2 インフルエンザ ――A
今年のインフルエンザの流行は、例年より少し早かった。こういう年は、予防接種が間に合わなかった患者が多く、流行がひどくなる傾向があるのだという。
商店街のドラッグストアをかねた小さな調剤薬局も、そんな世間の情勢から逃れることはできず、待ち合いスペースの椅子に座りきれないほどの患者でごった返していた。
夜半からの悪寒はあっという間に高熱に展開し、朝一番で行った診療所で一時間半も待たされてついた診断はインフルエンザ。予想通りだった。
僕はあらためて大学の研究室に連絡をいれ、数日間休むことを伝えて、その間のどうしても後回しにできない対応を同僚に頼んだ。熱が多少下がれば、メールの返事くらいはできるだろうと言い添えて。
この時期、卒論生や修論生は実験や調査が大詰めだし、入試関係の仕事も度々入る時期だ。一番下っぱの教員としては、休んでいる場合ではないのだが、インフルエンザではどうしようもない。うつせばかえって恨まれるくらいのものだ。
節々が痛み、思うように動かない身体を引きずりながら、日用品や食品の売り場で最低限の必需品を集めた。スポーツドリンクの粉末、レトルト食品、卵、野菜ジュース、ティッシュ、マスク、絶対に忘れてはいけないのは猫の餌。
独り暮らしが長くなれば、誰も世話してくれない病時の生活の知恵も身に付いてくる。
熱でもうろうとした頭は、まだひどく痛んだ。レジを抜け、処方箋を預けていた調剤カウンターにのろのろと向かった。
何人かいる薬剤師も、事務員も、マスクをしてせわしなく立ち働いていた。見るともなく見ていた僕は、はっとした。奥にちらりと見えた長い髪の女性が、彼女に似ていたような気がした。すぐに調剤スペースに消えていった女性は、淡いブルーの上衣を着ていた。この店の薬剤師の目印だ。
僕は自嘲気味のため息をついて、満席のベンチの横の柱にもたれかかった。
あれからもう二週間たったのか。
今ではすっかり元気になったメスの子猫に僕は、ピヨと名前をつけた。怪我はさほど深くなく、保護した直前のものだったらしい。手当てが早かったせいできれいに早く治ったのだと、獣医には言われた。環境が変わって不安だったのか、保護当日は夜通しピヨピヨと聞こえるくらい高い声で鳴き続けたが、その晩徹夜に近いパソコン仕事があったため、作業中ずっと膝にのせてひたすら撫で続けた成果か、すっかりなついて、翌日には餌もよく食べるようになった。
だからピヨだと周囲には説明している。少し長めのグレーがかった茶色の毛並みは、ひよどりの羽毛のようだったし。
だが、本当はちょっとだけ違った。
猫を見ると、いや見なくても、あの晩傘を傾けて路地にしゃがみこんでいた彼女の姿が脳裏に浮かんで離れない。傘のレモンとスカートの黄色、ほっそりと華奢な体格のいずまいは、僕にカナリアのイメージを連想させた。
猫を飼うことになったと周りに話したときも、彼女のことは、誰にも言っていない。カナリアさん(連絡先どころか名前も聞けなかった彼女を、僕はそう呼ぶことに決めていた)の猫だからピヨ。こっぱずかしくて、誰にも言えない、僕のささやかな秘密だった。
僕はいるはずのないところに無意識にカナリアさんを探してしまうようになった。街ですれ違う、似たような背格好の女性に知らず目を止めてしまう。見つめて、人違いに気づいて、慌てて目をそらす。怪訝そうに見返され、ばつの悪い思いをしたことが何度もあった。
片想い中のティーンエイジャーか。もう三十に手が届こうというのに、何の成長もなくて嫌になる。そもそも、あの時たまたま一度出会っただけで、おそらくこの大きな街では二度とすれ違わないだろう。
自分の番号が呼ばれたのが聞こえて、僕は寄りかかっていた柱から身体を起こした。
ショートヘアの中年の女性が、薬袋を入れたプラカゴを持ってカウンターの向こう側に現れた。妄想も誤解も介入する余地のない相手に、一方的に失礼な落胆と安堵を感じながら、僕はカウンターへと重い足を運んだ。