終 白い花 ――A
冷蔵庫にしまってあったチョコレートをお茶請けに、コーヒーをしっかり時間をかけて一杯飲んでから、僕とサトカさんは外にでた。
さっきと同じ、川沿いの遊歩道を、今度はサトカさんの家に向かって歩いた。
靴擦れをおこしてしまっていたサトカさんに、タクシーで送ろうかと言ったけれど、ゆっくり歩いてもせいぜい十五分の距離をですか、と一蹴されてしまったのだ。かわりに、サトカさんのバッグと靴は僕が持って、サトカさんは僕のゴムサンダルを履いている。せめてこのくらいはさせてくれないと、おんぶかお姫様だっこしますよ、と迫って、やっとサトカさんも折れてくれた。人に頼るのがとことん苦手な人なのだ。
「さっきのチョコレート、すごくおいしかったです。どこのですか?」
「僕も初めて食べたんですけど」
僕は店の名前を挙げた。都心のデパートに日本で唯一の直営店を構える、有名な海外の店だ。この前、須藤さんと大島にあげるチョコレートを買ったときに、つい味が気になって自宅用を買ってしまったのだ。サトカさんと一緒に食べたくて。
「そんなすごいのだったんですか」
私ぜんぜん気がつかなくて普通に食べちゃった、と彼女は苦笑した。
「それが本来なんじゃないですか。僕もすごくおいしいと思いましたけど、それはそれとして、店の名前で味や食べ方が変わるわけでもないでしょう」
「でも、態度を変えないっていうのも正しいようで難しいことです。名前があれば期待してしまったり、周りの評価が気になったり。もしも、あんまり好きじゃないな、と思ったとして、それを言えるのかな、それとも自分の味覚音痴をさらすことになると怖いから言えないって思うのかな」
「その味を好きだと思った周りの人の気分を尊重して、言わないっていう選択肢もありますよ」
そうか、と彼女は笑った。
「正直であることが価値基準のすべてではないってことですね。
……私、いつか少しだけ言ったかもしれないですけど、よく思うことがあるんです」
「何ですか」
「彰実さんはいつも私の話を最後まで待って聞いていてくれるし、違う見方を言ってくれる。だからなのか、わからないですけど、こうやって彰実さんとお話ししていると、私の中の『べき』がどんどん消えていくんです」
「べき?」
「何々ならこうすべきだ、ああすべきだ、の、べき。そうやって聞いてくださっているうちに、私はどんどん自由になって、思ったことをそのまま話せる気がします。もちろん、私が何かの役割に戻ったらまた、『べき』はついて回るんですけど、一度自由になった後は、戻ってきた『べき』と、以前よりもう少し対等に付き合える気がするんです」
ちょっと自己満足っぽくて恥ずかしいんですけど、とサトカさんは照れたようにほほえんで目を伏せた。
僕は思わず足を止めた。不覚にも、かっと目の中が熱くなって、喉にかたまりが詰まったような気がした。瞬きを強く繰り返した。
一番大事な人を救えないなら吉見さんにとって学問って何なんですか。
須藤さんにそう言われてずっと考えてきた。
呪いがかかってるんです。解けるのは吉見さんだけです。
じゃあ、僕には何ができるんだろうか。
考えても考えてもわからなくて、がんじがらめになっていた。
その答えを、思いがけず手のひらの上に載せられたような気がした。
僕がサトカさんに出会ったことに意味があるとするなら、今のサトカさんの言葉は僕にとって最高の賛辞だ。この一言で生きていける言葉だ。
サトカさんは二、三歩歩きかけてから、僕の異変に気がついて振り返った。
「どうしましたか? あ、虫とか入りました? 小さいの。痛いですよね」
ハンカチを差し出してくれる。
虫、ね。
今の僕には君しか目に入らない。
ふた昔前の大げさな恋愛映画だって採用しないようなこっぱずかしいフレーズだったので、僕はこみ上げてきた笑いと一緒にその思いつきをかみ殺した。礼だけを言ってハンカチを借り、いもしない虫を取るていで目頭を押さえた。
「お正月はどうなさるんですか?」
話題を変えようと僕は再び歩き出しながら問いかけた。
「うちは、母とのんびり、たぶん黒豆を煮ます。叔母がきっと一度は襲撃してくると思いますけど。
……彰実さんは?」
「三が日は実家に戻って、祖父に顔を見せに行ったり、研究協力者の猟師さんたちにご挨拶にまわったりします。でも、それ以外の日で会えますか。会いたいな」
「いつにしましょうか」
サトカさんはそう言うと僕を見上げて微笑んだ。初めて出会った日と同じ、闇の底に白い花が咲きこぼれるような笑顔だった。














