3 忘れ物 ――S
「え、頓服だけ残ってるんですか?」
思わず聞き返してしまった。
本来の閉店時間を大きく過ぎて、やっと最後の調剤の患者さんが店を出ていき、戦争のような一日が終わった。患者さんがまだいたため、先にレジを閉めた食品・生活用品部門の担当がしまうにしまえず、カバーだけ掛けて置いていった外の移動式看板や特売のワゴンを片付けていたとき、申し訳なさそうに声をかけてきたのは、薬剤師としては十年ほど先輩のカナエさんだった。なんでも、カナエさんの担当した患者さんが持ち帰り忘れた薬があるのだという。
「そうなのよ。頓服と、他の薬と、薬袋を分けるでしょ。本来は手提げには一緒にいれるはずなんだけど」
何かの手違いで、別々の手提げにわかれてしまったのだという。
「それで、大きい袋だけ持っていったんですか、その方?」
「そうみたい。カルテで見る限り、若い男性だったはずなの。正直、あの時間帯はもう戦場すぎて、どんな人だったか顔は思い出せないんだけど」
「頓服がでてるってことは、急性の?」
「流行りのインフル」
彼女は今日何度となく私自身も袋に詰めたインフルエンザの治療薬の名を挙げた。
「あれが出てる。電話をかけても応答がないんだけど、高熱で出られない状態かもしれないでしょう。訪問して手渡ししないと、頓服は、解熱鎮痛だから多分今夜必要だよね」
「ですよね」
深くうなずいてしまった。
「私のミスで本当に悪いんだけど、永井さん、訪問代わってもらえないかなあ。今日、末っ子の保育園のお迎え、もう延長タイムもギリギリで」
絶対埋め合わせするから、と手を合わせられてしまうと弱い。普段は絶対自分でカバーしようとするカナエさんが、二年目のひよっこである私に頭を下げるのはそれだけで異常事態だった。
「いいですよ。片付けも後はやりますから、ケイちゃんのお迎え、行ってあげてください」
「ありがとう! 本当にごめんね」
口癖の、本当に、を連発しながら、カナエさんはあたふたと店内に消えていった。
表のシャッターをおろして私も戻ると、店内の明かりはほとんど消え、残っていたのは店長だけだった。
「カナエさんの患者さんの頓服、永井さんが届けてくれるんだって?」
「はい。近くですか?」
店長は私の自宅からさらにもう少し山側に入ったあたりの町名をあげた。
「地図、プリントアウトしといたから。届け終わったら電話して。その時間まで、残業つけとくよ。その後は直帰で大丈夫」
十五分後、身支度をして訪問の薬を受け取り、店を出たころには、晩秋の夜の空気が冷たくあたりを満たしていた。
二週間前、子猫が逃げ込んでいた家の隙間の前を通って、交通量の多い本通りに向かった。
商店街のある旧街道筋からほぼ平行に走っている本通りの方向に行くには、いくつも路地があって、どのルートを通ってもだいたい同じ距離だ。これまでは、信号のタイミングなどで気ままに道筋をとってきた。でも、あの日以来、足はかならずこの路地に向かってしまう。
もう一度、会えたらどうするだろう?
私は夜空を見上げて、自嘲のため息をついた。息がわずかに白く漂う。そんなの、あるわけない。
でも、もし会えたら。
空想だけなら、自由だ。
◇
店長がプリントアウトしてくれた地図は、戦前からの住宅街の、一戸建てが立て込んでいる地域を示していた。坂道が多く、見通しがききにくい。少し迷って、ようやく目当ての建物らしきところにたどり着いた。
古い木造の建物だった。明かりがついているのは二階の一室だけ。その部屋が、目指す住所の部屋番号だった。
手元のメモにある名前は、吉見彰実。これまでの調剤業務では見覚えがなかった。よくくる患者さんはもうかなり覚えたはずだ。多分、滅多に病院にはかからないタイプの人なんだろう。
手書きで『吉見』と書かれたプレートの下にあった、呼び鈴らしきボタンを押してみた。音がしない。扉の防音性がいいようにはお世辞にも見えないので、呼び鈴が壊れているのだろう。仕方なく、軽くノックしてみた。
「聞こえてるのかな」
明かりがついているのだから、在宅はしているのだろう。一般的なインフルエンザの症状から考えて出かける元気があるとも思えない。
「すみません、ご在宅ですか!」
呼び掛けても応答がないので、仕方なく何度か強くノックした。四、五回目のチャレンジで、ようやく、扉の向こうに人が動く気配がした。
「すいません、寝込んでいて」
ぼんやりした声とともに、扉がこちらに向かって押し開かれる。その隙間から覗いた姿に、息を呑んだ。
くしゃっと乱れた癖のある前髪、今は少しぼんやりとしている目元。何度も脳裏に描いていた、意志の強そうな顎のラインと、対照的に、なにかに遠慮するみたいにかすかにすぼめられて猫背ぎみの肩。
あのときの、猫の人!














