正なしぐさだった。


 処方されていた解熱剤を薬局に忘れてきたらしい。プラカゴの中の薬を全部持ったはずだったが、取りこぼしていたのだろう。


 差し出された薬を受け取りながら、僕は必死で頭を整理した。いつもの五分の一のペースでしか、ものが考えられない。耳のなかで心臓が打つ音が激しく聞こえる。言葉も選べない。熱のせい、のはずだった。


「あの」


 口を開いた僕に、なんでしょう、と先を促すように彼女は首をかしげた。


「永井さん、猫の人ですよね?」


 彼女は大きく目を見開いて、うなずいた。先ほどまでのプロフェッショナルな落ち着きのマスクが、するりと剥がれ落ちた。あの日、途方にくれていた彼女と、目の前の女性がぴったり重なった。


 夢じゃない。妄想でもない。もう一度会えた。


 もし会えたら、聞かなくてはならないことも、言わなくてはならないことも、いくらでも考えていたはずだったのに、考えがまとまらない。寒気もとまらない。


「あの……待ってください、ちょっとだけ」


 僕はこらえきれず、その場にしゃがみこんだ。


「吉見さん?! 大丈夫ですか」


 慌てたような彼女の声。


 カッコ悪いにもほどがある。きっと彼女も困るだろう。ほとんど見も知らない男が目の前で高熱にふらふらしている図。たぶん、最悪。


 だが、案に相違して、次の彼女の行動は迷いがなかった。


「ちょっと失礼しますね。お水、飲んでますか? スポーツドリンクは?」


 ぱっと靴を脱ぐと、台所というほどもないスペースに買ってきたまま置いていたドラッグストア(彼女の職場ということになる)の袋に手を伸ばした。


「ああ、粉のやつ買われたんですね。開けてないですけど、まだ飲んでないですか? 何か、他に水分は?」


 帰宅したとき、飲みかけだった500ミリリットルのミネラルウォーターと、とにかく薬を飲んだ。その後は布団に倒れ込んでしまって、記憶がない。


 そう言うと彼女は眉をひそめた。


「やっぱり。それじゃ足りないです。ここのミネラルウォーター、開けますよ」


 彼女は、台所の隅に置いていた買い置きの二リットルのボトルを手に取ると、流しに置きっぱなしだったマグカップを手早く洗って、水を少し注いだ。床に座り込んだままの僕の横に膝をついて、濡れたままのカップを手渡してくれる。


 あのときと同じ、キンモクセイの香りがした。


 一口飲んで、そのおいしさに驚いた。よほど足りていなかったらしい。


 残りを一息で飲み干した。半分しか入っていなかったため、まだ物足りないくらいだ。

 少しめまいがおさまってきた。


 僕の手から空になったマグカップをとると、彼女は流し台に戻ってなにか作業をはじめた。


 一杯分を減らしたせいで少しゆとりができた水のボトルに、器用に粉末を流し込む。蓋をしたボトルを強く振って、あっという間にスポーツドリンクを作ってくれた。


「もう少し飲んだ方がいいです。胃がびっくりしないように、ゆっくり」


 二杯めのマグカップには、なみなみ一杯を注いでくれた。ゆっくり飲むのがじれったくなるが、ぐっとこらえた。身体が切実に水分を欲していたのがわかった。


「お食事、とれてますか」


「いえ、寝てました」


 帰宅してからは薬を飲むのが精一杯だったし、思えば朝から何も食べていなかった。普通の風邪ならもう少し自分で管理できていたと思う。食べなければという意識くらいは、ドラッグストアにいたときにはあった。正直、インフルエンザをなめていた。


「何か食べられそうですか」


「食べないとしょうがないですよねえ」


「夜の分のお薬を飲むまえに、食べられたら食べた方がいいですよ」


 レトルトご飯も買われてるみたいだし、という彼女の言葉を遮るように、突然、上がりかまちにおいてあった彼女のバッグのなかで、着信音が響いた。


 慌ててスマホを取り出した彼女は、目顔で、すみません、というようにこちらに会釈すると、電話に出た。


「はい。連絡が遅くなってすみません。少し道に迷ってしまって。……はい。お渡しできてます。もう帰るところですから、大丈夫です。……はい。お疲れ様でした」


 電話を切った彼女は申しわけなさそうな笑みを浮かべた。


「失礼しました。上司の確認の電話で」


「もしかして、ルール上は家に上がったりしてたらダメなんじゃないんですか?」


 彼女の立場が心配になった。僕がふらふらしていたからと親切心を出したばかりに、やっかいなことになるのではないか。僕がそう尋ねると、彼女は肩をすくめた。


「さっきの電話で、業務は終了ですから、今私がここにいるのは、私の自由意志です。あなたが帰ってほしいと思わなければ、病気の知人を仕事帰りに見舞っているだけです」


 結構理屈っぽい。しなやかな意志の強さをみた気がした。


「その……一個人として、猫の件で借りがあるので、夕ご飯くらい、ここにあるもので簡単にご用意させてもらえれば、と思ったんですが」


 彼女は不意に戸惑ったような困ったような表情を浮かべて、長いまつげの下から僕を見た。


「ご迷惑でしたら、すぐに帰ります」


「とんでもない、助かります」


 僕は慌てて言った。ぞくり、と背中に走ったものは、悪寒とは異質の感覚だった。


 その辺、どこでも開けて何でも使ってください、とお願いして、僕は半分這うようにして布団に戻った。そんな僕を尻目に、お気に入りの寝床がわりの段ボールから悠然と出てきたピヨが、カナリアさん、もとい、サトカさんの足にまつわりついて甘えた声で鳴き始めた。


「お腹すいてるの? あの、この子、餌は……」


「あ、まだだ。やります」


 起きあがろうとした僕をサトカさんは軽くにらんだ。


「寝ててください。まためまい起こしますよ」


 使い掛けのドライフードと皿の場所を僕から聞き出すと、ぐりぐりと身体をこすりつけるピヨをあしらいながら水とフードを皿に入れて床に置く。ピヨは駆け寄ると、一心不乱に食べ始めた。


 サトカさんが調理台に並べたのは、さっきドラッグストアで買ってきたまま、置きっぱなしになっていたレトルトの白ご飯、野菜ジュース、卵。申し訳ばかりの食器が入っているつり戸棚に一緒に入れてあった粉末のポタージュスープ。同じところに入っていた、ラーメン用のどんぶり。最近は最低限の自炊しかしていないので、ろくなものがない。


 どうするのかと思っていたら、ご飯を温め、丼に入れて、野菜ジュース、ポタージュの粉末、溶き卵と、何度か電子レンジに掛けながら合わせていき、あっという間にトマトリゾットの玉子とじを作ってくれた。動きに無駄がなくて、見とれるほど手際がよかった。……見とれていたのは、すっと伸びた背筋や柔らかそうな腰のラインにではない。断じて。


「熱、まだありますか」


 布団の横の座卓にリゾットを置き、サトカさんは心配そうに僕をのぞき込んだ。


 君に? って、昔のトレンディドラマじゃあるまいし。熱にぼうっとした脳裏に浮かんだ実にレベルの低い思いつきを軽く頭を振って追い出しながら、僕は彼女に言われて脇に挟んでいた体温計を取りだした。三十八度五分。


「お昼に抗インフル薬を使ってますから、そろそろ下がってくるといいんですけど。まだ高いですね」


 それでもたぶん、ピーク時よりは少し下がっているのだろうと思う。僕は礼を言ってスプーンをとった。


 ピヨが無言のまま、当たり前のような顔をしてサトカさんの膝に図々しく上がり込んだ。彼女が座るのを待ちかまえての犯行に違いなかった。


 サトカさんは嬉しそうにピヨの顎の下をさすってあやした。本当に猫が好きなのだ。


「君、お名前は? 決まったの?」


 一人前の相手に聞くように、猫に尋ねる。


「わたしのなまえは、ピヨだにゃん」


 腹話術士のような甲高い声で言ってから、しまった、と思った。引かれるかも。反射的に身を縮めた僕をよそに、彼女はこらえきれないとったようすで低い笑い声をもらした。


「何ですかその特技。……ピヨって? ひよこのピヨですか?」


 この、およそクオリティの低い動物腹話術で笑ったのは、家族をのぞけば彼女が初めてである。普段は、うっかりやらないように封印している癖なのだ。僕は、熱のせいではなく赤くなった顔に、できるだけ平静な表情を浮かべて言った。


「そうです。あの夜、段ボールにタオルを敷いて寝かそうとしたら、夜通し甲高い声でピーヨ、ピーヨって鳴かれまして」


 ピーヨのところで、裏声を使って「ピーヨ」と「にゃーお」の間ぐらいの声を出すと、彼女は吹きだした。


「完全に言い方じゃないですか」


 ピヨはまるで他人事で、サトカさんの膝を前足でこね回してはのどの奥で低い音を立てている。


「ピヨちゃん、いい名前ね。あなたいいお家に来たねえ」


 ピヨの耳の後ろを掻く。


「それがそうでもないんですよ」


「どうしてですか?」


 ねぐらを買いに行く時間の余裕がなくて、段ボールのままであることを説明した。


「それに、どんなものを買ったらいいか見当がつかなくて」


 僕はせいいっぱい何でもない風に、しかし内心は清水の舞台から飛び降りる覚悟で言った。


「このインフルエンザが治ったら、永井さん、一緒に買いに行ってくれませんか」


 彼女はぱっと顔を上げて僕を見た。また、立ちすくんだ鹿のような目になった。


「こいつを拾うことになったご縁ってことで。あ、もし、つきあってる人とかがいるなら、彼はいい気持ちがしないでしょうから全然断ってくれていいんです。でも、もし、ダメでなければ……」


 ひがみみたいになってしまった。高熱と、十何年ぶりかの一目惚れに浮かされている脳が思いつくことなんて繊細でもスマートでもない。


 何かにおびえたように身をこわばらせたまま、彼女はわずかに首を振った。


 怖がらせてしまったんだろうか。それとも、震えるほど嫌だとか。

 僕は少なからず傷つきながら、無理に笑顔を作った。


「すみません、変なこと言って。聞かなかったことに」


「……あの、違うんです。いないです。ダメじゃないです」


 一言目が出た瞬間に彼女の中で何かの堰が壊れたみたいに、早口で言った。


「え? あの、じゃあ」


「行きます。猫飼ったことないので、役に立たないかもしれませんが」


 じゃあ、連絡先を交換しましょう、と提案して、SNSのアカウントを教え合った。僕はたぶん、バカみたいにヘラヘラしていたと思う。それは、高熱のせいである。断じて、それ以外のいささか残念な理由はない。ないと、思いたい。

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